ラハイナに火が広がる前日の8月7日。マウイ島ではすでに山火事が起きていた。だが、ハワイで山火事は珍しくはない。
ラハイナにある浄土宗の寺、ラハイナ浄土院(Lahaina Jodo Mission)の住職、原源照さん(87)も、「また山火事か」と、あまり気にも留めなかった。
ところが、翌8日になると、風が吹き荒れ始めた。本堂の照明器具が風で破損し、原さんは修理を依頼した。このときはまだ、山火事が身近に迫っているとは考えもしなかった。だが夕方になると様相が変わった。煙が空を覆い、あたりが薄暗くなっていた。
「先生、そろそろ避難しないと危ない」
午後6時過ぎ、警察や知人が回ってきて、避難を説得された。妻の節子さんや、寺に避難していた人たちと車で寺を出たときには、すぐ横で黒煙が上がり、火は目の前に迫っていた。
近くの避難所まで逃げたが、そこにも火の手が近づき、2カ所目へ。そこからさらに別の避難所へと転々とした。
寺が焼失したと知ったのは、9日。ヘリコプターからの映像だった。その後、檀家のひとりが消防隊として現地に入り、写真に収めてきてくれた。写っていたのは、廃墟のようになった境内の跡だった。
「心の中にぽっかりと空間ができたようだった。感情が失われて、悲しみも何も感じることができなかった」
15日、避難先からオンラインで話を聞かせてくれた原さんは、時折言葉を詰まらせながら、そう語った。
私が初めてラハイナを訪れたのは15年ほど前のことだ。マウイ島はハワイの歴史をたたえた小さな町が点在する緑豊かな島で、その美しさにひかれて、その後、プライベートでも仕事でも度々訪れた。
ラハイナは19世紀半ばまでハワイ王国の首都があり、捕鯨基地として栄えた町だった。しだいに鯨油が石油に代わり、捕鯨が下火になると、今度はサトウキビ生産が盛んになり、多くの移民が移り住んだ。ラハイナにはそんな歴史の移り変わりを感じさせる建物があちこちに残っていた。
島の東端のハナは、大西洋横断単独無着陸飛行し、「翼よ、あれが巴里(パリ)の灯だ」で知られるチャールズ・リンドバーグが晩年を過ごした小さな町でもある。素朴な教会の裏に、ひっそりと眠っている。
歴史をそこかしこに残すマウイ島だが、島を訪れるとよく足を運んだのが、ラハイナ浄土院だった。
浜辺のすぐ横に立つ持つ浄土宗のお寺の敷地には、本堂のほか、日系人の移民100年を記念して建てられた三重の塔や大仏がそびえていた。
大仏の背後には濃い緑が覆い茂り、境内を挟んで反対側には海亀が顔を出す静かな海が広がる。
波の音が聞こえる境内には、ハワイとも日本とも思えない時間が流れていた。
海の向こうに沈みゆく夕日を見ながら、境内で採れた果物を頂いたり、住職の原さんが保存していた日系人の古い記録を見せてもらいながら、原さんの半生と、それに重なる日系移民の歴史を聞いたこともある。
お盆の時期には盆踊りの祭りが開かれ、日系人だけでなく、地元の人たちが集まって多くの人でにぎわった。
原さんは、長野県のお寺の長男として生まれた。将来は実家のお寺を継ぐものと思っていたが、20代半ばを過ぎたころ、「ハワイに、坊さんがいなくて困っている寺がある」と聞かされた。
大正元年(1912年)に建立された寺だが、空いたままになっているという。「3年くらい行ってくれないか」と請われ、いい経験になるだろうと、引き受けた。
1963年、横浜港から船に乗りこんだ。約10日の船旅だった。
ラハイナの寺に着くと、日系移民の1世たちが歓待し、口々に言った。「ようこんな寂しいところへ来て下さった」
日本では憧れのハワイと言われていたが、日系移民の生活はそんな生やさしいものではなかった。
日本からのハワイへの移民の歴史は、明治元年(1868年)にさかのぼる。
ハワイ王国がサトウキビ畑の労働者不足を補うために移民の手配を要請し、募集に応じた約150人が日本からオアフ島へ渡り、その一部はさらにマウイ島へと渡った。この年が明治元年だったため、一行は「元年者(がんねんもの)」と呼ばれた。
だが、サトウキビ畑の労働は厳しく、元年者たちが想像したような豊かな生活は待ってはいなかった。
ハワイ日本文化センターなどによると、サトウキビ畑では、フィリピン、中国、ポルトガル、スペインなどからの移民が日系移民と共に働いていたが、人種によって賃金が違い、日本人はフィリピン人に次いで低かったという。
1898年、アメリカのハワイ併合を経て、アメリカ政府がアジアからの移民を事実上禁じた1924年まで、日本から20万人以上がハワイに移民したと言われる。
ラハイナにはパイナップルの缶詰工場も作られ、そこでも多くの移民が働いていた。
原さんが到着した1963年は、ラハイナの缶詰工場が閉鎖された直後にあたる。サトウキビ生産も機械化され、労働者は職を失っていた。
賑わいがなくなった町に、年老いた日系1世たちがひっそりと暮らしていた。ラハイナ浄土院は、そんな1世が苦楽を語り、集まる場でもあった。
当初の予定の3年を大幅に過ぎた1968年。そろそろ日本へ帰国しようというとき、寺が火事に見舞われた。
原さんは留守で、妻の節子さんが本堂からご本尊の仏像を持って逃げたが、本堂は焼失した。原因ははっきりしないが、漏電だったようだという。
寺は日系人の子どもたちに日本語を教える場所でもあり、原さんは「先生」と呼ばれて慕われてきた。焼けた寺を放置して帰国することは考えられなかった。
日系人のコミュニティーが寄付を募り、町中の人たちが寺の再建を手伝った。原さんはそのままラハイナに留まる道を選んだ。そして、4人の子どもにも恵まれた。
あの火事から半世紀。本堂は今回の山火事で、再び炎に包まれた。とうとうご本尊の仏像も焼失したと思っていた9日、一人の女性が原さんの避難先を訪ねて来た。
6年ほど前、寺を訪ねてきて、「修行したい」と住み込んでいた尼僧の女性だった。8日の夜、女性は「避難しよう」という原さんの再三の説得を拒み、寺に残ると言い張った。
安否を案じていたが、その後、連絡がつかないままだった。
原さんの目前に車で現れた彼女は言った。
「仏さん、無事ですよ」
車の座席に、ご本尊の仏像が乗っていた。
女性は寺が炎に包まれるぎりぎりのところまで残り、最後、火の中に飛び込んでご本尊を持って逃げたのだという。
「日系移民たちが辛い時に祈った、100年以上の歴史が刻まれているご本尊だった。彼女が、命を省みずに救い出してくれた」。原さんは声を詰まらせた。
「2度も女性たちに救い出されたご本尊ですね」。そう言うと、原さんは顔を上げてほおを緩めた。「ほんとうに、そうですなあ」
ラハイナの街の中心部には、樹齢約150年と言われる巨大なガジュマルの木がある。
ラハイナの町のシンボルで、巨大な幹が広場を上から包み込み、こんもりとした大きな木陰を作っていた。
観光客はその下で涼を取り、地元の人は本を読んだり、寝転んだりした。
150年の間、ラハイナの盛衰を見守ってきたこのガジュマルの木も、炎に包まれた。だが、大部分が焼けたいまも、立ち続けているという。地元メディアは「まだ生きているようだ」と伝える。
原さんから最初に送られてきた無事を知らせるメールには、こう書かれていた。
「一夜にして街が壊滅しラハイナ浄土院も焼失してしまいました。諸行無常のことわりを煙火のたちのぼる中にまざまざと見せつけられた想いです。逃げ遅れた多くの人がいのちを落とされましたが私たちはお陰でいのちを頂いております」