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北朝鮮の帰国事業とは何だったのか 労働力確保、宣伝道具…「大規模拉致」との批判も

北朝鮮インテリジェンス 更新日: 公開日:
北朝鮮に帰国する人たちを乗せて出港するマンギョンボン(万景峰)号と、見送る人たち
北朝鮮に帰国する人たちを乗せて出港するマンギョンボン(万景峰)号と、見送る人たち=1971年8月、新潟港中央ふ頭、生江沢好雄撮影

「かぞくのくに」が描いた帰国事業、実際は?

民団の資料によれば、1959年12月から始まった帰国事業は、1967年に一時中断されるまでに全帰国者数の約95%にあたる8万8千人以上が北朝鮮に渡った。事業が始まった当時、日本での生活苦や北朝鮮に対する情報不足から、自ら望んで北朝鮮に渡る人が大勢いた。

民団中央本部の呂健二団長は12月9日のシンポジウムでのあいさつで、「自民党から共産党まで(帰国事業に)賛成した。メディアも朝日新聞から赤旗まで素晴らしい人道行為だと称賛した」と指摘した。

ただ、事業開始から13年が経った1972年当時は「(北朝鮮に)帰国したい人は、ほぼ出尽くした状況」(在日朝鮮人関係者)だった。1971年に事業が再開されると、金日成は自ら北朝鮮に渡った人々と面会するなど、事業の継続に強い意欲を示していた。

1972年は金日成の還暦を祝う年として、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を中心に、事業を盛り上げなければいけないという雰囲気が漂っていたという。

ヤン・ヨンヒ監督には3人の兄がいた。次兄と三兄は1971年に北朝鮮に渡り、長兄も1972年の朝大生帰国団の一員に指名された。長兄は北朝鮮に渡った後、好きだったクラシック音楽を禁じられ、自己批判を強要されるなどした後、2009年に亡くなったという。

映画監督のヤン・ヨンヒさん
映画監督のヤン・ヨンヒさん=2019年11月、東京都渋谷区、篠塚ようこ撮影

映画「かぞくのくに」は、1999年に病気治療のために日本に一時帰国した三兄をモデルにした。映画では、監視がつき、日本に戻っても北朝鮮の実情を語れないソンホ(三兄をモデルにした人物)の苦悩や、ソンホと北朝鮮に忠誠を誓った父親との葛藤などが描かれている。

自身の家族も北朝鮮に渡った在日朝鮮人によれば、「朝大生帰国団」は、「祖国(北朝鮮)での進学」という名目で実施された。「祖国の配慮で、さらに教育の機会を与えられるということでしたが、指名された経緯も様々でした」という。金日成の意向を受けて、北朝鮮に渡る人間の数を増やす目的があった。

当時、在日朝鮮人の間で地位が高くなかった商工人に対して、「金もうけばかりしていないで、祖国への忠誠を示せ」として、子弟の「帰国」を迫るケースもあった。

映画「かぞくのくに」予告編=デジタル配給事業会社「マイシアターD.D.」のYouTubeチャンネルより

在日朝鮮人の一人は「総連内部の権力闘争から、反対派の幹部の子弟を帰国させたケースもありました」と語る。1971年は1300人余り、1972年は朝大生を含む1千人余りがそれぞれ北朝鮮に渡った。

その結果、「朝大生帰国団」を巡って、様々な問題が起きた。到着したばかりの北朝鮮・清津で「日本に戻りたい」と訴えた参加者もいた。参加者が希望した進学先の一つが、北朝鮮で最も有名な大学、金日成総合大学だったが、全員が希望先の大学に入れたわけではなかった。

平壌には当時、朝鮮総連の活動家の子弟のための寄宿舎があった。北朝鮮では当時、珍しかった歯ブラシと歯磨き粉の配給があるなど、「好条件」と言われていたが、その寄宿舎に入れない人も出た。

このため、参加者が総連幹部や両親らに「話が違う」として抗議の手紙を送りつける騒ぎになった。金日成が1972年夏、可能な限り、参加者の希望に添うように処置することを命じたという。

ただ、これが「最後の集団帰国」とも位置づけられ、翌1973年からは年間の帰国者が1千人を切り、1980年からは年間数十人の規模になり、1984年で事業は終わりを告げた。

北朝鮮も事業開始当初は、朝鮮戦争で多数の死者を出したことを受けた労働力の確保という狙いがあったが、徐々に「韓国に対する体制宣伝の道具」、「朝鮮総連を北朝鮮に引きつけておくための人質」というように狙いが変化していった。

「大規模な拉致事件だ」の批判も

映画「かぞくのくに」では、北朝鮮から来たソンホを監視する男性が、反発するソンホの妹に対して「お兄さんも私も、あなたが大嫌いだという国で生きていくしかないんだ」と語るシーンがある。

北朝鮮は当初、3カ月とした日本での滞在期間を突然、2週間で切り上げて北朝鮮に戻るよう指示する。ソンホは理由の説明もない指示について「あの国はいつもそうだ」と言いつつ、黙って指示に従い、北朝鮮に戻っていく。

シンポジウムに参加した「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の山田文明理事は、日本の一部に帰国事業について「望んで北朝鮮に戻った」という意見があることについて「本人が動揺し、家族が反対しても、総連の組織的な強制力」によって北朝鮮に戻った人が大勢いると指摘。「これは大規模な拉致事件だ」と語った。

山田文明さん
山田文明さん=2019年12月、大阪府八尾市、大隈崇撮影

たとえ、ソンホのように自ら望んで北朝鮮に戻ったとしても、正しい情報に基づく判断とは言えないし、日本に戻りたくても戻れない状況を「自由意思による渡航」とは言えないだろう。

山田氏らは、脱北した帰国事業参加者5人が、1人あたり1億円の損害賠償を北朝鮮政府に求めて起こした訴訟を支援してきた。東京地裁は今年3月、原告の請求を棄却したが、北朝鮮政府の事実と異なる宣伝による勧誘で、原告が誤信して渡航の決断をしたと認定した。現在、控訴審で係争中だという。

帰国事業から63年。ただでさえ、自由な往来が難しいうえに、北朝鮮が2020年1月から国境を閉鎖したため、在日朝鮮人らが北朝鮮を訪れることができない状態が3年近く続いている。

在日朝鮮人帰国事業。北朝鮮へ帰国するため列車に乗り込んだ在日朝鮮人と見送りの人たち
在日朝鮮人帰国事業。北朝鮮へ帰国するため列車に乗り込んだ在日朝鮮人と見送りの人たち=1971年5月、国鉄名古屋駅、高橋泰行撮影