――「お客様は神様です」は、客の立場の強さを表現する言葉として使われているのをよく耳にします。客が店などにクレームをつけるときの言い訳に使われた例もあるようです。ところが本来の意味は違うそうですね。
「お客様は神様です」というフレーズは昭和36年ごろ、三波(父)がある地方公演で口にした言葉が発端でした。
会場がお客さんの熱気に包まれる中、司会の方から「お客様をどう思いますか」と聞かれたとき、「お客様は神様だと思いますね」と答えたのです。客席が大いに盛り上がったことから、その後も各地のツアーの主催者から同じ発言を求められるようになったそうです。
やがてトリオ漫才のレツゴー三匹さんがそれをまねるようになって、世間ではやるようになったのですが、三波の真意とはかけ離れ、「お客様は神なんだから、何をされようが我慢してつくしなさい」というような間違った解釈で広まっていきました。
三波自身、生前にこの言葉の真意について説明していますが、これは自分の歌を、芸を完璧な形でお客様と視聴者にお届けしなければならないという心構えを表したものでした。
三波は自分の芸について求道者のように厳しい人でした。「歌う時に私はあたかも神前に立って祈る時のように雑念を払ってまっさらな心にならなければ完璧な芸はできないのです」という信条でした。お客様を神様とみて、神前で祈る時のような気持ちで歌を歌う、これが「お客様は神様です」の真意です。
皆さんも神社に初詣に行って、例えば「今年もよい年でありますように」とお祈りなさいますよね。雑念を払って。あるいは「お天道様が見ている」という言葉もありますね。それと同じく、三波も、いつも敬虔(けいけん)な気持ちで舞台に立っていました。
――誤解された形で伝わり出したのはいつごろからだったのですか。
三波の生前からありました。三波と一緒に車で移動している時、道路沿いの薬局で天井から「お客様は神様です」と書いた短冊を店内に飾っているのが見えました。その状況からして、三波の真意とは別の意味で使われているのがわかったのですが、私が「いっぱい書いてありますね」と言うと、三波は「そうだね」と言ってほほえんでおりました。
思えば、その頃はまだ、言葉通りに「お客様を大切に思って仕事をしよう」という真っ直ぐな思いの方が多かったと思います。ファンの方から「お客様は神様です」と色紙に書いて欲しいと頼まれたこともよくありました。お店をやっていて、「カウンター越しにお客様と向かい合っているので、私の後ろに色紙をはりたい」とおっしゃって。それをご覧になったお客様も「そういう気持ちでいてくれてありがとうね」と喜んでくださっていると、後日うかがっておりました。
それが次第にお客の立場を過剰に強く表現する言葉として使われるようになり、カスタマーハラスメントが社会的な問題になるにつれ、今度は「『お客様は神様』ではない」などと、この言葉が使われ始めたのです。三波が亡くなって6、7年たってからだと思うのですが、もうこのころには、三波の言葉だとはご存じない方も多く、言葉そのものが独り歩きしていました。
――お父様がもし生きていらっしゃったら、ご自身の言葉が誤解されて伝わっていることについてなんて言うと思いますか。
「致し方ない」と言うと思います。三波はこう言っておりました。「歌手の喉から出た歌は、もうすでに社会の財産なのです」。社会の財産ですから、どう歌われようが、カラオケで歌って頂いても、鼻歌で歌って頂いても、それはもう皆様次第ということですね。歌とこの言葉は同類ではないですが、世の中に出回ったものは世の中が動かしていくものだと悟っていた人でしたので。
ですが、私はせめてこの言葉の本当の意味を知って頂きたくて8年ほど前、三波春夫オフィシャルサイトに説明文を載せることにしました。それでも一度広まった誤解はなかなか手ごわいもので、今回のようにご取材頂く機会に発信できるのは大変ありがたいですし、先日もテレビのニュース番組で東京都によるカスハラ防止対策が取り上げられた際、「お客様は神様です」が誤解されて伝わっていることや真意について触れて頂いて、とてもうれしかったです。
カスハラを起こすような、心荒ぶる人がいらっしゃるのは、礼儀というものを日本人がどこかに忘れてきてしまったのではないかと思います。礼儀はあらゆることの根本だと思うのです。「ありがとう」「こんにちは」のあいさつも、言葉遣いも、人との距離感も、礼儀が身についていれば自然にできることですよね。人の心を大切にする気持ちをもっと取り戻せればいいですね。
――「お客様は神様です」に込められた、お父様の芸に対する厳しい姿勢はどこからきていたのでしょうか。
やっぱりシベリア抑留の経験は大きかったと思います。三波は生前、取材を受けるたびに「戦争体験とシベリアは人生の道場でした」と語っていました。
三波は新潟の寒村で生まれました。浪曲と歌が大好きで、自分が歌うと近所の方々がみんな笑顔で喜んでくれる、「歌はいいなあ」と思ったのが芸の道の原点でした。13歳で上京して住み込み奉公で働き、16歳で浪曲(浪花節)の世界に入りました。芸を磨く日々を送っていた20歳のとき、召集されて陸軍に入隊し、満州に渡ってソ連軍との激戦を経験しました。自分の腕の中で「お母さん」と言いながら死んでいった戦友、すでに命は終わっているのに敵に向かって鉄砲を撃ち続けていた戦友。耐えられないような戦争の無残を知ったのですよね。
終戦後、4年間の抑留生活を送ったロシア極東の捕虜収容所では、懸命に生きようとするも、仲間たちが次々と亡くなっていきました。
死と隣り合わせの自由が許されない生活。人間の極限状態の中。だけれども、皆から望まれ、そして皆が生きる希望を失わないように、時間を見つけては浪曲を語っていたそうです。そこで思い知ったのが、人間が生きていくためには娯楽は絶対に必要なんだということ。帰国後、芸の世界に戻ってからは亡くなった仲間の分までしっかりと生きなければという思いで、芸一筋に、そして自らの人間性を高めたいと努力の日々を送ったのです。
収容所では、共産主義という思想は別にして、「考える」ことの必要性を教育されたのはよかったと言っていました。「自分はどう生きるのか、芸に携わるものとして何を学ぶのか、大衆に何を届けるのか」という視点が帰国後、生涯にわたって役に立ったのだと思います。
浪曲には色々な登場人物のせりふが出てくるのですが、三波は考え抜いた上でその人たちのせりふを書いていました。聴き手の心に届く人間の本当のせりふ、ストーリーを書きたい、と。
ですから大変な読書家でもありました。母が「作家さんと結婚したみたい」と言うぐらい、本をかたときも離さず勉強し、常に作品を書いていました。
三波は酒もたばこもやりませんでした。夜に繁華街に繰り出すことはなく。ですから多くの作品を残せたのだと思います。「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される「長編歌謡浪曲」というジャンルを確立したのは特筆頂けることと思います。
三波にとってのお客様はオーディエンスであって、カスタマーではないのです。オーディエンスに喜んで頂きたいと日々研鑽を積み、芸一筋に生きた三波の歌にかける心意気は、生前の歌う姿に見て取って頂けるかと思います。昨年生誕100年を迎えたのですが、それを記念して発売されたDVD「決定版 三波春夫映像集」もございますので、三波春夫が歌い語る日本の良さ、日本人の素晴らしさをお楽しみ頂けたら幸いでございます。