――国際男性デー、最近少しずつ聞くようになってきましたが、どんな記念日なのでしょうか。
一言で言ってしまえば、男性というジェンダーを考える日です。ジェンダー不平等(男女格差)を生み出している男性側の問題と、一方で男性自身も生きづらさを感じているという、そのどちらも考えましょう、という日です。
つまり、男という性別がその人、あるいはほかの人たちの生き方にどんな影響を与えているのか、という視点を持つための日だと思います。
とはいえ、日本では知られるようになったのは最近です。女性たちが性暴力被害をSNSで訴えたMe Too運動(2017年)がアメリカで起き、それが日本に伝わったり、女性活躍推進の動きがあったりしました。女性が社会の中でもっと主体的に生きていくこと、男性がスキンシップだと思っていたことはセクハラだということ…そういったことについて、女性の側から訴えが出てきたときに、では男性はどう振る舞うのかと問われたのが2010年代後半から今にかけてありました。その流れの中で、そういえば国際男性デーというものがあるよねという話になり、ある程度はメディアでも報道されるようになったということだと思います。
――Me Too運動という、そもそもは女性の問題を考えるムーブメントがやがて男性の問題を考える動きにつながった、というのはなぜでしょうか。
2010年代後半、特に2015年以降というのは、日本ではLGBTQ+の人たちの権利についても注目されるようになった時期でした。従来のような「男は女が好き」「女は男が好き」という、つまり異性愛主義の人たちが結婚し、子どもを1人ないし2人ぐらい生んで、安定した社会を支えていくみたいなイメージは実態とどんどんかけ離れていき、実際、この頃にはいよいよ多くの人が気づくところになっていきました。
例えば2020年のデータで、生涯未婚率(50歳時未婚率)は男性が28.3%、女性は17.8%。結婚しない人はもうマイノリティーでもなく、若者の問題ですらなくなっています。既存の男女をめぐる秩序のようなものが現実としてかなり崩れていて、それに関する問いかけが社会の中で響くようになり、社会の「マジョリティー」である男性はどう行動するのか、という形で波及したのだと思いますね。
――国際男性デーに合わせて行われる行動や活動にはどんなものがあるのでしょうか。
世界では大学生が関連のイベントをやるなどしていますが、企業がイベントを開くこともあります。日本ですと例えば今年、ユニ・チャームが自社商品である男性用の尿漏れパッドをPRしながら、男性の体の問題について考えるというイベントを開きました。私も男性学の専門家として話をしました。
尿漏れというと女性のイメージがありますが、実は男性もあるようで、あまり知られていませんよね。男性にも更年期があることがまだまだ知られていないのと同じような感じです。ユニ・チャームがアンケートした結果、男性は尿漏れしても「放っておく」「ティッシュを詰める」という人が多いということなんです。
何が言いたいかというと、男性の体は自他共に、ある意味「雑」に扱われてきたのではないかと思うのです。尿漏れしているのであれば不快感があるはずなのに、乾くだろうとか、ティッシュ詰めておけとか…。あとは性器をめぐる問題でもあるので、男性同士が共感しながら悩みとして相談しにくいとか。
僕はこの例をよく出すのですが、男性が職場やお店などのトイレで小便をする際、のぞこうと思えば隣の人の性器が見えてしまうような状況です。インタビュー取材を受ける際、記者が女性だったら「小さなついたてしかなくて、『ここに座ってトイレして下さい』と言われたらできますか?」って聞くことがあります。皆さん「絶対できない」って言いますね。
この例からも、男性の体って「雑」に扱われているなと思ってしまいます。
でも、だからこそ、男性が自分の体についてもっと大切にしていこうとか、セルフケアしていきましょうとか、そういう動きは注目され始めていると思います。
――田中さんが男性のジェンダーにまつわる問題として注目していることは何でしょうか。
一つは働き方の問題ですね。例えば定年退職者って言葉を聞いたとき、多くの人はおじさんを思い浮かべるのではないでしょうか。それはその通りで、日本だと定年退職まで勤め上げる女性というのはほとんどいないわけですから。
だから企業の研修などでよく話すのですが、男性が定年まで働けることを「自明視」できること自体、自分の性別が男だからなのだと。そういう、自分が男だから自分の生き方がこうなっている、という視点を持つことがおそらくかなり大事だと思います。
多くの人はおかしいとも思わずに、そうしたシステムに参加しています。「壁」にぶつかることもなく、定年までスーッと働けちゃうので、考える余地がなかなかないんです。
ただ、中には、男というだけでフルタイムで40年間、定年まで働いて下さいという何となくの要請に違和感を持ったり、嫌だと思ったりする人はいるでしょう。そういう男性は、自分の性別が自らの生き方に影響を与えているんだなと気づきやすいでしょうね。
それを考えることで、もう一方の性である女性について、女という性別によって女性たちがどういう影響を受けているのだろうかと初めて想像できると思いますし、さらには男女という「二分法」でも位置づけられないセクシャルマイノリティーの人たちについても想像が及ぶようになると思います。
定年退職の話もそうですが、要するにこの社会は男性にある種の「特権」が与えられてきたわけですし、今も少なからずそうです。特権があるとなると、それによって割を食っている人がいる、つまり誰かの「足を踏んでいる」ということになるので、例えばそれは女性であったり、セクシャルマイノリティーであったりするわけです。そういう人たちの「犠牲」の上に自分たちの特権が築かれている、ということを考える必要がありますね。
――特権が与えられたはずの男性の中にすら苦しむ人がいて、女性やセクシャルマイノリティーは言わずもがな、というこの社会、システムの問題は改めて根深いと感じました。
その通りだと思います。そうしたジェンダーにまつわる問題を考えるのにいい材料を与えてくれるのが、例えばこの夏に公開された映画「バービー」だったと思います。
――一方で、特権を脅かされていると感じている男性もいるようです。こういう人たちについて田中さんはどう考えますか。
特権を脅かされていると感じている、というよりも、自分たちが信じて疑わない社会秩序の基盤が揺るがされていると感じているので、反発しているのではないかと思います。
つまり、女は男に従属し、セクシャルマイノリティーは排除されるという差別的な秩序が脅かされるのが嫌な人たちです。男性に限らず、保守的な人は女性にもいます。こういう人は「男は女が好きで、女は男が好き。男には男の役割があり、女には女の役割がある。そういう人たちが結婚して子どもを生んで、社会を安定させるのだ」という思想信条の持ち主です。典型例としては、子どもだけの登下校や短時間の留守番を「虐待」とした埼玉県虐待禁止条例改正案を提案して批判された県議たちでしょう。
このあたりの心理は何というか、自民党が選挙で勝つのと同じ理由かもしれません。変化を好まない、変化してよくなるかもしれないけど悪くなるかもしれない、だったら現状維持でいいだろうと考えている、と。
ただ、現状維持でいいと思って行動している結果、自分たちはどんどん困っていくと思うのですが…。そう感じている人たちが一定数いるということなんでしょうね。
――一定数と言っても、かなり多いなと個人的には感じているのですが、田中さんはどう思いますか。
その感じ方、まったく同感です。そもそもジェンダー問題に関心を持つ人自体がすでにマイノリティーだと思うんです。なので、ジェンダー不平等の世の中を変えたいと思う人は、まずその自覚を持たないと始まらないと思います。「でも最近の若い人たちは理解がある」と言う人がいるかもしれませんが、それはジェンダーの話題をしやすい仲間が周りにいて、その人たちだけの中で通じ合っているだけで、社会全体としてはまだまだこの問題はマイナー扱いされているんだというところを出発点にしないといけないのだと思います。
ある高校の男子生徒たちが修学旅行先で女子生徒が入浴するお風呂をのぞき見した出来事があり、それに対して人気ラッパーが「のぞくのは当たり前」と、のぞきをしない方が変というようなことをSNSで投稿していました。もちろん僕はこの発言は問題だと思うし、危機感も持つけども、一方で「まあ、そうだよね」と賛成する意見もあったわけです。こういう考えがまだまかり通ってしまう状況があるんだということを認識しないと、「戦い」ようもないなと思います。
――こうした考えを持っている人が多いのは、日本だけなのでしょうか。ジェンダーギャップ指数でも低迷していますし、何か日本だけが世界の潮流から取り残されているのでしょうか。
いや、そうでもないと思います。例えばアメリカでさえ、女性の大統領はいまだ誕生していません。女性の社会進出がある程度進み、賃金格差が縮まったとしても、国のリーダーを決める選挙では結局、ヒラリー・クリントン氏は勝てなかったわけで。いわゆる「ガラスの天井」という問題は世界中であるのだと思います。
――一方で、男性にとっては特権が与えられているはずの社会であっても、生きづらさを感じている男性がいるという点にも注目したいのですが、例えばどんな事例がありますか。
かつての日本社会はお父さんは働き、お母さんは家にいて家事と育児をして暮らしていたと。それが当時は「普通」だったと思うんですね。逆に共働きの両親がいる子どもなんかは「鍵っ子」って言われて。親が家にいないから自ら家の開け閉めをしないといけないので、自宅の鍵を首からぶら下げていたということから生まれた言葉なんですけども、このような家庭は「普通」ではなく、そこの子どもは可愛そうと思われたんですよね。
そうした状況が普通だという価値観の中で生まれ育った最後ぐらいの世代というのが、1970年代に生まれた、今の40、50代の人たちなんですね。なので当然、彼らの価値観にも影響しているわけで、例えば男性であれば、30代である程度の経済力をつけて結婚して、妻と子どもを養って、ローンを組みながら家を買って、車を買って…そんな暮らしを想像していたと思うんです。
ところが、そういった彼らが子どものころに経験していた「普通」の暮らしというのは、今やもう、かなりぜいたくになってしまっている。この世代はちょうど就職氷河期にもあたっていて、自分だけの稼ぎで家族を養っていくことは、多くの男性にとって難しくなっています。
先ほども紹介しましたが、生涯未婚率も男性の方が高いですし、就職氷河期の問題にいたっては年を重ねれば深刻になるに決まっていて、50代にもなってしまえばもう、取り返しがつかないと思うんですね。
そういうわけで、「普通の暮らしってこうだよね」という、子どものころ信じていたものに全然手が届かなくて、苦しんでいる男性はかなりいるだろうなと思います。
もちろん、今となっては男が大黒柱となって一人で家族を養っていく時代でもないし、結婚しなくたって生きていけるんだからということなんでしょうが、やっぱり20代ごろまでに形成された価値観は捨てきれるものではなく、尾を引いていると思います。「普通にも手が届かない俺」みたいな劣等感を抱いている男性はかなりいるんじゃないかと思います。
――実は私も1975年生まれなので、まさにその世代です。父親が外で働き、母親は主婦として家を守るという典型的な家庭で育ちました。だからすごく気持ちは分かります。妻も働いていますが、やっぱり自分が家族を支えないといけないという強迫観念はすごくあります。
私も75年生まれなのでわかります。やっぱりそういう世代の価値観に縛られてしまうということはどうしてもあって、それを「今は時代が変わって、そんな考えは古いから気にしなくていい」とか言われても、気にしちゃうんですよね。
男性の生きづらさで言えばもう一つ、「体」の問題があると思います。男性の体が「雑」に扱われているという、先ほど言ったことに関係するのですが、男性の体というものがちゃんとケアされているのかということが気になっています。
例えば最近だと子どもたちが学校で「プライベートゾーン」について学ぶぐらい、この考えは普及してきました。プライベートゾーンとは、他人に見せたり、触られたりしてはいけない体の部位ということで、水着で隠れるところだよという説明を受けているようなんですが、水着で隠れるところだと、男性の場合、胸は該当しないことになるんですよね。それはどうなんだろうと。
さっきトイレの話をしましたけど、僕がすごく苦手なのは、新幹線にある、男性用のおしっこをするトイレです。鍵がかからない上に、外から小窓で見えるようになっていて。僕は何回か開けられた経験があって、すごく嫌な思いをしました。
なぜこういう点に注目する必要があるのかと言えば、やはりジャニー喜多川氏の性暴力問題みたいなことがあったときに、これまでだと僕らはちょっと茶化して見てしまった面あがあるのではないかと思うんですね。
男性の体も大切にされるべきだと、僕らがもっと考えていたなら、もっと早い段階で何か対応できたのではないかなと。結局そうはならず、その後も被害者がどんどん増えてしまったわけですから。
そうした視点から考えると、プライベートゾーンとして男性の胸が入っていないとか、性器が簡単に見えてしまうような作りのトイレとか、自他共に男性の体を「雑」に扱ってしまったことについて、やっぱり反省しないといけないんじゃないか、というのは僕が最近痛切に感じていることです。
――僕らの世代が価値観の過渡期にいて苦しんでいるという話がありましたけど、この世代は今40、50歳代で、体の問題について言うなら不調という意味でもこの世代に当てはまることがありますね。例えば男性にも更年期があって、それは50代前後にあるとも言われています。
まさにそうだと思います。僕は男性の定年退職者と現役で働いている男性会社員の双方に対し、長いことインタビュー調査をしているのですが、50代で体を壊したという話が余りに多くて。それは更年期の問題もあるだろうし、それまで無理な働き方をしてきたことによる勤続疲労の問題もあるでしょうし。ちょうどその年代に体にがたがくるのでしょうね。
そして今過渡期とおっしゃいましたけど、この言葉は便利な言葉として使われすぎている気がします。例えば「今は過渡期です。これから良くなります」と言われることがありますが、まさに過渡期というはざまにいる人にとってはとても苦しいわけです。「過渡期」という言葉では済まないものだとも思います。
――過渡期の話で言いますと、ジェンダー不平等のこの社会はやっぱり問題だと考えた男性たちが、頑張って仕事も家庭もしっかり両立をしようとしたとしても、一方で従来の価値観も引きずっているが故に、そちらの価値観で求められる役割のようなものも引き受けてしまい、結果的に二重に責任や負担を負ってしまう男性もいるのではないかと思うのですが、これはどう考えたらいいのでしょうか。
今回の取材依頼が来たとき、まさにその話をしようと思っていたことがあります。何かと言うと、育休についての事例です。最近、男性が育休を取得することが増えていると思いますが、僕が聞いたケースだと、ある男性が育休を2カ月取りましたと。彼の会社としては、2カ月の育休はすごく画期的なことで、取得できてよかったねということになるはずなのに、育休明けに出社すると、会社側は「2カ月も育休を取らせてやったんだから、復帰したからにはバリバリ働くんだろうな」というモードで。一方、妻からは「子どもなんて2カ月で全然育つわけじゃないのに、また忙しくなるんだったら、育休なんて取らなくていいから毎日定時で帰ってきて欲しかった」みたいに言われちゃうと。まさに板挟みであり、過渡期だからこそ起こりうることです。
古い価値観の男性なら気にしないわけです。妻から何を言われようとも「いや、俺働くんだ」って無視できたわけなので。それはすごくよくないことなんだけど、少なくともその人にとってはあまり負荷はかかっていない。
でも真面目に今の社会の価値観や風潮に対応しようと頑張れば頑張るほど、過渡期はやっぱり矛盾があるから、苦しむわけです。「真面目に向き合うと損だ」みたいに思う人が増えると変化自体が逆流しかねないですし、すごくまずい状況です。
――うまい解決方法はあるのでしょうか?
僕が思うのは、結婚して子どもがいる場合のことを考えると、一つは社会の不平等を家庭に持ち込まないようにしてみることがまず重要じゃないかなと。例えば日本は賃金格差が大きい社会です。うちの家庭もそうなんですが、外の不平等を家に持ち込むと、「僕の方が稼ぎがあるんだから、僕の方が家事の負担は少し軽くていいじゃないか」みたいな話に必ずなってきます。
一方で、僕が育休取ることになっても、家計全体としては困ることになるかもしれないので、そういうことをいったん持ち込まないで、まずは家庭のことだけを考えて、家事と育児の分担を考えるとどうなるかと考えてみると。もちろん、家庭の外には矛盾があるわけだから、それでもうまくいくとは限らない。でもそのときに、夫や妻、男性や女性といった個人のせいにするのではなく、我が家ではフェアにやろうとしているけど、できないのは社会がおかしいんだと考えることが重要だと思います。
――男性が弱音を吐きづらい、あるいは仕事上の役職などでも女性の登用が進みつつも、逆にそうした責任ある立場から降りたくても降りられない男性もいるかもしれない、という問題もあるのかなと思っています。
男性が男性であるが故に抱えてしまっている問題の中で、一番大きいのが仕事に関する問題だと思います。長時間労働はとりわけ根深いわけですが、男女の賃金格差がこれだけある中で、お父さんが働かなかったら家のローンを払えませんとか、子どもの学費を払えませんとか、まだまだそういった現実があるわけです。
つまり、社会の問題が解決されない限り、なかなか弱音が吐けないという構造的な問題になっていると思います。男性も弱音がはけるようになるためにも、長期的にはやはり男女の賃金格差が解消されるなどの社会変化が必要で、男性の自由という点から考えてもいいことだと思います。
ただ、やっぱり短期的にはそんな社会構造の変化は突然起きないので、まずは同じ境遇の男性たちが集まって「ガス抜き」のようなことをするのも大事なんじゃないかと思います。
役職などから男性が降りたいと思うことについても、女性が今後もっと企業や社会で活躍していくことを考えると、男性がお金を稼ぎ、会社の中で偉くなっていくことがいいことなんだと考える人たちの信念が、ある程度壊されていく必要があるなと思います。
特に国際男性デーに合わせて、「男性だからと言ってもそんなに頑張らなくてもいい」「男性も弱音を吐いてもいい」というメッセージが世の中に出てきたときに、少なからずそれに不安を抱く親がいるんですね。実際、僕の講演会でもそういった不安をぶつけられることがあって、「そうは言いますけど、その結果、うちの子がいい大学行けなかったらどうするんですか、いい会社行けなかったらどうするんですか」というように。男の子はやっぱり競争した方がいいんじゃないかという意見はどうしても出てきてしまうんですよ。それはなぜかと言うと、やっぱりまだまだ僕らが「男はいい会社に入って、太い大黒柱になるんだ、そのためにはいい大学に行かなきゃいけない」っていう信念を持ってしまっていることの証拠だと思うんです。
男性にとって最も大事なことは、経済的に自立して社会的地位を勝ち取ることだという信念をやっぱり捨てていかないと社会は抜本的に変わらないでしょう。男性が40年間、正社員として定年まで勤め上げるんだという世の中の要請が一貫して変わらないのであれば、女性の活躍推進と言ったところで、「絵に描いた餅」になってしまうだろうと思います。実際、女性がフルタイムで働いているのは、景気が悪いからとか、食べられないからとかの理由であるケースがあるので。
――男性も自らの生きづらさを言ってもいい、と言われながらも、一方で、一部の女性からは、女性差別がまだまだ解消されてもいない状況下で、男性の「権利」について主張することへの反発があるのではないかと思ってしまうのですが、いかがでしょうか。
それはもう、僕が日頃言われていることです。もちろん「男性の方が大変だ」という話になったら確かにおかしいけど、男性として社会から期待されていることに違和感があるという表明自体は、今ある性別の秩序、つまりこの社会は男女というたった2種類の性別でしか考えられていないという秩序を壊すためには、とても有意義なことだと思うんです。
それにもし、自らの生きづらさについて声を上げる男性に対し、「女性の方が大変なんだ」と言ってしまうと、それによってどんな人が黙ってしまうかというと、その理屈がわかる人しか黙らないですよ。それとは逆に、「いや、男性の方がこの社会では大変なんだ」と考えている人、つまり女性たちが本来、対峙すべき男性に対しては火に油を注ぐことになってしまうと思います。
もちろん、この社会で特権を与えられてきた男性たち自身が、生きづらさを訴えることに対して女性側が「怖さ」を感じることは想像できます。「男だって」と言われ始めれば、女性側は自分たちの主張が薄まってしまうのではないかという懸念があるでしょう。ただ、そうすることは、繰り返しになりますが、味方になれるはずの男性を黙らせ、対峙すべき男性は刺激してしまう、という事態を招きかねないと思います。
――一方、男性側の中には、国際男性デーや、男性の生きづらさという視点を、従来の価値観を「補強」するために利用する人がいるのではないでしょうか。
それがすごく大きな問題だと思いますね。そういう人たちがもし、何かの腹いせにそう主張しているのだとしたら、男性だからということで競争を強いられ、「負けてきた」経験があったのではないかなと考えたりします。
確かに男性にとって優位な社会ではあるけれど、男性は男性で受験や就職、会社での出世をめぐって競争させられているわけですね。で、実はその競争で敗れた男性というのはかなりいるわけです。だとするならば、怒りや反発は本来、勝った者しかいい思いができないという、その仕組みを作った人たちや、特権を守るために必死な人たちに対して向かなきゃいけないはずなのに、そうはならず、「俺たちがこんな思いをしているのは女性の権利が拡張しているからだ」とか、あるいは「移民が増えるから俺たちの仕事が取られるんだ」とか、何か弱い人たちに矛先を向けてしまっているという問題がある気がします。