暑くて危険「日本の若い人には、なかなかできない仕事」
上半身はだかになり、厳しい表情で作業をする男性。JR川口駅前に1974年からある「働く歓び」の像は、鋳物工場で溶けた高温の鉄を鋳型に流し込む「湯」入れの作業風景を表したものだ。
川口市内にある鋳物会社小泉アルミで、いまこの仕事を担う一人が、インドネシアの東ジャワ州からやって来たユリ・サプトロさん(26)だ。
溶かした700度のアルミを、鋳型に流し込む。「危ない仕事で、素早く作業をしなければいけないので大変です。日本の若い人には、なかなかできない仕事なんだろうなと思う」とユリさんは話す。
2019年に技能実習生として来日し、その後、特定技能の資格を得て、この工場で4年間仕事をしてきた。ふるさとにはまだ学校に通う弟がおり、仕送りを続けてきた。近くインドネシアに帰国して家を建てるつもりだ。
郷里では鋳物の仕事をする機会はないかもしれない。「先のことは帰ってから考えるけれど、また日本に来ると思います」。
社長の内田英嗣さん(53)と、妻の内田小百合さん(47)が経営する小泉アルミは、英嗣さんの祖父の代から続く鋳物工場だ。「昔は土地があったから、型をずらっと並べて、1日かけて湯入れをやった。役所の3倍も給料をもらえた者もいたそうです」と英嗣さんは言う。
高温の鋳物を扱う現場は夏場は暑く、上半身裸になって作業をするほどだ。工作機械の部品やオリジナルの食器類も手がけ、受注も順調だが、働き手の確保は難しい。
川口鋳物工業協同組合によると、川口の鋳物製造は遅くとも戦国時代には始まっていたといわれ、江戸時代には鍋、くわなどの日用品や農具、寺社の鐘の製造、幕末には幕府から大砲、弾丸を受注し始めた。
その後の日清、日露戦争は軍需用途で川口の鋳物産業が大きく発展した。1942年には単独市で鋳物生産量日本一、47年の鋳物生産額は全国の約3分の1を占めるまでになったが、住宅地の中にも小規模な鋳物工場が混在する川口市では、住宅の需要が高まるにつれて工場の操業がしづらくなり、廃業も相次いだ。同組合員数は1947年の703社から、現在は102社と7分の1近くになった。
働き手の確保も課題になる中、海外から技能実習生を受け入れる企業も多い。
小泉アルミでは15年ほど前、フィリピン出身の人にアルバイトで来てもらったのを皮切りに、5年ほど前からは技能実習生や外国籍住民を計画的に受け入れるようになった。今ではインドネシア、フィリピン、バングラデシュ、ベトナムの出身者が7人おり、これから5人仲間入りする予定だ。
すぐにやめてしまわれないように、仕事は午前8時から午後5時15分の定時、1時間の残業があれば残業代はもちろんきちんと支払い、社会保険などの必要な労働環境を整えて社員を大事にしようとしている。
川口の伝統産業引き継ぐには「外国の若い人が頼り」
英嗣さんは「外国人を頼りにしないと回らない」と明かす。自社のホームページにも「現在この仕事は高齢化になり、若い人に好かれない仕事になってきています。川口の伝統である『鋳物』を絶やさぬよう、これからは若い力を借り、力を合わせて取り組んで参りたいと思います」と書いた。鋳物づくりの現場の現実だ。
外国にルーツのある働き手の人にもう一人話を聞いた。バリンギット・ユウキ・ボーイさん(32)。
フィリピンのルソン島中部パンパンガ州出身で、日本のバナナ工場で働いていた母を頼って17歳のときに来日した。日本で夜間中学校に1年間通い、川口での暮らしはもう15年ほど。小泉アルミでの仕事も通算11年ほどになり、英嗣さんたちにも頼りにされている。
ユウキさんの父親は日本人で、長年行方がわからなかったが、最近日本で約30年ぶりに再会を果たした。「神様のおかげかな。家族との時間を持ててとてもうれしかった」。
ユウキさんは日本でフィリピン人の妻と結婚し、長男は5歳になった。「子どもは今は英語しか話せないけれど、日本で小学校に通ったら日本語で勉強する。大きくなったらどうなるかな」とユウキさんは話す。
様々なルーツをもつ家族が、川口の鋳物工場からも生まれている。