煙を出しながら船着き場に次々とやって来るディーゼル船に交じり、モノトーン基調が目を引くフェリーが、排ガスや騒音を出さずにスーッと離着岸していく。電気で水面を走るこの船は、まるで電気自動車「テスラ」のようだ。
バンコクの中心部を流れるチャオプラヤ川に近年、「電動船」の波が押し寄せている。
先駆けとなったのが、タイの再生可能エネルギー大手エナジー・アブソリュート(EA)社だ。2006年、元証券トレーダーのソムポート・アフナイ氏が立ち上げ、太陽光や風力発電事業の成功で急成長を遂げた。発電だけでなくバッテリーの生産にも着手。電動バスや電気自動車の開発といったモビリティー事業にも手を広げ、タイ有数の富豪となった。こうした経歴から、アフナイは同国メディアに米テスラ社のイーロン・マスク氏と並び称されることもある人物だ。
EAは2020年に電動フェリーの試験運航を始め、2021年に事業を本格化。20隻以上の電動フェリーを保有し、約22キロの区間で複数の路線を運航している。同社によると、フェリーには容量800キロワット時のリチウムイオンバッテリーが搭載されている。
鉄道と比べても安い運賃 JICAが融資する理由は
一律20バーツ(約78円)の運賃は、市内の鉄道と比べても安い。乗船すると、まずどこで降りるかを聞かれた。乗降客がいない船着き場には止まらず、バッテリーを節約するという。3月のバンコクは気温が35度を超える日もあるが、船内は空調が利いていて涼しい。川面の風を感じることはできないものの、静かな船旅を楽しめる。ルーマニアから観光で来たという男性は「電動と聞いて驚いた。静かでとてもクール」と話した。
チャオプラヤ川は観光地として人気の王宮(❶)や寺院(❷)のすぐそばを流れているため、観光客向けの水上バスが多い。しかし、鉄道と乗り換えしやすい船着き場も多く、バンコク中心部に通勤・通学する市民の足としても船は活用されてきた。高校への通学に毎日船を使っていたという大学生のトン・ヒラナットさん(22)は、「交通渋滞もなく、速くて便利。自家用車で移動するよりもずっと良い」と話す。
EAは2022年、電動フェリーを購入するためJICAやアジア開発銀行(ADB)などと融資契約を結んだ。ADBによると額は約6億バーツ(約24億円)におよぶ。
バンコクでの電動フェリー事業にJICAが融資する理由は何か。
海外投融資課の大坂亮太さん(27)は、この都市が抱える交通渋滞と大気汚染という二つの課題を挙げる。「人口増もあり、車の登録台数が増え、今後も渋滞悪化が見込まれている」。バンコクの人口は約550万人とされているが、近郊から働きに来る人も含めると実際はより多いとされ、乗用車の登録台数も10年で250万台ほど増えている。
環境汚染の深刻化について「ディーゼルエンジンの排ガスが要因の一つと指摘されているPM2.5濃度が世界保健機関(WHO)の基準を超える日が多い」とも指摘。これらの課題に対し「電動フェリーを拡充することで、他の交通機関と補完し合いながら車の渋滞を緩和し、環境への負荷も少なくするというところで貢献できる」と話す。
タイ政府も三輪タクシーのトゥクトゥクや路線バスの電動化といった環境対策を打ち出してはいるが、道半ばだ。都市鉄道の路線も広がってきているが、日本のような「駅前広場」のない駅が多く、タクシーの乗り降りなどでかえって周辺が混雑する事態も起きている。
フェリーから鉄道乗り換え 徒歩1分の理由は
タイの交通史・交通政策に詳しい横浜市立大学国際教養学部教授の柿崎一郎さん(52)は「大都市の旅客輸送でいまだに船がそれなりに活用されているのは、バンコクが珍しい例」と話す。理由は「鉄道を走らせる段階から水運との接続を考慮して場所が決められていたことが考えられる」という。
バンコクに都市型高架鉄道であるスカイトレイン(BTS)が開通したのは1999年。2000年代には地下鉄も開業したが、すでに道路の渋滞はひどくなっており、回避するために複数の安価な水上交通ルートが出来上がっていた。その主要な埠頭(ふとう)の近くに駅を作ることで利便性を高めたのが背景にあるという。また「バンコクは橋が少なく、渡し船がいたるところにあったのも、今の水運につながっている」と柿崎さんは話す。
海運局によると、国内の舟運の旅客者数は、コロナ禍前の2019年でのべ1億2300万人。そのうち約7000万人はチャオプラヤ川や主要な運河の移動などに利用している。道路が渋滞していても水上は「時間の読める」交通手段としての地位を確立した。
バンコクのほぼ中心にあるサートーン埠頭(❸)を訪れた。橋のたもとにできたBTSのサパーンタクシン駅(❹)を出てから、歩いて1分。複数の事業者のフェリーが発着し、川沿いの大型商業施設に直行する無料のシャトルフェリーなども運航しているターミナル埠頭だ。昼時は観光客が多かったが、制服姿の学生も多く利用していた。
この埠頭でのEAの責任者、パーワナー・ウエイシャイさん(53)は「排ガスを出さず、環境に良い。そして川の上は、道路と違って赤信号がない。時間に正確で、しかも速い。まるでBTSに乗っているように感じられる」と胸を張る。現行の200人以上が乗れるフェリーに加え、より小型の船を15隻導入する計画だという。
柿崎さんによると、EAのフェリーは利用者の需要数に比べると「明らかに輸送力は過剰」という。それでも「交通機関が汚染物質を出さないようにしていくことは大事で、電動化の方向に進んでいくのではないか」と話す。
「環境負荷、考慮しないわけにはいかない」
EAが投じた一石に、他の船会社も手をこまぬいているわけではない。
チャオプラヤ川で長く旅客輸送に携わってきたチャオプラヤ・エクスプレス・ボート社は、交通渋滞がひどくなってきた1971年の設立。地元住民向けや観光客向け、沿岸に並び立つ高級ホテルの送迎船など約100隻の船を所有し、コロナ禍前は年約1000万人を超える乗客数を誇ってきた最大手だ。
2022年、世界銀行グループの国際金融公社(IFC)と手を組み、電動化についての調査研究を実施。いずれは水素など新たなエネルギーの導入も視野に入れている。
創業家一族で経営幹部のナタプリー・ピシャイロナロンソンクラムさん(36)は「現状はすべてディーゼル船だが、今後5年から10年で電動など環境に配慮した船に置き換えていく」と見通しを語った。「ボート事業者として排ガスには責任を持っている。環境への負荷を考慮しないわけにはいかないし、最近は軽油価格の高騰もある」と話す。
数世代にわたって舟運に携わってきた一族の経験から、「都市が過密化し、忙しくなる暮らしの中で、人々の注目は都市から川へと戻ってくるようになったとみている。川の魅力が再発見される時期がこれから来るのでは」と語った。