■生後4カ月の乳児を抱え、零下で2日間飲まず食わず
――現地は「ヨーロッパ最古の原生林」とも呼ばれていますが、いつごろ、どうやって入ったのですか?
拠点にしているオランダから、空路ワルシャワに飛び、そこからレンタカーでハイヌフカというベラルーシ国境近くの街に向かいました。10月26日のことです。
幹線道路を外れると深い森がどこまでも続いていて、街灯もあまりありませんから夜になると真っ暗で、ぽつんと暗闇に取り残されたような感覚に陥ります。対向車の照明で周囲の様子がやっと分かる、そんな状況です。
そこで、1カ月半の間に五つのグループに取材しました。イラクのクルド人の16人、シリア人の4人組と3人組、また別の3人組、トルコのクルド人2人です。また、森ではありませんが、モロッコ人やセネガル人にも出会いました。地元の病院関係者やボランティアに聞くと、他にもカメルーンやコンゴなどのアフリカ、アフガニスタンやイエメンなどからも多く来ているようです。
――子どもも大勢いるようですね?
クルド人のグループは16人のうち9人が子どもでした。暗い森の中で生後わずか4カ月の赤ちゃんを見た時は本当に驚きました。すでに気温は3度しかなく、晩にはマイナス1度ぐらいに下がるという苛酷な状況です。手はかじかむし、そこにいるだけで身体の芯まで冷え込んでしまう。そこに子どもだらけの一団がいたのです。
寒かったのでしょう、森の中で見つけたときには固まって座りこんでいました。4カ月の赤ちゃんを抱いている母親がいて、そのそばで6歳ぐらいの女の子がじゃれ合っていました。10歳ぐらいの男の子がボランティアからチョコレートをもらって、サンキューと拙い英語でお礼を言っていました。
身につけているのは、ジャンバーなどごくふつうの冬用の衣服。夜はマットを被って寒さをしのいでいたそうです。前日に雨が降って枯れ草が濡れてずっしりと重くなっていました。食べ物も尽き、赤ちゃんの粉ミルクが少し残っているだけでした。インタビューに応じた30代後半の男性は「2日間、飲まず食わすだ。(ボランティアが来てくれなかったら)あと3日もたなかっただろう」と話していました。
さらに驚いたのは、そのグループは2週間でポーランドとベラルーシの国境を8回も行ったり来たりさせられていたことです。それを聞いたとき、「8回?」と思わず聞き返してしまったのですが、通訳のボランティアは「そんなに多い方じゃない。30回というグループもいた」と教えてくれました。
ポーランドの国境警備隊に見つかってベラルーシ側に押し返されたと思ったら、ベラルーシからまた押し返される。そんなプッシュバックを繰り返しているうちに移民らは食糧や水が尽き果ててしまう。どうしようもなくなって、SOSを発信して救助を求めるのです。
移民たちの間でも最初は水や食糧を分けて助け合っていたのですが、押し返されてまた戻ってくるのが分かってくると、多くの人がそれもしなくなったと、ある移民が話してくれました。飢えている人もたくさん見たけれど、自分の食糧を確保していないと死んでしまう。そんな気持ちになったそうです。
実際、遺体も見つかっています。少なくとも13人がベラルーシ国境周辺で死亡したと報じられています。ただ、移民たちは国境警備隊に見つからないように基本的に身を隠しながらドイツなどに近づいていきます。
森はものすごく深く、沼もあちこちにあります。自分がどこにいるのか分からず、存在が把握されないまま息絶えてしまう人も大勢いるのではないか。地元の人々はそう口をそろえて心配していました。国境でスマホを取り上げられてしまうという情報も聞きます。それが本当なら連絡もできなくなってしまうわけです。
――そもそも、なぜ移民たちは故郷を逃れてきたのですか?
話を聞いたクルド人の家族は、IS(イスラム国)の支持者に殺害予告をされ、故郷を逃れてきたと語っていました。民兵に所属していた親族がISの掃討作戦で名の知れた人だったそうで、アラビア語を話す人物から脅迫を受けたと話していました。
また、シリア人の人たちは内戦から逃れるために欧州への脱出口を探していて、ベラルーシ経由のルートを見つけたと話していました。ほかにも、生き別れになっている娘に会いたくて来たというモロッコ人もいました。それぞれ事情は異なりますが、身の危険を感じて逃げてきた人が多いと思います。
彼らの多くは英語もほとんど話せなくて、アラビア語圏の人がほとんど。地元ボランティアの中にアラビア語を話せるスタッフがいて、健康状態を聞いて医療提供したり、難民申請の援助をしたりと現場でニーズに応じた対応をとっています。私もスタッフに通訳してもらってインタビューしました。
■赤十字すら立ち入り禁止、頼りは地元住民ら
――移民たちの命を支えているのは、地元のボランティアなのですね?
移民たちは特殊な状況下に置かれています。9月2日にポーランド政府が非常事態を宣言し、ベラルーシの国境から3キロ圏内については地元住民以外の立ち入りが禁止されているのです。
人道危機が叫ばれるような場所は、国際NGOや国連系の団体、赤十字など危機対応の経験がある組織が現場に入っているのが常ですが、彼らも立ち入ることができません。地元の赤十字組織の理事は大きな溜め息を吐いて、「なぜ現場に入れないのか理由は分からない。国際赤十字は160年の歴史、ポーランドの赤十字も100年間の歴史があり、この状況は人道危機なのに」と語っていました。
そうなると、3キロ圏内で移民たちを助けられるのは地元のポーランド住民だけです。大勢の人々が森林の中からSOSを発している現状を見て、ボランティアの有志らがSNSを使ったグループをつくり情報交換をしながら救助に向かい、水や防寒着、食糧を届けるという活動を始めました。それがだんだんと組織的になり、「グルーパ・グラニーツァ」(英語でボーダー・グループの意味)と呼ばれていました。
彼らはSNS上にヘルプライン(連絡先)を公表していて、国境付近で助けが必要な移民らからメールや電話で救助要請を受け付けています。森林で道なき道をさまよっている人々は、自分たちの居場所を知らせるGPSの位置情報を送信。それにもとづいて、地元ボランティアの人々が現場に向かいます。
私もボランティアから送られてきたGPSの位置情報を頼りに森の中に入り、夜間はヘッドライトを付けて道なき道を進みました。欧州最古の原生林と言われるだけあって、手つかずの森が残っていて、オオカミやヨーロッパ・バイソンなどの野生動物もいます。地元の人たちによれば、オオカミが人間を襲うことは稀だそうで、人を見るとたいてい逃げていきます。
いちばんの危険は寒さと水のないこと。最低気温がマイナス2度ぐらいまで下がり、もうすでに深い雪に覆われています。
■「ポーランドに行くか、ここで死ぬか」
――国境を挟んで、あっちへ押しやられ、こっちへ押しやられ。まさに「人間ピンポン」という苛酷な状況ですが、移民たちがそこから抜け出す術はないのでしょうか?
状況は少し変わってきました。11月中旬にポーランドと接するベラルーシ・ブルズギに約2000人の移民が集まり、ポーランドの部隊とにらみ合う事態になりました。16日に投石を始めた移民らに対して、ポーランド側が放水して対応、衝突に発展しました。
その後ベラルーシ側が臨時避難所に収容して、ひとまず寒さをしのげる状態にはなりました。気温も下がってきたので、「人間ピンポン」のように行き場がなくなった人々もそこに集まっていくと思います。ただ、森で救助を求める移民がいなくなったわけではありません。私自身、雪が降っていた12月1日深夜、森の奥でシリア人3人が保護される現場を取材しましたし、トルコのクルド人が保護された現場に行ったのも12月4日の未明でした。
移民たちが寒さに耐えられるような分厚いジャンバーやテント、寝袋などを持っていたのが不思議だったのですが、別のシリア人難民の男性に聞いたところ、ベラルーシの首都ミンスクに軍用品の中古市場があって、そこで事前に手に入れる人が多いとのことでした。ただ、寝袋は雪や雨ですぐに濡れてしまうのであまり役に立たなかった、とも話していました。
――ベラルーシとポーランド、双方の現場での対応はどうなのでしょう?
私が取材をした範囲では、多くの移民がベラルーシ兵による暴力を訴えています。ベラルーシとポーランドの間にある緩衝地帯に一度入ってしまうと、ベラルーシ側に戻ることは許されず、兵士に「ポーランドに行くかここで死ぬかだ」と越境を迫られたという話もよく聞きます。ベラルーシ側に戻りたいなら現金100ユーロ払え、と賄賂を求められた人もいました。
ポーランド側にしても、あからさまに殴られたという移民の証言は聞いていませんが、体調を崩している人や子どもが多い家族連れをベラルーシ側に押し出しているという話は、多くのボランティアから聞いています。そんな対応が人道的かは大いに疑問があると思います。
ポーランドでは10月に難民申請希望者を国境の外に押し返す「プッシュバック」という対応を合法化する法律が成立し、国境警備隊が見つけ次第、徹底的に押し返しています。プッシュバックについては、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が「命を危険にさらし、国際法違反である」と強い懸念を示していますが、EUの中でも問題視する声はしぼんでいます。
■ポーランドの人々も苦悩
――ポーランドで救助をしている地元の人々にも取材されたそうですね。
国境近くの街ハイヌフカに暮らすカシャさんという女性に2時間じっくり話を聞きました。彼女から「状況がジェノサイド(大虐殺)の様相になりつつある」という切羽詰まった知らせを受けました。取材中、何度も涙を流しながら、「本当にもう限界だ」と訴えていたのが印象的でした。
英語教師で、2人の息子がいるシングルマザー。こうした支援活動にはまったく関わったことがなく、地元で暮らしてきました。そこへ突然、移民がやって来たのです。
救助が必要な状況を目の当たりにし、有志活動に参加するようになりましたが、連日連夜、GPSの位置情報が送られてきます。それに反応しなければ、人が死ぬかも知れないという切迫した状況が繰り返される。現場に行けば、ほとんど声も出せない、低体温症の人もいる。応急処置を終えて一息つく間もなく、すぐに次の救助要請がくる。しかも、それはだいたい夜中です。
国境警備隊との競争でもあります。彼女たち自身も何をしているのかと問いただされますから、夜間は目立たないようにわざとヘッドライトも補助灯だけにして、森に入っていきます。
地元の街はもともと保守的な土地柄なので、不法移民を助けることに不満を持つ人々もいます。周囲の目も気にしながら、だんだん追い詰められた心境になっていったと彼女は話していました。
「私はただただ本当にふつうの住民なんです。これって本当に私たちがやらなきゃいけないことなんですか?」。彼女が涙ながらにそう訴えるのを聞いて、私は言葉を失いました。本来なら経験のある支援団体がやるべきことだけれど、命を救うためにやっているんだ、とみんな自問自答しながらやっている。そんな異常な状態なのです。
12月に彼女と再会した時には、政府系テレビやネット上でヘイトを受けている、と悩んでいました。彼女の言動をあげつらったり、ベラルーシ系少数民族の出自を理由に「ベラルーシの手先」などと非難を受けたりしていて、ベラルーシ系少数民族の複数団体がヘイトを非難する声明を出すなど、波紋を呼んでいます。
――欧州に未曽有の移民・難民が押し寄せた2015年の危機では、ギリシャやイタリアといった南欧が舞台でした。
ですから、ポーランド人自身が今の状況に大変驚いています。難民問題は南側の地中海、エーゲ海から来る人々をどうするかという話でした。それが突然、東から森の中から現れたわけです。準備も経験も何もない。受け入れ態勢も十分ではない。ぜんぜん意識していないところに、あらぬ方向からいきなり殴られたという感じでしょうね。
実際、ポーランド国内の世論も割れています。最初は移民らに同情的な世論が表に出ていました。移民らが来るようになった8月ごろはアフガニスタンでタリバンがカブールを掌握し、どうやってアフガンの中にいる人を救助するかというのが国際的な課題でした。ポーランド軍も作戦に参加し、ポーランドの大学がこれまで関わりのあった人々を救う救出劇が国内で注目を集めていました。
そのころ、自国の国境でアフガン人約30人が行き場を失い、森の中で野宿している状況が報じられました。10代の女の子もいて、あまりに非人道的じゃないかと怒りの声が湧き上がりました。かたやアフガニスタンで救出のサクセスストーリーが報じられているのに、足元で同じアフガン人が行き場を失っている。そこから政府への批判が強まりました。そういう前段があったうえで、9月に非常事態宣言が発せられたのです。
国境付近の現場にメディアやNGOを入れなくしたのは、建前は安全保障の観点からかもしれませんが、情報統制の狙いもあったんだろうと私は考えています。その一方で国境警備隊や内務省は連日ツイッターなどで動画付きの情報発信をしています。いかに自分たちが国を防衛しているのか、いかに移民らが投石をするなど暴力的な行為をしているか、都合のいい情報を取捨選択して流している側面もあると私は見ています。
――15年の難民危機ではドイツでも当初は難民・移民に同情的な世論が盛り上がりましたが、未曽有の数に膨れあがってくると不安が押し返して、右翼政党への支持に向かいました。
ポーランドも同じ道を辿っている印象です。10月は移民支援を訴えるデモが盛り上がりを見せていましたが、大きく風向きが変わったなと思うのが、先にも触れた国境の町で11月16日に国境警備隊と衝突があり、投石やフェンスを破壊しようとするなど移民の暴力的な行為が連日報道され、そこから雰囲気が変わったように感じます。
その後の20日に、支援デモがワルシャワでもあったのですが、主催者発表で2000人弱ほど。参加者の一人は「前回の半分くらいしか集まっていないと思う」と話していました。一方、独立記念日の11日に毎年行われている右翼団体のデモは数千人規模で、「国境を死守しろ」と国境警備隊への支持を訴えたりしていました。(後編へ続く)
【後編を読む】中東を逃れ、今度はヨーロッパで立ち往生 この移民危機を作っているのは一体だれだ
■村山祐介(むらやま・ゆうすけ)
ジャーナリスト。1971年、東京都生まれ。立教大学法学部卒。1995年、三菱商事株式会社入社。2001年、朝日新聞社入社。2009年からワシントン特派員として米政権の外交・安全保障、2012年からドバイ支局長として中東情勢を取材し、国内では経済産業省や外務省、首相官邸など政権取材を主に担当した。GLOBE編集部員、東京本社経済部次長(国際経済担当デスク)などを経て2020年3月に退社。米国に向かう移民の取材で、2018年の第34回ATP賞テレビグランプリのドキュメンタリー部門奨励賞、2019年度のボーン・上田記念国際記者賞、2021年の講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。