除夜の鐘について知るために、まず富山県高岡市に向かった。
それにはちゃんと理由がある。ここは古くから鋳物の産地として知られる街で、この場所に寺の鐘の生産で日本のシェア約6割を誇る老子(おいご)製作所という会社があるのだ。天保年間に創業し、200年以上の歴史があるという老舗だ。
取締役会長の元井秀治さん(68)が工場の中を案内してくれた。
大みそかに間に合うよう、最後の仕上げを待つ鐘が置かれていたり、仏具の注文に来ているらしきお坊さんの姿もあった。
「ゴーン」ではなく「バーン」だった?
お寺の鐘は「梵鐘(ぼんしょう)」と呼ばれている。
まずは梵鐘の歴史についてたずねようとすると、元井さんは開口一番言った。
「たいていの人は、お寺の鐘の音を『ゴーン』と表現しますよね。でも、ずっとあの音だったわけではないんですよ」
えー? いきなり想定がひっくり返る。いったい、どういうことですか。
元井さんによれば、梵鐘は仏教とともに大陸から日本に渡ったが、その音色は日本に来て大きく変化し、さらに、時代とともに変わっていったのだという。
日本に伝わる前の、中国や韓国の梵鐘は「バーン」とドラのように広がる音だそう。ところが、日本に伝わってからはだんだんと低音になり、私たちがよく耳にする日本の寺の鐘は「ゴーン」と鳴った後で、「ウォンウォン」と「うなり」と呼ばれる余韻が続く。これが日本の梵鐘の特徴だ。
ちなみに、この「うなり」は、鐘の上にある突起(仏様の髪を模した「乳」と呼ばれる)や装飾など、表面にあるさまざまな突起や、完全な円型でないことで生まれるのだという。
梵鐘は、直径が大きく、鐘を突く位置が低いほど低音になる。各地の古い梵鐘を見てきた元井さんは、「突き座の位置は時代とともに下がる傾向にあり、日本では時間が経つにつれて低い音が好まれるようになったらしい」と推測する。
戦争で一気に消え、戦後に特需
仏教伝来とともに日本中に広まった梵鐘は次第に数を増やしていくが、その後、劇的な変化が訪れる。1941年に公布された金属類回収令だ。戦時の資源不足を補うために供出され、梵鐘は多くの寺から一気に消えた。そして戦後、空前の「梵鐘特需」がやってきた。
「戦後の40、50年で、それまでの1000年よりも多いくらいの梵鐘が作られたのです」と元井さん。
祖父の代で工程の一部を機械化することで、大量の受注が可能になり、年間2百数十個の梵鐘を作ったこともあったという。こうして、老子製作所は梵鐘の製作で日本のトップシェアを誇るようになった。
この歴史を考えると、日本に現存する梵鐘の多くは戦後作られており、そのかなりの割合が、ここ老子製作所で作られたことになる。ということは、戦前と戦後では、日本各地で鳴っていた寺の鐘の音はだいぶ変わった可能性もあるが、今となっては確かめようもない。
梵鐘の大きさはさまざまだが、小さなものまで含めると、ここで作られた国内の梵鐘は2万個をゆうに超えるという。
さらに、一度作れば数百年、あるいは1千年近くもつという、特殊な「製品」でもある。戦後の「特需」を経て、老子製作所も現在は、月に1つつくるくらいだという。いまでは、お寺の建物に使われている金属の装飾や仏具など、幅広い製品を扱っている。
実は、老子製作所で作られる鐘は寺の梵鐘だけではない。毎年8月6日の広島平和記念式典で黙禱とともに鳴る鐘も、ここで作られたものだ。
元井さんは、幼いころから父親に、毎年8月6日は家で正座をして記念式典をテレビで見るように言われていたという。
先代の元井さんの父親は、シベリア抑留も経験した戦争体験者だった。戦場の悲惨さを身をもって知っていたからこそ、広島の平和の鐘には特別な思い入れがあったのだろうと、元井さんは話す。
「遊びたい年頃の時は、なぜずっと聞いていないといけないのかと思っていましたが、あの鐘はいまも会社の誇りです」
除夜の鐘の「伝統」は意外に短かった
高岡市で梵鐘づくりの歴史について教えてもらったあと、除夜の鐘の歴史をさらにたどってみた。すると、驚く話に出会った。
「除夜の鐘を突く習慣は、比較的最近になって広まったものなんですよ」
そう話すのは、除夜の鐘に関する研究をしてきた神奈川大学国際日本学部准教授(日本近現代史)の平山昇さんだ。
二度目のえー? である。
平山さんによると、大正期ごろまで、現在のように大みそかに除夜の鐘を鳴らす習慣は一般的ではなく、「除夜の鐘という言葉すら多くの人にはなじみがなかったものだった」という。
では、いったい、いつから「年末の風物詩」になったのか。
平山さんは背景に、大正期のラジオの登場があると指摘する。
日本でラジオ放送が始まったのは1920年代。当時、新しいメディアだったラジオ局は「コンテンツ」不足だった。そこで目を付けたのが、寺の鐘の音だった、というのだ。
「仏教は、読経や念仏、説教といった『音』を通じて民衆に布教をしてきた経験がありました」。つまり、もともと音との親和性が高い宗教だったのだ。
さらに1930年代になると、マルクス主義の広がりなどで反宗教運動が高まり、仏教はたびたび批判を受けるようになった。「こうした時代背景も重なり、ラジオという新メディアとの協力にも前向きになったのでは」と平山さんは推測する。
こうして、寺の側がラジオに協力するかたちで、大みそかのラジオ放送に鐘の音が乗るようになり、東京(JOAK)、大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)の三放送局の競争もあいまって、東京(JOAK)主導で除夜の鐘が年越し番組の目玉として定着していった。
日中戦争下では、中国大陸と内地をリレーして除夜の鐘を放送した記録も残っている。
「バラバラに年越しをしていた全国の人たちに国民としての一体感を持たせ、『帝国』の勢力範囲を実感させるものでもあった」と平山さんは指摘する。
時代に合わせて「作られた情景」
さらに、もう一つの「作られた情景」の可能性を教えてくれた。除夜の鐘を聞きながら、その一年を振り返るという、あのしんみりとした風景だ。
平山さんが過去の新聞記事などを調べたところ、除夜の鐘を感傷的に捉えた記述が初めて登場するのは、1926年。「除夜の鐘が湿っぽく、夜空に響く……」という趣旨の記述が新聞に掲載されていた。
注目すべきは、この直前に大正天皇が崩御していることだ。
この年は、国民が喪に服していた年末年始だった。「新聞ではそれまで明るい筆致で書かれていた年越しの風景が、この年は一変した」と平山さん。
昭和天皇の崩御の前後にも日本中が自粛ムードになったが、大正天皇の時代には、さらにその空気が強かったのではないかと、想像できる。
「除夜の鐘を聞いてその年を反省しながら振り返り、煩悩を振り払う」という大みそかにまつわる習慣も、この時期にメディアによって「作られた情景」が、そのまま定着したのではないかというのが、平山さんの見立てだ。
戦時中には「国民をつなぎ」、天皇の崩御をしめやかに振り返った除夜の鐘の音。ところが、最近は「音がうるさい」という近隣住民から苦情が来ると、たびたび報じられている。やむなく大みそかに突くのをやめた寺もあるらしい。
だが平山さんによれば、除夜の鐘は、もともと「年を送る」のではなく、「新年を迎える」意味合いが強かったのだそうだ。寺が鐘を鳴らす時間も、夜中の場合もあれば、元日の朝など、まちまちだった。
ならば、苦情を考慮して、元日の朝に鳴らしても良さそうなもの。むしろ「原点回帰」とすら言えるかもしれない。
平山さんは、「20世紀という激動の時代に、『日本らしさ』とは何かを求めて、悩み苦しむ社会の動きがあった。そんな中で定着していったのが除夜の鐘だったのだろう」と話す。
変わらぬ長い歴史があると思っていた除夜の鐘も、時代によって変化してきたのだ。そして、その変化には、そのときどきの時代が映し出されている。