国際的に活躍する国内外のアーティストを紹介する祭典として2010年の開始以来4回目を迎え、その存在が確固たるものとなった「あいちトリエンナーレ」。ところが今回のトリエンナーレは、期せずして現代美術に関心のない多くの人にもその名が知られることとなった。「不自由」展の、従軍慰安婦を象徴するキム・ソギョンとキム・ウンソンによる《平和の少女像》(2011)などに反感を覚えた人々からのクレームが殺到し、開幕2日後の8月3日に「不自由」展は閉鎖。政治家の発言や芸術監督津田大介氏の知名度もあいまって、このできごとは広く報道された。
しかし、「国際展としての質」という観点から考えたとき、もっとも深刻な影響は「不自由」展の閉鎖後に数々の参加アーティストが展示を中止したり、表現を変更したことだ。筆者は開幕前のプレビューから「無傷」の状態でトリエンナーレ全体を見ることができたのだが、幻の展示となったものがあることは残念だ。もちろん、検閲をめぐる問題に対してアーティストが直ちに異議申し立てをし、行動に移したこと自体は理解できる。しかし作品そのものの価値が変容したことへのジレンマは否めない。作品が変更される前と、された後を比較し、改めてその意味を考えたい。
展覧会と作品にどのような影響が
まず、韓国を代表するアーティストであるイム・ミヌクとパク・チャンキョンが、8月5日という「不自由」展閉鎖後の早い段階で自らの展示を中止したことはショックだった。
二人の作品に共通するのは、韓国と北朝鮮という対立する関係性に焦点を当て、メディアによる操作を批判する態度だ。今回のトリエンナーレのテーマである「情の時代」、すなわち感情や情報に翻弄される人間のあり方を示す好例である。ヴァーチャルな情報を通して日韓のネガティブな関係が強調されている今だからこそ、知的で冷静な韓国人アーティストが示す表現の意味は大きかった。
また、参加作家の男女比の偏りを是正し、男女平等を目指すことは今回のトリエンナーレの重要な目標だった。その意味で、本展においてフェミニズム・アートを代表するモニカ・メイヤーの作品内容が大きく変更されたことは残念だった。
メイヤーの《The Clothesline》(1978年から展開)は鑑賞者が参加することで成立する作品である。女性差別やセクハラに関する質問を記した用紙に鑑賞者が自身の体験を書き込み、女性の労働を連想させる洗濯の「物干し」(clothesline)のロープに紙を吊るしていく。書くことで参加者は自身の体験を公表し、その文字を読むことで見る人は他者が受けた傷を想像する。筆者も何気なく用紙に書き始めたところ、途中で感情が高ぶってしまった。「たいしたことない」と気持ちに蓋をしていたハラスメント体験が、文字にしてみると涙が出るほど悔しく理不尽だったことを思い知った。
メイヤーは事件後作品を改変し《沈黙のClothesline》として見せている。参加者が書いた紙は全て回収され、問いを記した紙が床に散乱している。さらに検閲への抵抗と連帯を示すステートメントが掲示された。
社会派のメイヤーであれば当然ともいえる意思表明ではあるが、筆者が実感した心が震えるような体験が他の鑑賞者に閉ざされてしまったことは悔やまれる。生々しい体験こそがこの作品の本質なのだから。
ペルー出身でオランダを拠点とするクラウディア・マルティネス・ガライのユニークな作品の映像上映が中止されたことも非常に残念だ。彼女の作品《・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・》(2017)は、陶器のオブジェのインスタレーションと《あなたを生き継ぐ》(2017)と題した映像が組み合わされたもの。映像は詩的なナレーションによって語られるストーリーとともに、砂丘や洞窟のような魅惑的な風景を映し出す。しかしよく見ると、これらは陶器の表面や内側を撮影して作り出された景色であることがわかる。
本作は、作家がベルリン民族学博物館で目にした1200年以上前の陶器に着想を得たものだという。それはいけにえを捧げる風習で知られるペルーのモチェ文化の遺物で、いけにえの男性の姿がかたどられていた。南米における植民地支配の歴史と文化の伝搬のあり方をテーマにしてきたガライは、いけにえ(犠牲)となった一人の男に焦点を当て、彼に起こったできごとを想起させる物語を紡ぎあげた。そこには為政者とは対局の、社会の末端に位置する人間に注がれるまなざしがある。
「あいち」だから成立する作品
優れた展示のいくつかが中止になったり不完全な状態になったことは確かだが、見るべき作品は数多くある。例えば今後再現が不可能で、ここでしか見ることのできない作品として必見なのは、シンガポール出身のホー・ツーニェンによる《旅館アポリア》(2019)だ。
豊田市にあるかつての料亭旅館「喜楽亭」一軒を丸ごと使った贅沢な映像インスタレーションである。大正期に建てられたこの旅館は、産業界や軍関係者など時代によって変わる上客を相手に賑わってきた場所だという。ツーニェンは、特攻隊「草薙隊」の隊員たちが出陣前に喜楽亭に宿泊したことを知り、戦争にまつわるテーマを読み解きながら作品化した。
さらに草薙隊の記録とともに焦点が当てられるのは文化人と戦争との関係である。漫画『フクちゃん』の作家横山隆一が、戦意高揚のために制作したアニメーション映画や、軍報道部としてシンガポールに赴任していた小津安二郎の映画に現れる軍歌を歌う人や敬礼のイメージが、古い旅館の暗闇に立ち現れる。亡霊がよみがえったかのような臨場感とともに、見る人は過去と現在を行き来する旅にいざなわれる。
一方、藤井光は、植民地政策や戦争を通した日本とアジア諸国との関係を「再演」という手法を用いて現在に浮かび上がらせる。
岩崎貴宏は、名古屋市内の四間道にある江戸時代の商家の蔵の中に、堆積と崩壊を同時に感じさせるような迫力あるインスタレーションを作り上げている。作風は異なれど、見る人の時間の感覚に揺さぶりをかける力強さは、ツーニェンや藤井と共通する。
レトロな町並みが残る名古屋・円頓寺にあるビルの狭い部屋の一角を使ったキュンチョメの《声枯れるまで》(2019)は、性的マイノリティ当事者の声が切実に伝わる印象的な作品である。深刻な問題に軽やかなユーモアが漂う表現は、キュンチョメ独特の持ち味だ。
アートは自らの目で見るもの
アートは実際に自身の目で見て、体験しなければ伝わらない。そして優れた作品には政治性や批評性が備わっている。アーティストは時を超える物語や隠された現象を視覚化し、現代に通じる問題提起を行う。その表現は抽象的で豊かな曖昧さをたたえ、詩的かつ美的であり、解釈は見る人に委ねられている。それはジャーナリズムとは一線を画すアートの表現力なのである。
報道の文字やネット上の言説からは決してわからない、選りすぐりのアーティストによるプロフェッショナルな表現と出会う「あいちトリエンナーレ」に、多くの人が実際に足を運び、作品そのものを味わってほしいと切に願う。
一方、トリエンナーレ参加アーティストたちが、中止された展示の再開などをめざすプロジェクト「ReFreedom_Aichi」をスタートさせた。モニカ・メイヤーの作品コンセプトを受け継いだ#YOurFreedomプロジェクトも展開されている。「あなたは自由を奪われたと感じたことはありますか?あるいは不自由を強いられていると感じたことはありますか?それはどのようなものでしたか?」という質問への投稿を募るもの。アーティストたちのアクションによって今後変化が起こる可能性が期待される。