「特に重要なのはブランディング」
熊野古道の入り口、和歌山県のJR紀伊田辺駅前に着くと、大きなスーツケースやバックパックをかついだ海外からの旅行者がひっきりなしに出入りしている建物があった。田辺市熊野ツーリズムビューロー(ビューロー)だ。
中に入ると、熊野古道の地図や案内が書かれた無料パンフレットが並ぶ。旅行客はバスや列車の便を確認したり、歩くルートを確認したりしている。
「Where are you from?(どこから来たの?)」。職員やボランティアが気さくに英語で話しかける。
熊野古道が世界遺産に登録された翌年の2005年、紀伊半島を東西に結ぶメインの道・中辺路周辺の市町村が合併して田辺市が生まれた。世界遺産登録を機に、熊野古道を世界に売り出そうという機運が高まり、2006年には5観光協会で構成する新組織としてビューローが設立された。
だが、熊野古道の西側の田辺市は東側の旧本宮町などと違って観光が中心の地域ではなく、海外にこの地域を売り出すノウハウはなかった。そこで、事務局長が白羽の矢を立てたのが、当時カナダにいたブラッド・トウルさん(50)だった。
ブラッドさんはカナダ出身で、1999年から3年間、外国の青年を自治体の国際交流員などとして招く外務省のJETプログラムで、後に田辺市と合併した本宮町の教育委員会で働いた。休みの日になると、地元の人も歩かないような山道を歩いて過ごしていたことを、職員たちは覚えていた。
ブラッドさんは「自然豊かな山道が気に入って、近くの裏山から入り、ここに道がある、あそこにも道がある、と見つけながら歩いていた。当時はそれが熊野古道だとは、全く知らなかった」と振り返る。
請われて田辺市に戻ったブラッドさんは、ビューローの人たちとともに、住民との話し合いから始めた。地元に住む人は何を求めているのか。どうすれば無理なく観光客を受け入れられるのか。地元住民から真っ先に話を聞いたのは、苦い経験があったからだ。
2004年、熊野古道の世界遺産への登録が決まると、大手旅行会社が組んだツアーで、連日40人乗りの大型バスが何台も来るようになった。観光のインフラが乏しい町に押し寄せた観光客に、地元は疲弊し、大量のゴミにも悩まされた。
この経験は、一つの教訓になった。「大都市で考える大型のツアー観光ではなく、地元に合う観光のやり方を草の根で作ろう。そうすれば、新しい日本の観光のモデルになるはずだ」
集落ごとにワークショップを立ち上げ、住民と目指すものを話し合った。「一時のブームより、地域の歴史や文化などのルーツを大切に」、「乱開発より保全と保存」、「誘客より地域や住民生活に配慮した持続可能な観光」、「マスより個人」とうたい、「目的意識が高い個人旅行者をターゲットに」と決めた。目標の観光客数すらあえて掲げなかった。当時はどれも先端的な試みだった。
ブラッドさんは「特に重要だったのはブランディングだ」と話す。「昔ながらの日本の聖地であり、神秘的な日本の精神文化を感じられるのが熊野古道。日本の田舎を歩き、オーセンティックな(本物の)日本の生活を味わう旅」と売り込んだ。
狙ったのは、アウトドア好きで、大都市や有名な観光地ではない場所を歩きたがる欧米の個人客だ。ブラッドさんらはオーストラリア、イギリス、フランス、ドイツなどの旅行会社などに営業に回った。
ミシュランガイド本で三つ星獲得
熊野古道の旅は、1日に歩く距離によって、宿泊場所や利用する地元バスが変わり、宿から宿へと荷物を移動させる必要もある。日本語でも情報収集は簡単ではないが、英語でこうした手配を済ませられるサイトはそれまでなかった。
2010年、ビューローは国内の旅行商品を企画・主催できる第2種旅行業を取得し「KumanoTravel」を設立。宿から荷物の運搬まで手配できるサイトを作った。現在、手配スタッフ12人が海外観光客の旅程を一人ひとりに合わせて作っている。
2008年には、先に世界遺産の巡礼路となっていたスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ市と提携し、共同プロモーションを始めた。2015年からは共通する巡礼手帳を発行し、二つの巡礼路を歩くと「共通巡礼達成者」とするプロジェクトや、職員の交換も始まった。
こうした地道な活動が実を結び、2011年、日本旅行のガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で最高評価の三つ星を獲得。さらに同年、英語の旅行本として知られる「ロンリー・プラネット」に掲載された。これが海外で広く知られるきっかけになった。
ビューローの旅行予約システムを通じた昨年度の宿泊者数(のべ)は国内観光客が約1万3100人に対し、海外からの観光客が約4万6300人。海外客は10年前と比べ、約9倍になった。海外客は、国内客の約3.5倍に上る。
国別では、1位がオーストラリア、その後に日本、アメリカ、イギリス、カナダ、中国、ドイツ、シンガポール……と続く。だが、日本や中国の観光客はバスなどで熊野三山を回る人が多く、徒歩で熊野古道を巡る人は少ないようだ。実際、歩いてみると、中辺路で出会う人のほとんどは欧米やオーストラリアの旅行客。宿泊数も長い傾向にある。
順風満帆のようだが、人口減少と過疎化の波は、この地域にも迫っている。合併時に約8万5千人だった田辺市の人口はいま約6万7千人に減った。
現在の事務局長の武田国貴さんは「宿を経営する人も高齢化が進んでおり、観光の担い手は減っていくと予想される。今後は大阪から田辺市までの紀伊路や南の海岸沿いを通る大辺路も整備を進め、他の地域の活性化につなげ、熊野古道の魅力を広げたい」と話す。