先日の「第56回ミス日本コンテスト2024」でウクライナ生まれの椎野カロリーナさんがグランプリに選ばれました。
現在26歳の椎野さんは5歳の頃から日本で暮らしており、昨年、日本国籍を取得したことをインスタグラムで公表しました。
外国にルーツのある椎野さんが「ミス日本」に選ばれたことについてX(旧Twitter)などのSNSでは「彼女は日本人ではないと思う」「彼女は日本代表にふさわしいのか」などの声が上がっています。
「日本人」の定義とは?
今から9年前の2015年、日本人の母親とアフリカ系アメリカ人の父親の間に生まれた宮本エリアナさんがミス・ユニバース日本代表に選ばれました。
当時も今回と似たような「声」がたくさんありました。それらを要約すると「なぜ外国にルーツのある人が日本代表に選ばれるのか」という意見です。
しかし宮本さんも椎野さんも日本国籍であるわけですから、当たり前ですが、れっきとした日本人です。
なぜか「日本国籍」というキーワードには敏感に反応する人が多く、「日本国籍というのは、あくまでも法律」といった反論が目立ちます。でも法律以外の基準で「どのように、その人が日本人なのかを定義する」こと自体が実はなかなか難しいのです。
「日本人的な容姿」を条件にしてしまうと、「直毛の黒髪で日本的な顔立ちをした人=日本人」だと思いそうなものです。しかし当たり前ですが、直毛の黒髪で日本的な顔をした人が全て日本人だとは限りません。
中国や韓国などの東アジアに行けば、それこそ「日本人風」の容姿をした人は大勢いるわけです。そして、念のために付け加えると日本人だからといって全員が黒髪の直毛ではありません。生まれつき髪の毛の色が明るい人もいれば、生まれつき天然パーマの人だっているわけです。
そして「容姿以外の面でその人が日本人かどうかを判断する」というのもなかなか難しいのです。
華道や茶道に精通していたり、着物の着付けなどの習い事をしたりすることは「日本的」なことではありますが、かといってその人が日本人だとは限らないわけです。
これが「日本人的な性格」だとか「日本人的な物腰」などの話になってくると、話はさらに「ややこしく」なります。なぜならば、人間の性格というものについて「イタリア人は明るい」「日本人は奥ゆかしい」などといった「その国の傾向」はあるかもしれませんが、どこの国にも色んな性格の人がいるというのもまた事実だからです。
彼女はどの国のミスコンに応募すればよかったのか
そういったことを考えると、法律上の国籍以外の要素で他人のことを「何人(なにじん)であるか」と判断するのは意外と難しいのです。
もちろん世界には「国籍はどこそこの国だけれど、自分のアイデンティティーは別の国にある」と考えている人もいます。しかし仕事に応募する時、会社や機関などが応募条件として掲示する「国籍」とは間違いなく法律上の国籍を指します。「ミス日本コンテスト」の応募条件は「日本国籍であること」なのですから、椎野さんはその条件を満たしているわけです。
筆者がX(旧Twitter)で「(椎野さんは)国籍が日本なのですから、彼女は日本人です」とつぶやいたところ、案の定「法律の話をしているんじゃない」という反論がたくさんありました。
国籍が日本なのですから、彼女は日本人です。 https://t.co/0uSlsQZpkK
— ヘフェリン・サンドラ (@SandraHaefelin) January 23, 2024
しかし法律というのは何も「特別な場面でのみ適用されるもの」ではなく、当たり前ですが「日本の法律は日本にいる限り全員に適用」されます。そういったことを考えると「ミスコンというものに法律を持ち出すんじゃない」という反論は的を射ていないように思います。
ここは椎野さんの立場になって考えてみたいと思います。椎野さんはその容姿を生かして十代のころからモデル活動をしてきました。そういった中で美の頂点ともいえるミス日本に挑戦したいと考えるのは自然な流れです。
椎野さんはウクライナで生まれているとはいえ、ウクライナ国籍を持っていませんから(ウクライナでは二重国籍を容認する議論が進んでいるものの現時点では認められていません)、ウクライナ国内のミスコンに応募することはできません。そもそもウクライナは今、戦争中です。そういったなかで「日本国籍を持っているけれど、日本の血が入っていないのだから、応募すべきではない。選ばれるべきではない」とするのは差別的な考え方だと言えるでしょう。
日本国籍を取得した人は日本人になることで、日本に住む上でありとあらゆる場面で「そのほか多数の日本人と同じ権利」が得られるわけです。それが国籍取得のそもそものメリットなのです。「美」を争うミスコンという特別な場所が舞台だとはいえ、「あなたには確かに日本の国籍があるけれど、ふさわしくない」とするのは「あってはならないこと」です。
X(旧Twitter)に「私も理解するのに時間がかかりました。ただ、おそらく彼女に大会の理念に即するような日本らしい美しさや品があったのではないかと想像します」と投稿し、いま話題の椎野さんを外国出身の横綱と比べ理解を深めようとしたティムラズ・レジャバ駐日ジョージア大使の意見を興味深いと感じました。
私も理解するのに時間がかかりました。
— ティムラズ・レジャバ駐日ジョージア大使 (@TeimurazLezhava) January 23, 2024
ただ、おそらく彼女に大会の理念に即するような日本らしい美しさや品があったのではないかと想像します。
横綱らしい横綱がモンゴル人の白鵬であったのと同じように。
知らんけど。 https://t.co/mMk6nert9S
ミスコンは本当に必要なものなのか
筆者の出身地ドイツでは、ミスコンで優勝する女性といえば長年、「髪の長い金髪の女性」というのがスタンダードでした。しかし多様化する世の中で「一定の容姿をした女性だけを美しいとするのはどうなのか」という考え方がどんどん広まってきています。
現在のドイツのミスコンのMiss Germanyではそこからさらに一歩進んで、「見た目の美しさよりも多様性を評価する」ことがポリシーです。そのため「当事者の女性がどのように社会を変えていきたいのか」といった本人のストーリーテリングが重要視されています。
例えば2022年にMiss Germanyで優勝した女優兼福祉起業家であるDomitila Barrosさんはトラウマを抱えたブラジルのストリートチルドレンのために「ダンス」や「演技」も盛り込んだプログラムで子供たちに読み書きを教える活動をしてきました。そういったことが評価されての優勝でした。
筆者は「椎野カロリーナさんがミスコンに参加し優勝するのはおかしいのではないか」という意見に賛成はできない一方で、実はミスコン自体は「なくても良いのではないか」と考えています。
それは国や文化などといった観点からではなく、「女性を並べて、審査員が評価する」という行為そのものが女性蔑視的なものを含んでいて時代にそぐわないと感じるからです。
近年、人の往来が増えているなかで「人間のアイデンティティー」は必ずしも「ひとつ」ではありません。
当事者が「自分は文化的にどこの国に属すのか」などと自問をしたり考えたりすることは意義のあることです。その一方で、第三者が法律上の国籍を無視した上で「日本人としてふさわしいのか」を判断することには慎重になる必要があります。
なぜならば、そのような行為は「容姿が日本人らしくない」といった自分では変えることのできないことへの批判につながりかねないからです。「その人の性格が日本人的であるか」ということを見極めようとするのも考えものです。こういったことは「でもやっぱりこういうところが日本人的ではない」といった「あらさがし」につながりがちです。
冒頭に書いた通り、「法律上の国籍」以外の面で「その人が日本人であるかどうか」を判断することはそもそも難しいのです。「法律上の国籍」以外の要素で「何をもって日本人とするか」の判断があいまいである以上「●●だから、日本人ではない」などといった点を挙げるのは不毛な議論だと言わざるを得ません。
2015年に宮本エリアナさんがミス・ユニバースの日本代表に選ばれ、今年2024年に椎野カロリーナさんがミス日本コンテストのグランプリに選ばれるまで、約10年という時間が経っているにもかかわらず、SNSでの議論の内容に全く進展が見られません。
だからこそ最後にもう一度言います。「日本国籍を持っている人は日本人です」