首都圏のビル、家屋解体になくてはならない存在
園芸業者や町工場が点在する川口市の戸塚安行駅から徒歩十数分。通りから奥まった一角に、早朝から大型バンで次々と男性客がやって来る店がある。簡易テントの中で売られているのは、ケバブや酸っぱいオリーブとチーズ入りのパン「ポアチャ」などトルコ料理の軽食だ。
解体現場で働くクルドの男性たちが朝食を食べに来る。「今日は春日部の現場です」。午前7時45分、紅茶を飲んでいたトルコとセネガル出身の男性がさっそうと出発した。
いまや首都圏のビルや家屋の解体作業に、クルドの人たちは欠かせない存在になっている。川口などでクルドの人たちが経営あるいは働く解体業者はおよそ170社あるという。
川口市芝で暮らすマムト・サグラムさん(36)も2016年に会社を立ち上げた。いまは日本人も2人雇っている。
クルドの人たちはトルコ、イラク、シリア、イランなどにまたがる山岳地帯に暮らしてきた。最も多くが暮らすといわれるトルコでは公の場でのクルド語の使用が禁じられた時代もあり、抑圧を感じた人らが国外に移住、日本最大のコミュニティーが川口市にある。
トルコ南部パザルジクで育ったマムトさんは、大学でマーケティングを学んだ。大学でクルド人の歴史について調べたり、発言したりするといじめられたり、差別を感じたりすることもあったという。
2009年、政府に抗議するデモに参加した帰り道、警察に逮捕された。
釈放されたのは7カ月後のこと。「姉やいとこがいるヨーロッパに行こうか。でもビザの審査に数カ月かかる間にまた捕まってしまう」。
ビザなしで渡航できる日本行きを決め、パスポートを取得、釈放から23日後の2010年8月に日本に着いた。親類を頼って川口に来てまもなく13年になるが、以来一度もトルコに帰っていない。
日本クルド文化協会事務局長のワッカス・チョーラクさん(41)によると、クルドの人たちは1990年代に川口周辺に住み始めた。たまたま市内に住んでいたイラン人を頼ってコミュニティーが広がったといい、現在では2000人以上とも言われる。マムトさんも「川口には親類が100人いる」という。
マムトさんは日本で難民認定申請をした。その審査中に始めたのが解体現場でのアルバイトだった。
日本人の親方のもと、東京や横浜の現場に行っては、解体作業をした。言葉がわからず、日本語とクルド語の辞書を持ち歩いた。「右、左がわかれば大丈夫だよ」と親切にしてもらい、機材の使い方も教わった。
3年ほど後に来日したイペックさんと日本で結婚し、2015年に長女、2018年に次女、2022年には長男が生まれた。結局、難民とは認定されなかったが、法務大臣が特別な理由を考慮する「定住者」としての居住が認められた。
川口でずっと暮らしたいと家を新築中だ。川口は高速道路にもすぐ乗れて首都圏一帯の現場に移動しやすく、土地や物価も高すぎず、「便利でちょうどいい所」。
親切な病院もあるし、同胞がいる。イペックさんは「別の場所に行くとガイジンみたい、川口は普通の家みたい」と笑う。
不安定な立場、入管法改正でさらに
ただ、チョーラクさんによるとクルド人の同胞の多くは、難民申請をしても却下され、半数近くが、一時的に身柄の拘束を解かれた「仮放免」の状況におかれている。
仕事をすることは認められず、病気やけがをしても健康保険証もない。
マムトさんの心配は入管法の改正案が国会で審議されていることだ。
3回以上難民申請をしている外国人は迫害の恐れがあっても、国に帰される可能性がある。「クルド人は解体など日本の若い人が就かなくなった仕事に慣れている人も多い。子どもが大学生になった家庭もある。みんながきちんと働いて税金を払えるようにし、追い返すことはしないでほしい」と訴える。