「Lifetime」(生涯)というタイトルが示す通り、自身を含む人間の人生の旅路をたどるかのように、展覧会は《出発》という文字を浮かび上がらせる青いLEDライトを使った作品(2015)とともに始まり、《到着》という赤い電球の光の作品(2015)で終わる。しかし、夜の街で見かけるようなやや軽薄な電飾は、ボルタンスキーの冗談か皮肉のようにも思える。それは彼の作品群が見せるトーンとはあまりにも対照的だ。その暗く重い死の影がつきまとう雰囲気と。
《D家のアルバム、1939年から1964年まで》(1971)は、作家が友人に頼んで手に入れた家族アルバムの写真を拡大し、年代順に展示した作品である。ごく平凡な家族のイベントの数々の記録が並んでいる。きわめてプライベートなできごとを綴ったアマチュアによるスナップショットは、何ら特別な事件や意味を伝えるわけではない。しかし、他人の人生を見る私たちに、好奇心と同時に居心地の悪さを感じさせるのはなぜだろうか。
ボルタンスキーは変哲のない家族写真を、作家を含むあらゆる家族の歴史を代表するサンプルとして提示する。D家の写真は、他の誰かの家族写真だとしても不思議ではない。誰かの人生と自分の人生の境界が曖昧である状態は、ボルタンスキーの重要なテーマとして繰り返される。いささか不吉な予感が漂うこの表現は、彼の出自と深く関わっている。
1944年9月、ナチス・ドイツからパリが解放された直後にボルタンスキーは誕生する。このとき彼の両親は離婚中だった。ユダヤ人であるボルタンスキーの父親をホロコーストの厄災から逃すべく、両親は計画離婚し、父は床下に隠れて戦禍を生き延びたのだという。
その後ボルタンスキーは、両親を訪ねてくるユダヤ人たちの強制収容所での忌まわしい体験を聞きながら育った。彼の両親は家族が離れ離れになることを恐れ、全員で一つの部屋に寝ていたという。ホロコーストのサバイバー家庭に生まれたボルタンスキーは、自身は体験しなかった不安と恐怖の記憶を受け継ぎながら育ったのである。(1)
大量死のイメージは、ボルタンスキーの多くの作品に現れる。白黒の子供の顔写真に光を当てる《モニュメント》シリーズや、ピンボケの子供の顔写真を、骨壺を思わせるビスケットのブリキ缶の上に配した《聖遺物箱(プーリム祭)》シリーズ。
おびただしい数の色とりどりの服が吊るされた《保存室(カナダ)》(1988)、黒い衣服を積み上げて作られた《ぼた山》(2015)。
ぼんやりと映し出される子供の顔や服の山が、奪われた命の扱われ方を残酷に示す。「ナチスの最大の犯罪は、多くの人を殺したことではなく、百万人の犯罪を産業プロセスに変えたこと」とボルタンスキーは述べる。(2)
ホロコーストの「被害者」を想起させる作品に対して、《三面記事》(2000)は倫理的により複雑さを伴う。新聞から切り取って拡大された100枚の写真には、悲劇的な事件に関わる人々の顔が写っている。
しかし、そこには加害者と被害者両方の顔が混ざっているのだ。「人は他人を殺す権利を与えられると行使してしまうものだ」とボルタンスキーは語る。戦時中、ヴィシー政権下でユダヤ人はペットを飼うことを禁じられていた。隣人は良い人だったが、ボルタンスキー家の猫が隣人の家でおしっこをしてしまった際に「今日中に猫を殺さないと警察に通報する。そうすればあなたは逮捕される」と脅してきたそうだ。「兵士は子供にキスした2時間後に他の子供を殺すことをやってのける」と彼は言う。(3)
私たちは誰もが、加害者にも被害者にもなりうる。強制収容所で死んだあの子は自分だったかもしれない。あまりにも残酷な命の偶然と必然、その軽さとかけがえのない重さを、ボルタンスキーは私たちに突きつける。
終戦から74年経ったこの夏。無差別に奪われた多くの命、加害と被害、繰り返される悲劇を思う。それを遠い過去に起こったこととしてではなく、いま目の前にある自分自身のこととして向き合いたい。
参考文献
(1)(2)中井康之「クリスチャン・ボルタンスキーと神話」『クリスチャン・ボルタンスキー−Lifetime』(水声社、2019)
(3)クリスチャン・ボルタンスキーによるアーティスト・トークより(国立新美術館、2019年6月12日)