フジテレビ問題が浮き彫りにした女性軽視の現実 当事者意識とシスターフッドの大切さ

今年に入ってから元タレントの中居正広さんと女性との間に起きた問題をめぐる報道が続き、テレビ業界を巻き込むスキャンダルへと発展しました。様々なことが明らかになるにつれ、テレビ業界における女性軽視の風潮も浮かび上がりました。また、週刊誌報道が正しいとすれば「同じ会社員でも、男性よりも女性のほうがセクハラなどの性的な被害に遭いやすい」という理不尽さも浮き彫りになっています。
取引先の男性が会社で「今年の新人の顔はどう?」と発言したり、難しい取引先へは若くきれいな女性が同行することになっていたり。「性的な話をするのは男性、ターゲットにされるのは女性」という昔ながらの構図は残念ながら完全になくなってはいません。
日本では会社などの組織において男性のほうが役職に就いていることが多く、また取引先の決裁権のあるポジションにいる人というのも女性よりも男性が多いことがこのような流れの遠因になっています。
ヨーロッパにはこのような問題が全くないのかというと、残念ながらそうではありません。例えばドイツではAltherrenwitz(和訳「老紳士ジョーク」)というものが20世紀の初頭から存在し、その内容の多くが性的な内容です。
かつては女性がいない場で、あくまでも男性同士で「女性に関する性的ジョーク」を言い合い笑うというものでした。しかし女性が社会に進出し、女性と男性が肩を並べて働くようになってからも、困ったことにこの「老紳士ジョークを発する」ことをやめられない男性が目立ちます。
たとえばドイツで2020年に自由民主党(FDP)のLinda Teuteberg氏という女性の党幹事長が辞任する際、党首のChristian Lindner氏がお別れの挨拶をしましたが、スピーチの中で彼は「リンダと私は過去15カ月間のあいだ、300回ぐらい朝を一緒に迎えました」とあたかも一緒に泊まったかのような言い回しをしました。
日本の感覚だとこのような公の場で堂々と下ネタを言うのは信じられないことかもしれませんが、上に書いたようにドイツでは昔からこのような性的ジョークが市民権を得ていたこともあり、会場では笑いが起きました。
会場での反応を受け、Christian Lindner氏は「毎朝ルーティーンとなっていた政治について話していた電話のことです。あなた方が考えているようなことではありません」と続けましたが、性的なジョークを言ったことに対する申し訳なさのようなものは感じられず、後日ドイツのメディアやSNS等で女性蔑視だと非難を浴びました。本人は後に謝罪したものの、先月政界からの引退を表明するまでにそのまま何年もFDPの党首であり続けました。
日本の場合「男性による性的ジョーク」はお酒の入った席などでよく見られますが、ドイツの場合は公の場で堂々とこの手の発言を「やらかす」男性が目立ちます。ドイツの「老紳士ジョーク」には歴史がありますから、この手のジョークを発す男性が「自分は気の利いたことを言っている」と思い込んでいることが多いのが厄介です。
ドイツで著名なジャーナリストで評論家だったRoland Tichy氏は数年前、自身が発行するマガジンの中でドイツ社会民主党(SPD)の女性政治家(当時)のSawsan Chebli氏が持つ資質について「男性が多いSPDの中で、彼女の取り柄というのはGスポットがあることだけ」と書きました。
Sawsan Chebli氏は訴訟を起こし、2022年1月にベルリン地裁はRoland Tichy氏によるGスポットに関する発信は「人間の尊厳を傷つけるものであり重大な人格侵害」だとし、Tichy氏にChebli氏への1万ユーロ(約160万円)の慰謝料を支払わなければいけないと命じました。
今から10年以上も前の2013年には既に女性ジャーナリストのLaura Himmelreich氏が雑誌「シュテルン」の「Der Herrenwitz」(和訳「紳士ジョーク」)というタイトルの記事の中で、男性による性的発言を批判し、以来、ドイツのメディアやSNSでは#aufschrei(和訳「叫び」)や#MissionAltherrenwitz(「老紳士ジョークをなくそう」という意味)というハッシュタグのもと、多くの女性が、自身が経験した性的な嫌がらせについて声をあげてきたにもかかわらず、今もなお老紳士ジョークを発する男性がいるのは本当に困ったものです。
元タレントの中居正広さんが起こしたトラブルについて、被害者と思われる女性に対するSNSでの誹謗中傷が止まりません。日本の世間は性的な被害を受けた女性に対して本当に冷笑的だなと感じます。同時に、こういったことが起きた時の「ヨーロッパと日本の違い」も浮き彫りになりました。
フランスでは10年近くに渡り薬物によって妻の意識を失わせ、インターネットで募った男性たちに妻をレイプさせていたドミニク・ぺリコ被告に昨年12月、禁固20年の判決が下され、犯行に加わった他の50人の被告も全員が有罪となりました。
犯行の内容はかなり卑劣で、事件はヨーロッパのみならず、日本でも大きく報道されました。事件の内容の酷さについて、筆者は女性として暗澹(あんたん)とした気持ちにさせられると同時に、被害者のジゼル・ぺリコ氏がマスコミに実名と顔を堂々と出していることについて、良い意味で「ああ、ヨーロッパ的だな」と感じました。
ジゼルさんは、自ら公開裁判を希望したのです。堂々とふるまうジゼルさんはフランスで「性暴力と闘う女性」の象徴となりました。その姿は多くの女性に勇気を与え、ドミニク被告の判決当日はアビニョンの裁判所の前で女性らが「あなたの勇気に感謝します、ジゼル・ぺリコ」と書かれたプラカートを掲げました。
中傷を恐れ、顔や名前を出さないことを選択する女性はフランスにも、もちろんいます。ただ、ジゼル氏のように顔と名前を堂々と出したほうが、長い目で見た時に「被害者の女性を応援する」という社会的な動きも生まれやすいのではないかと思いますし、シスターフッドや女性同士の連帯につながるのではないかと思います。
日本では被害に遭った女性が顔を出すと、SNSやオンライン記事のコメント欄などで「表(おもて)に出られるぐらいの気力があるのだから、被害はたいしたことなかったのではないか」「目立ちたがり屋」「被害にあったなら、ひっそり暮らせばいいのに」といった意見が目立ちます。
性被害に遭った女性に対して冷笑的な態度をとったり誹謗中傷をしたりする人の中には男性だけではなく女性もいます。SNSを見ていると、コメントの中には攻撃的なものもあるものの、単に「自分とは関係のないこと」だと考えているから被害に遭った女性の痛みが分からないのだろうと思わされるコメントもあります。
「あのような世界に身を置くから被害に遭ったのだろう。自分は普通に生活しているからだい大丈夫」といった内容のコメントです。大変な思いをしている同性の女性のことを「どこか他人ごと」だと思っていて「自分にも起こりうるかもしれないこと」とはとらえていないようです。だから突き放した言動をとってしまうのだと想像します。
でもジェンダーギャップ指数が118位の日本において「他の女性が大変な思いをしているのは私には関係のないこと」と考えるのはかなり迂闊(うかつ)です。人間は明らかに目に見える形で自分に危機が迫っている段階にならないと、なかなか危機感を持たないのかもしれません。
たとえばこれは女性に限った問題ではありませんが、先日のフジテレビの問題に関して言えば、1100人いた社員の中で労働組合に入っていたのはたったの80人だったと言います。中居正広氏と女性との間に起きた問題をめぐる報道が相次ぎ、「フジテレビの今後」が危ぶまれてから、ようやく同局の組合員数が何百人単位で増えました。
会社の体質を抜本的に改革するよう求める声を集約する先として、危機意識を高めた社員たちが加入したようです。
たとえ今までセクハラや性被害を受けなかったとしても、残念なことにこれからの女の人生にそういう事は絶対に起こりえないとは言い切れません。だからこそ「自分が元気に楽しく過ごして一見何の問題もない生活をしているとき」でも、大変な思いをしている女性がいるということを受け止め、彼女たちのした経験を「大したことがない」などと過小評価しないことが大事です。
環境問題の話にしても、世界情勢の話にしても、女性に対する性被害に関する話にしても、自分は大丈夫だというある種の「正常性バイアス」が働いてしまうのか「自分は普通の生活ができるし、関係ない」と考えてしまいがちです。
筆者はドイツの神学者マルティン・ニーメラーの言葉を思い出すことがあります。それは「ナチスが共産主義者を連れて行った時、私は黙っていた。共産主義者ではなかったからだ。社会民主主義者が締め出された時、私は黙っていた。社会民主主義者ではなかったからだ。労働組合員が連れて行かれた時、私は黙っていた。労働組合員ではなかったからだ。そして、彼らが私を追ってきた時、私のために声をあげる者は もう誰一人残っていなかった。」という言葉です。
これを「女性」に置き換えて考えてみると、「いま自分がいる社会の中で他の女性が被害に遭っているということは、いつ似たようなことが、時には形を変えて、自分に降りかかってくるか分からない」ということです。
セクハラも性被害も、悪いのは加害者。それが大前提ではあるけれど、この社会で女性は加害者になるよりも被害者になることのほうが多いのですから、女性はその事実をしっかり認識して「女性の味方になる」そして「自分の味方を増やす」ことに意識を向けることが大事です。他の女性が抱える問題について「敏感であり続けること」が大事なのではないでしょうか。