交渉過程を一方的に明かすのは外交のタブー
与正氏は26日の談話で、日本人拉致問題の解決に意欲を示す日本政府の姿勢を批判。「解決不可能で、また解決するものもない克服不可能な問題にしがみついている」と批判した。そのうえで「朝日首脳会談は、われわれにとって関心事ではない」と切り捨てた。
朝鮮中央通信は26日、与正氏の日朝関係を巡る談話を伝えた。この談話の予兆はすでに前日の25日に与正氏が発表した談話に現れていた。
与正氏は、岸田文雄首相が最近、あるルートを通じて「早期に金正恩氏と直接会いたい」と伝えてきたことを暴露し、「日本が、これ以上解決するものもない拉致問題に没頭するなら、岸田首相の構想が人気集めにすぎないという評判を避けられない」と主張した。北朝鮮が岸田政権に対して秋波を送るのは、昨年5月の外務次官談話、今年1月の金正恩氏の岸田首相にあてた能登半島地震のお見舞い電、2月の与正氏談話に次ぎ、4度目だったが、「交渉の経過」を暴露した点で極めて異例の内容だった。
もともと、日本は2018年、安倍晋三政権当時から「北朝鮮との無条件での対話」を掲げてきた。岸田首相も折に触れて、この方針を確認してきた。日本政府関係者も「総理が金正恩に会談したい考えを伝えること自体、従来の方針に沿った動きだ。別に驚くに値しない」と語る。ただ、外交の世界で、相手の了解も得ずに交渉の一端を明かすことはタブーにあたる。
特に北朝鮮は、西側諸国が「Hermit Kingdom(隠者の王国)」というニックネームをつけるほど、徹底した秘密主義で知られる。
2002年9月の日朝首脳会談をおぜん立てした国家安全保衛部(現国家保衛省)の柳敬(リュギョン)第一副部長は、1年以上にわたる日朝の事前接触の際、協議の場所を毎回変えるよう、日本側に要求した。協議の場では、側近が必ず部屋の窓のカーテンを下ろした。柳敬氏は自分の名前を「キムチョル」と偽った。柳氏は2010年12月にソウルを極秘に訪問した際、韓国側に「私は自分の本名を日本のやつらには教えなかった」と自慢したという。ソウルへの訪問も、一般人の目につくことを恐れ、南北軍事境界線を越えるルートを使ったという。
複数の外務省関係者は、特に北朝鮮は日朝協議の際、秘密保持に神経を遣っていたと証言する。関係者の一人は、日朝双方の思惑として「特に日本人拉致問題は世論の関心が集まりやすい。公表すれば、各方面から様々な主張が噴出し、協議を進められなくなると懸念した」と語っていた。
暴露の背後に「四つの理由」
ただ、25日の与正氏の談話のように、北朝鮮が時々、外交協議の中身を暴露することがある。そこには大略、四つの理由が潜んでいる。
第一の理由は「自慢」だ。
2009年8月、米国のビル・クリントン元大統領らが訪朝した。北朝鮮が拘束した米国人ジャーナリスト2人を解放するためだった。同行したデイビッド・ストラウブ元米国務省朝鮮部長によれば、金正日総書記はクリントン氏との夕食会で、ずっとくだらないやり取りを続けた。
唯一、目立った動きといえば、金正日氏がチケットを3枚見せてクリントン氏を誘った場面くらいだった。金正日氏は「ミスター・プレジデント、私は今夜のアリラン・マスゲームのチケットを3枚持っている。1枚は私、1枚は私の愛人、そしてもう1枚はあなたのものだ」と語り、繰り返し、マスゲーム見物に誘ったという。
ストラウブ氏は「北朝鮮はなぜ、こんな意味のない会談に我々を誘ったのか、と考えた。唯一の結論は、我々との写真を公開して北朝鮮の人々に見せ、自分がどれほど偉大なのかを見せつけたかったからだというものだ」と語る。
第二の理由は「怒り」だ。
北朝鮮の国防委員会報道官は2011年6月1日、南北朝鮮が5月に北京で秘密接触し、その席で韓国側から3次に分けた首脳会談の提案を受けたと暴露した。北朝鮮はこの直前の同年5月30日、当時の韓国・李明博政権を「これ以上、相手にしない」とする声明を発表していた。韓国政府関係者は当時、「我々が北朝鮮の要求に応じなかったため、意趣返しのつもりで暴露したのだろう」と語っていた。日朝協議を担当する宋日昊・朝日国交正常化担当大使も過去、訪朝した関係者らに「過去の日朝協議のやり取りはすべて録音してある」と脅したこともあった。
第三の理由は「軽視」だ。
2013年5月、飯島勲内閣官房参与らが秘密裏に訪朝した。朝鮮中央テレビは即座に、飯島氏の平壌到着を伝えた。韓国政府関係者らは当時、「北朝鮮は飯島氏との交渉に興味がないから暴露したのだろう。米国や韓国を意識し、飯島氏らを政治的に利用するつもりだ」と語っていた。
そして、第四の理由は「混乱」だ。
外部から眺めれば、北朝鮮は鉄の団結を誇る独裁国家のようにみえる。だが、その内情は複雑だ。北朝鮮ではトップが権力を維持するため、すべての組織が縦割りになっている。「常務組(サンムジョ)」という臨時のタスクフォースを作ることを認めた場合以外、各組織が横断的に情報交換したり協議したりすることを許していない。
3月21日、北朝鮮はアジアサッカー連盟(AFC)に対し、26日に予定されていた2026年ワールドカップ(W杯)アジア2次予選の対日本戦の平壌開催を断念する考えを伝えた。しかし、日本政府が同日、ビザ発給地になっている北京の北朝鮮大使館に問い合わせたところ、北朝鮮大使館はこの事実を知らなかった。総合的な判断ができずに、先走った報道をする事態も考えられる。
「粗雑な印象」は世代交代の余波?
外務省の元幹部は、「ロイヤルファミリー」の金与正氏を何度も引っ張り出したり、交渉の経過を暴露したりする最近の北朝鮮の報道について「従来のトラディショナルな北朝鮮外交のスタイルからみて、非常に粗雑な印象を受ける」と語る。「(世代交代の余波で)金正恩氏の側近に、外交センスと経験がある人物がいないのかもしれない」とも指摘する。
金与正氏が25日の談話で日朝協議の一端を暴露した背景には、四つの理由すべてが混在しているように見えた。
北朝鮮の国内向けメディアである労働新聞は今のところ、金与正氏の談話を報じていない。ただ、日朝関係筋によれば、北朝鮮は最近、一般市民を政治的に洗脳する「講習会」で「最近、日本が最高指導者との会談を求めてきている」と説明しているという。「うちの最高指導者は、日本が会ってくださいとお願いするほど、偉いんだ」という「自慢」の思惑がそこにはある。
「怒り」の感情もある。金与正氏は2月15日付の談話で「解決済みの拉致問題を障害物としなければ」という条件をつけたうえで、「(岸田文雄)首相が平壌を訪問する日が来る可能性もある」と指摘した。だが、林芳正官房長官は翌16日の記者会見で「拉致問題は解決済み」とする北朝鮮の主張について「全く受け入れられない」とはねつけた。3月25日の金与正氏の談話は再び、拉致問題を解決済みと強調。「うん」と言わない日本に対するいら立ちや怒りの感情が透けて見える。
「軽視」もある。北朝鮮が日本に接近する背景には、来年1月に米国でトランプ政権が再登場することを見越した事前準備という側面がある。
北朝鮮はトランプ政権に核保有や在韓米軍撤退などを要求するだろう。その際、北朝鮮の要求に応じないようトランプ政権を説得した安倍元政権のように、日本に米朝協議を邪魔されてはたまらないと考えているようだ。
ただ、支持率が2割程度しかない岸田政権が来春以降とみられる新たな米朝協議の時点まで続いている可能性は高くないだろう。北朝鮮が「どうせ、日本側の協議相手はポスト岸田政権になる」と考えても不思議はない。交渉相手として利用価値がないため、日米韓を離間する材料として、日朝協議を暴露している側面もあるだろう。
そして、サッカーW杯予選で見せたように、北朝鮮の内部は少なからず混乱している。最近は、金正恩氏が祖父や父が唱えた南北統一政策を放棄したため、北朝鮮内部で理論的な混乱が起きている。
偵察総局や党統一戦線部など、韓国と関係がある部署や人員も再編を迫られているという。意思統一がうまくいかなくなって、25日の「交渉の暴露」につながったのかもしれない。
こうした背景から、25日の談話をみて、「日朝首脳会談が近づいた」と考える必要はなさそうだとみていた。北朝鮮の過去の外交に照らすと、上述の4つの理由が含まれる場合、北朝鮮は往々にその外交を軽く扱ったり、破壊したりするケースがほとんどだったからだ。
案の定、北朝鮮は26日、「日本との交渉には応じない」と言い出した。もちろん、この発言もうのみのする必要はない。北朝鮮に余裕があるのなら、もっと鷹揚(おうよう)に構えるだろう。金与正氏の談話を乱発するところに北朝鮮の焦りが透けて見える。