ミス・ユニバース世界大会(イスラエル)の「ナショナルコスチュームショー」で、日本代表の渡辺珠理さんが着たドレスが話題になりました。
ドレスは着物風だったのですが、「前合わせ」がいわゆる「左前」になっていたほか、袖には日本の国旗が半分に折られた形であしらわれ、渡辺さんは両手に「招き猫」を抱えていました。そして彼女のデコルテの部分には「日本」という漢字が。
日本イスラエル国交樹立70周年を記念し、イスラエル人デザイナーのアビアド・ヘルマン氏がデザイン。
— イスラエル大使館 Israel in Japan (@IsraelinJapan) December 2, 2021
歓迎とお祝いの気持ちを込め、原宿ファッションと着物を融合させたというピンクベースの衣装には、きらびやかなスパンコールがちりばめられ、袖部分には日本国旗があしらわれています。
📸OR DANON pic.twitter.com/IYuWSvoFJv
これを受け日本では「残念」「日本人に対する侮辱だと思われても仕方ない」という声が相次ぎました。
筆者はこの衣装を見て「悔しさ」がこみ上げてきました。海外にいると、いわゆる「西洋文化圏」の人々が自分たちの中にある「日本人にはこうあってほしい」「日本はこうあるべき」といった願望や期待を日本人に押し付けるシチュエーションに遭遇することがあるからです。
これは「海外に拠点をもつ日本人」や「海外に住む日本にルーツを持つ人」にとって、残念なことに「あるある」なのです。
筆者は母が日本人で、子供時代をドイツで過ごしました。ドイツの学校に通っていた時、長く伸ばした髪を「お団子スタイル」にまとめて登校したところ、同級生に「お団子に日本の箸を挿したらどう?」としつこく薦められ困ったことがあります。
当時ドイツで発売されていた十代の子供向けの雑誌の「ヘアスタイル」のコーナーには「アジア系の女性が髪の毛を団子にまとめ、その団子に食用の箸を突っ込むヘアスタイル」が紹介されていたのです。
同級生に対して「日本人は食事の時にお箸を使うけど、髪の毛に食事用の箸を突っ込むことはしないよ」と説明をしましたが、「なんで?」「お団子に箸を入れたほうがかわいいよ」と言われてしまい、筆者の説明は全く理解されませんでした。
ミスユニバース日本代表のこの衣装を見た時、筆者は当時悔しかった自分の気持ちを鮮明に思い出しました。これは単に「ファッションの問題」ではありません。西洋文化圏ではない「日本という文化」を理解しようとしない人々の姿勢がもっとも分かりやすい形であらわになったのが今回の騒動なのです。
誤解されている日本文化
ミスユニバース日本代表の姿を見て、個人的に一番気になったのがデコルテの部分に漢字で「日本」と書かれていたことです。
ほかの国に置き換えて考えてみましょう。ローマ字でモデルの胸にDeutschland(ドイツ語で「ドイツ」を意味する)と書くのは明らかにおかしいですし、ローマ字でFranceとデコルテに書くのもやっぱりおかしいです。なぜスタイリストは対象国が「日本」の場合に限って「モデルのデコルテに『日本』と書いてもオッケー」と思ってしまったのか――。
その背景には、外国人(主に欧米人)に「漢字はカッコイイ」という感覚がありながら「漢字を日常的に使っている文化圏の人達の意見を聞こうとしない」という根本的な問題があります。
海外を旅していると、おかしな意味あいの漢字のタトゥーを見かけることがよくあります。筆者もヨーロッパの空港で腕に「冷蔵庫」や「歯医者」と彫っている人を見て驚きました。漢字の意味を調べずに「字画が多いから素敵」という感覚で彫ってしまったのだと想像します。
でも「漢字を日常的に使っている文化圏の人」(例えば日本人)の意見を聞かずに、ただ「漢字はかっこいいから」という理由で、今回のミスユニバースの例もそうですが「皮膚に漢字を書く」ことは日本の文化を尊重しているとは言えません。
単なる「美的感覚の違い」「ファッション感覚の違い」ではなく、「異文化を理解しようとしない」という深い問題だと言えるでしょう。
何年か前に筆者は航空会社エールフランスの以下の広告を見かけました。その時も「西洋の人の中にある日本へのステレオタイプが詰め込まれている」と感じました。「ゲイシャ」風の白人女性がなぜかリンゴを手に持ってポーズをとっています。
かつてのエールフランスの広告にしても、今回のミスユニバース日本代表の衣装にしても、「なぜ日本の文化を発信する時に日本人の意見を聞かなかったのか」「なぜ日本人の意見を取り入れなかったのか」と疑問に思います。今の時代、一部の欧米人男性の頭の中にある「日本人女性にはこうあってほしい」という「願望」を「そのまま発信すること」が適切だとはいえません。
この問題からは「異文化の軽視」とともに、どこか「女性蔑視」を感じるのです。
文化やセンスの問題を言語化する難しさ
モデルのデコルテに漢字で「日本」と書かれていようと、両手に「招き猫」を持たされていようと、それは「違法」ではありません。だから自分とは異なる文化を理解しようとしない人は「別に招き猫をもって、デコルテに『日本』と書かれていてもいいじゃない?それが自由というものなんだ」といった類のことを言いがちです。
でも筆者は「日本文化が誤解された場合、それがおかしいということを主張し続け、直させる必要がある」と思っています。「左前」は死に装束で使われるため日本では「死」を連想させること、皮膚に漢字を書く習慣は日本にはないことを繰り返し粘り強く主張していかなければならないと考えます。
今回のミスユニバースの件でも、関係者が「日本という異文化」を理解するために、衣装を身に着ける「当事者の日本人女性」の話を聞いた上で衣装や演出に「遊び心」を加えていたら、結果はだいぶ違っていたのではないかと思います。
異文化を理解しようとするなかで、「当事者の声を聞く」というプロセスを踏むことが必要だったのではないでしょうか。
間違った日本文化が広まってしまうと、「お団子に束ねた髪に、食用の箸を挿さしたら?」という冒頭で紹介したようなシチュエーションが繰り返されてしまいます。「海外にいる日本人」や「海外に住む日本にルーツのある人」が不愉快な思いをすることにつながります。
そう考えると、今回のあの「トンチンカンな衣装」は「単なるミスコンの話」と片付けられるものではありません。「日本の文化が誤解された深刻な事例」としてとらえるのが適切でしょう。
文化の相互理解は何かと難しいものです。でも諦めるのではなく、日本の文化を誤解した微妙なセンスにはハッキリとNOを突き付けるべきです。こういう時こそ「NOと言える日本」でないといけません。