韓国や米国との関係を統括している与正氏の談話は、今年1月以来。6日から始まった米韓合同軍事演習を非難し、北朝鮮の韓国を担当する部署の閉鎖や南北軍事合意の破棄の可能性に触れた。米バイデン政権にも「今後4年間、足を伸ばして寝たいなら、最初から不眠になる仕事を作らない方が良い」と脅した。
米ホワイトハウスは15日、バイデン政権が2月から北朝鮮との協議を打診している事実を明らかにした。北朝鮮から反応はないという。北朝鮮も18日、朝鮮中央通信を通じて、米国が敵視政策を改めない限り、米朝協議に応じる考えはないとする、崔善姫第1外務次官の17日付の談話を発表した。
北朝鮮と欧米を往来する専門家の1人は与正氏の談話の意図について「北朝鮮内に向けたメッセージ。米国や韓国に訴えたいことがあるなら、既に韓国や米国の対話の呼びかけに応じている」と語る。談話には、米国や韓国に融和的な姿勢を示してはいけないという、北朝鮮市民に向けた警告の意味が込められている。「最初から不眠になる仕事を作るな」といった、外交に不適当な言葉遣いも、北朝鮮の人々を意識しているからだという。
実際、北朝鮮の最高人民会議は昨年12月、「反動思想文化排撃法」を採択した。金正恩党総書記は今年2月の党中央委員会総会で「反社会主義的行為を無慈悲に掃滅すべきだ」と語った。こうした動きの背景には、金正恩氏がトランプ米大統領(当時)や文在寅大統領らと親しく会話する場面を見た北朝鮮市民たちに動揺が広がっている事情があるという。
日朝関係筋によれば、北朝鮮市民の間で最近、文大統領の人気が高まっている。18年9月の訪朝時に見せた文氏の素朴な人柄が好感されたという。この情報は、日韓両政府も把握しているという。
文氏は訪朝直後、平壌の順安空港で、歓迎する北朝鮮市民に駆け寄って握手を求めた。19日夜に訪れた大同江水産食堂では、北朝鮮の家族連れに「おいしいですか」と声をかけた。その後、メーデースタジアムでは15万人の北朝鮮市民を前に「平壌市民の皆さん。皆さんにお会いできて本当にうれしい」「私たち民族は、共に生きなければなりません」などと演説した。
北朝鮮市民が、自分たちに直接語りかける韓国指導者の姿を見たのは、文氏の演説が初めてだった。普段、「傀儡(かいらい)」と呼ぶ敵の指導者の発言は非常に珍しいし、好奇心の対象になっただろう。
別の関係筋によれば、北朝鮮当局は文氏の訪朝前、市民らに対して「米朝首脳会談を受けて南北会談を行うことになったが、外部に幻想を抱いてはいけない」と説明していた。それでも、北朝鮮市民らは文氏の行動に、視察先で突然、田畑に分け入って農民と一緒に語り合った金日成主席の姿を重ね、親しみを感じているという。
北朝鮮の「口コミ社会」は非常に発達している。ちょっとしたことでも、すぐに広まる。外国の映画や文化などは、密輸されたDVDなどを通じて市民の間に浸透している。
また、北朝鮮では、金総書記と握手し、親しげに語りかけるトランプ米大統領(当時)の姿をニュースで見た市民たちが動揺している。建国以来、「敵」と教えられてきた米国をどう理解したらいいのか混乱も見られるという。
北朝鮮当局は、市民の間に韓国や米国へのあこがれが強まって、北朝鮮内に敗北主義が広がることへの深刻な懸念を抱いている。
危機感から、北朝鮮は昨年6月には北朝鮮・開城にある南北連絡事務所を爆破した。北朝鮮当局は、国際社会からの支援物資にハングルの文字が書いてあるだけで、受け取りを拒んでいる。米韓両国を厳しく非難する与正氏の15日付の談話は、北朝鮮内で依然、動揺や混乱が続いていることを示唆している。
これに対し、文在寅政権の最大の課題は2022年5月までの任期中に、もう一度南北首脳会談を行い、「朝鮮半島に平和が来た」と宣伝した自分たちの政策に誤りがなかったことを証明することだ。昨年11月に訪日した韓国の情報機関、国家情報院の朴智元院長らは、菅義偉首相との会談で、東京夏季オリンピック・パラリンピックの機会に、日米韓朝の間で外交を進めたい考えを示した。
金与正氏の談話は、文政権の思惑を見透かしたうえで、17日に訪韓した米国のブリンケン国務長官やオースティン国防長官に対して、北朝鮮に融和的な姿勢を取るよう韓国に圧力をかける狙いもあったとみられる。体制の立て直しに懸命な北朝鮮には、安定した外交環境が必要だからだ。
実際、金与正氏の談話では、国連安全保障理事会決議が禁じる核実験や弾道ミサイル発射などの可能性には触れなかった。崔善姫氏の談話も、米国に対する具体的な軍事挑発には言及していない。
米北方軍のバンハーク司令官は16日、上院軍事委員会公聴会で、北朝鮮が近く、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を始める恐れがあると指摘した。北朝鮮は中国やロシアの理解が得られ、制裁強化の可能性が少ない「衛星運搬ロケット」の発射を試みる可能性はあるが、軍事用だと明示したICBM発射は控えるだろう。
崔善姫次官は談話で米朝協議の条件として、米国による敵視政策の撤回を掲げたが、難しく考える必要はない。北朝鮮が外部との接触を避ける方便として「敵視政策の撤回」を主張しているだけだからだ。北朝鮮は2019年10月、ストックホルムで開かれた米朝実務協議で、米国が北朝鮮が実施した豊渓里核実験場爆破などの措置と相応の見返りを提供しない限り、対話に応じないと宣言した。崔次官の談話は、この時の論法と同じだ。
専門家の1人は北朝鮮の今後の動きについて「新型コロナウイルスの影響で国境封鎖したことを逆に利用し、体制を立て直すまで外部情報を徹底的に遮断する考えかもしれない」とも語る。文大統領が再び、北朝鮮の土を踏むことは容易ではない。