日本社会に根をおろしてきたフィリピン人のこだわり
JR西川口駅に降り立ち、あたりを散策すると中国の簡体字の看板を掲げた料理店が至る所にある。日本風にアレンジをしない「ガチ中華」の料理店がある所はかつては歓楽街として知られ、1980年代には歌手などが対象の「興行」の在留資格などで働くフィリピン人たちもパブなどで働いていた。今もいくつかパブが残る。
鈴木マリアさん(64)の店「Cocina Grill(クシナグリル)」もそんな駅近くにある。マリアさんは川口に計30年暮らし、日本では珍しい本場のフィリピン料理店を2020年に家族と始めた。
今では在日フィリピン人とルーツをもつ人たちが自らのアイデンティティーを再確認するよりどころになっている。
「カレカレが食べたいんです」。雨の土曜日、車で1時間ほどの埼玉県杉戸町から、妻と会社員のグライナー・チャールズ・ロナルドさん(48)が店にやってきた。
8歳から千葉県で育ち、故郷のフィリピンには30年戻っていない。フィリピン語は理解できるが、話せなくなってきた。それでもフィリピンの祖母の味が恋しくて、ネットで店を探してやってきた。
ピーナツソースや牛肉を使った煮込みを一口食べて、うなった。「うまい。マサラップ(おいしい)です!」。マリアさん(64)が「これも懐かしいはずよ」と、酸味のある「シニガンスープ」をそっと出した。
マリアさんは16歳のときから料理をなりわいにしてきた。マニラ近郊アンティポロの家の軒先で、果物と氷や豆などを混ぜて食べるデザート「ハロハロ」の店を始め、母や妹と料理を提供した。
でも稼ぎはわずか。働き口のない故郷を離れ、川口に来たのは1991年のことだ。
東京・王子のスナックで皿洗いをしながら、同僚らを相手に衣類の洗濯をしたり、パンシット(焼きそば)などのフィリピン料理を売ったりした。
当時、客に出されるフィリピン料理を見ると、マリアさんは複雑な気持ちになった。
「揚げ物が多く、夜のお店だから料金も高い。日本の男性客の間でフィリピン料理は高いとか、脂っこいというイメージができてしまった。本当のフィリピン料理を食べてほしいと思った」
いったん帰国し、フィリピンで日本人男性と再婚。現地で成長した3人の子どもを連れ、1995年ごろ川口に戻ってきた。東京都内でのフィリピン料理店経営をへて、今回の店は2度目の挑戦だ。
フィリピン人は、川口に住む外国籍の住人の中では3番目に多く、歴史的には韓国・朝鮮出身者らに続く「オールドカマー」だ。
店には懐かしい味を求めて東京や千葉、茨城からも客がやってくる。
この日来店した客のジェイさん(23)は、13歳から東京・新宿で育った。父は日本人、母はフィリピン人だが、フィリピンの家庭料理になじみがなく、ボーイフレンドのケンさん(24)に「これは何?」と聞きながら食べていた。
言葉を知らない2世・3世 それでもママの味求めて
様々な客にフィリピン語と日本語で接するのはマリアの長女(41)だ。
フィリピンで育ち10代半ばで川口に来た。必死で勉強して専門学校を卒業、友人は日本人が多い。
「日本育ちでフィリピン語がわからない人や、フィリピンのことを知らない人もたくさんいる。それでもママの味が食べたいと店に来てくれる。フィリピン料理店は挑戦だけど、だからこそやろうと家族で話した」と言う。
マリアさんも思う。「アイデンティティーは大事。自分のお父さんやお母さんが食べてきたもの、食べたいじゃないですか」。
マリアさんの孫は13歳から2歳まで、4人とも日本で育った。ほとんどわからないフィリピン語で「ローラ(おばあちゃん)」と呼び、マリアさんの手におでこをつけてフィリピン式で敬意を表す。
大きくなる頃、日本のモールでフィリピン料理も食べられるようになることが、家族の夢だ。
実はマリアさんにはもう一つの夢がある。この30年で多くのフィリピン人が日本で家庭をもち、郷里の家族を経済的に支えてきた。その一方で、家庭内暴力にあって離婚したり、年をとって日本に身寄りがいなくなったりして、つらい思いをする同胞の姿も目の当たりにしてきた。
「自分のためじゃなく、みんなフィリピンにいる家族のために働いてきた。でも、年をとって、日本から帰ってもフィリピンに家族がいなくなってしまった人や帰る場所がない人もいる。涙が出ます」
長く日本で暮らす間に、ひとりぼっちになってしまった同胞が安心して帰ることができる場所を、今度はフィリピンに作りたい。郷里アンティポロの農場をそんな場所にできないかと考えている。
マリアさんの頭にあるのはやっぱり食べ物。食を通じて、人と支え合いたいということだ。「豚を飼ったり、野菜を作ったり。農場でなすや大根を作って日本の漬けものを作れば、フィリピンで売れるかもしれないね」。日本とフィリピンで、海を渡った人たちの居場所づくりはまだまだ続いていきそうだ。