――4月に開催したイベントには約24万人が参加しました。
前身の団体に関わるようになったのが2013年。当時はLGBTという言葉に、「サンドイッチ?」「BLTですね」、「電球?」「LEDですね」と、そういうレベル。それを思えば、言葉の認知度は劇的に上がりました。
今年も会場の代々木公園で同性同士が当たり前のように手をつないで歩いていた。でも公園を出たら、サッと手を離す、そういう現実もあります。
知り合いに同世代のトランス男性がいます。長年付き合っている女性のパートナーの両親は、手術して性別を変更し、結婚するなら2人のことを認めると。本人は手術には踏み切れない。でも彼女と一緒にいたい、彼女の家族も大切にしたい。思い悩んで鬱になり自殺を図ってしまいました。幸い一命は取りとめました。
彼女の両親に悪意はないと思います。ただただ娘に幸せになってほしいと。でもトランスジェンダーでパートナーと幸せに生きているロールモデルが見えないから、当事者は自己肯定感を持てず、家族も未来を描けない。
――社会の理解はどうでしょう。
よく理解してくれる方もいれば、言葉だけ知って理解したつもりになっている方もいます。つまり「それは当事者の人たちの問題なんでしょう」と。でも、仮に当事者が1割とすれば、残る9割の人たちの意識や行動が変わらないと、課題は解消されません。
LGBTQは自殺リスクが高い。当事者が弱いからか、自殺に追い込まれるほどプレッシャーをかけ続けてたことに気づかないマジョリティーの課題なのか。僕は後者だと思います。
ただ、これは偉そうに言うつもりもありません。LGBTQに限らず当事者と非当事者は表裏一体。僕もマイノリティーとマジョリティーの両方の側面があります。子どもがそうかもしれない、身近な大切な人がそうかもしれない。そうなって初めて「こんな課題があるのか」と気づくのではなく、先に「これはみんなの課題だ」と声を上げ、解決する社会にしたい。
――2015年の渋谷区の同性パートナーシップ制度(自治体がLGBTQカップルに証明書を出し、社会的配慮などを受けやすくする)に関わりました。
一番の功績は、「LGBTQの人たちはいない」という前提が、「そういう人たちがいる」と覆ったこと。それによって、「これが足りていない」「こういうことも可能なのでは」といった議論ができるようになったのです。ようやく「いる」ことを前提とした議論に変わったんです。制度はその後、日本中に広がりました。
でも十分ではない。僕とパートナーには法的な関係性がありません。話し合った結果、彼女の強い希望もあり、僕が子どもと養子縁組をしています。
彼女には親権がないから、子どもの行政書類などの手続きは僕しかできない。この間もパスポートを作ろうとして、子どもの戸籍謄本を彼女が取れず、困りました。共に親として暮らしていても制度に阻まれどちらかが親としての義務を果たせない形になっている。そんな場面はまだまだある。
僕たちがなぜ同性婚、婚姻の平等にこだわるのか。「すべて国民はみな平等」と言いながら、結婚できる人とできない人がいる。裏を返せば「すべての国民」にLGBTQは含んでいない。差別や偏見につながる構造的な問題が、日本社会のベースに組み込まれている。
6月16日に成立したLGBT理解増進法は、少数派の基本的人権を守るために作るはずだったのに、既に権利が保障されている多数派への配慮を盛り込むという本末転倒のものになった。議論の過程で、あたかもLGBTQの権利を認めると社会を脅かすことになるという誤った言説が流布したことも大きな問題です。
――女性用トイレの利用に関して、「『心は女性』と偽って男性が入ってくるのでは」といった声が上がりました。
シスジェンダー(生まれたときの性別と性自認が一致している人)は「今日、トイレ入れるかな」なんて考えたことがないと思います。でも僕は今でもトイレで「男」「女」の表示を見ると、「お前はどっちなんだ」と突きつけられている感覚になります。
移行前は女性用に入りました。それだってすごく嫌でしたが、男性用には入れない。見た目に変化が出てくると、どっちも入れず、多目的トイレを使うか、あきらめました。見た目が変わって、そろそろ大丈夫かなと男性用に入りました。
いきなり「今日から女」だと言い張って女性トイレに入るトランスジェンダーはまずいない。トランスジェンダー当事者が一番、自分たちが社会的に置かれている現状を理解しています。「変な人」という疑いの目をかけられないかと不安を抱えながら、目立たないように日常生活をひっそりと送っているのが現状です。
こんな議論になるのは、男女格差の問題もあります。
女性から男性に移行して男性トイレを使う人に、男性から不安の声は出ません。性暴力への懸念があるのは、圧倒的に女性。被害を泣き寝入りさせてきた社会の責任であり、トランスジェンダーのせいではありません。
不安につけこみ反対意見をあおる風潮がありますが、シスジェンダー女性とトランスジェンダー女性の権利は決して対立するものではないので、すべての人が安全に暮らすためにどうすればよいか、冷静な議論を丁寧に進めたい。
――トランスジェンダーのアスリートのスポーツ参加に関して海外を中心に議論が起きています。
スポーツには、子どもが楽しむものから、ゼロコンマ1秒を競うトップアスリートの世界まで色んなレイヤー(階層)がある。全部一緒に語ることはできない。
トランスジェンダーでも、性別移行のどの段階にあるか、トランス男性とトランス女性でも違う。
まず、オリンピック憲章や日本のスポーツ基本法には、あらゆる差別の禁止や全ての人にスポーツに参加する機会が与えられなければならない、というルールがあります。スポーツをやることで心身ともに健康に育ったり、学校で仲間との関係を築いたり、得られるものは本当にたくさんある。ある属性の人だけ、そこから排除されるような考え方が出てくるのは、とても危険。
そのうえで、人権の問題と競技の公平性の間でどこを取るかという議論になる。2015年に国際オリンピック委員会(IOC)は「血清中テストステロンレベルが一定値以下」などのルールを決めた。その後、差別がないことなど、の条件を示して、各競技団体に判断をしてもらうことになった。
決まったルールに対して建設的な批判はあっていい。でも、ルールを守ったうえで出場している選手に対する誹謗中傷は絶対にあってはならない。
東京五輪には重量挙げのトランス女性の選手が出ました。彼女はルールを守って出場している。「ずるい」「卑怯だ」と彼女に言うのは全くの筋違い。
IOCが各競技団体に判断を預けたことを「逃げた」という声もあるが、そうせざるを得ない面もある。各競技特性の差は大きく乗馬のように男女混合の競技もあるので、一律に決めるのは難しい。
柔道には体重別があるけど、バスケットに身長別はない。貧困国で生まれた人と豊かな国で生まれた人が競うことも、本当に公平だろうか、という視点だってある。ハンデやアドバンテージ、バックグラウンドも含めて、厳しいトレーニングをし、競い合うのがアスリートの世界。性別だけに特化して不公平だという議論は違和感がある。
スポーツと社会問題は別と言われこともあるが、スポーツと社会は切っても切り離せない。特にトランス女性は社会から追いやられ、差別的な目を向けられ、色んな被害を受けている。それなのに常に加害者の土俵で語られるのはなぜなのか。スポーツだけを切り取って公平・不公平だと言うのではなくそこにも目を向けてほしい。
ただ、スポーツで性的マイノリティーの参加が議論されることによって、初めてその存在や課題を知る人もいる。答えがなかなか出ないからこそ、答えを見つけるまでの過程を、お互いを尊重しながら続けていってほしい。
――カミングアウトについてはどう考えていますか。
強制されないのが大前提。でも、性のあり方は見えないから、今の日本では、言わないと存在しないものになってしまう。
圧倒的多数は異性愛者で、「奥さんとけんかしちゃって」とか、「子どもと遊び行った」とか、日常生活の中で普通に話します。それはある意味、カミングアウトなんですよね。そういう場面でマイノリティーは居づらかったり、異性愛者のふりをしたりして、やり過ごしている。
法整備と同じで、そうした会話もマイノリティーはいないことが前提になっている。だから、言える人から言おうというのが僕のスタンス。
僕自身も周囲からは、わざわざ初めて会った人にまで「元女子です」なんて言わなくていいじゃない、と言われます。でもあえてそこで伝えることで、会った人に一つでも新しい引き出しができるのであれば、やっぱり言おうと思って積極的にカミングアウトしてます。
そうしてマイノリティーがいることが前提になり、言っても言わなくても、不利益もなく、ありのままでいられる社会を目指したいです。