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「世の中を複眼で見る」 司馬遼太郎と親交結んだ在日朝鮮人作家、その生き様に学ぶ

北朝鮮インテリジェンス
談笑する司馬遼太郎(左端)と金達寿(左から3人目)=呉文子さん提供

■「在日朝鮮人文学」ジャンル確立

金達寿の生誕100年を記念した講演会が13日、神奈川近代文学館で開かれた。金達寿は日本統治時代、今の韓国南部、慶尚南道に生まれ、10歳で日本にやってきた。戦後、『後裔の街』『玄海灘』などの小説を発表。司馬遼太郎と親交があり、日本と朝鮮半島との関係を紹介する紀行文でも高く評価された。近代文学研究者の廣瀬陽一氏は講演で、金達寿の特徴について「在日朝鮮人文学」という新たな文学ジャンルを確立した旺盛な執筆活動を挙げた。

金達寿が1950年代に発表した小説『玄海灘』=呉文子さん提供

生前、華やかな業績に包まれていた金達寿だったが、心に深い傷を負っていた。エッセイストの呉文子(オムンジャ)さんは講演で、金達寿が1970年ごろから朝鮮総連と対立し、家庭生活にまで影響が出ていた事実を明らかにした。

■北朝鮮を支持、そして裏切られた

金達寿は当初、「差別のない国」「労働者が主人公の国」を旗印にした北朝鮮を強く支持していた。1959年から本格化した在日朝鮮人やその日本人家族らの帰国事業を積極的に支援する原稿も書いていた。金達寿の親族には帰国事業で北朝鮮に渡った人もいたという。

ところが、北朝鮮は1967年の党中央委員会第4期第15次全員会議で唯一指導体制を打ち出し、個人崇拝を強要し始めた。70年代に入ると、金日成主席の長男、金正日総書記を後継者に指名する動きが起きた。呉さんによれば、金達寿はこの頃から「北朝鮮のやり方はおかしい」と反発し、朝鮮総連とたもとを分かったという。

金達寿たちは1975年、季刊『三千里』を創刊する。創刊号は、詩人、金芝河(キムジハ)さんの特集を取り上げるなど、韓国の軍事独裁政権を批判する記事が目立った。だが、朝鮮総連は関係者らに対し、『三千里』を読まないよう指導したという。

金達寿らが1975年に始めた季刊『三千里』創刊号=呉文子さん提供

当時、金達寿が主導した雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を愛読していた在日朝鮮人は「金達寿は在日に誇りを取り戻してくれた人物だった。でも、総連から出て行った人間が活躍するのは面白くない、という雰囲気だった」と証言する。金達寿たちは『三千里』で、総連機関紙による「反民族的行動」という批判に反論した。

当時、金達寿らは東京都調布市にある呉文子さんの自宅で『三千里』の編集会議を開くことがあった。呉さんによれば、金達寿はよく「今の北朝鮮は間違っている」と主張する一方、「社会主義はこんな思想ではないはずだ」とも語っていたという。

呉さんは「当時は、韓国に比べて、北朝鮮の実態は十分明らかになっていませんでした。帰国した在日朝鮮人が悲惨な生活をしていることはわかってきましたが、まだまだ美化されたものが残っていました。北朝鮮を批判する日本人も少なかった時代で、金達寿先生も北朝鮮を見限ることができなかったのでしょう」と語る。

講演会での呉文子さん(左)=呉さん提供

一方、金達寿は1981年に初めて韓国を訪れた。呉さんによれば、金達寿は製鉄所や造船所など「漢江の奇跡」と呼ばれた発展した祖国を見て「今浦島の気分だ」と語っていたという。呉さんは「総連は、韓国では子どもが空き缶を持って物乞いをしていると教えていましたから」と話す。『三千里』は、韓国にも北朝鮮にもくみしない第3勢力のような論調に傾いていった。呉さんは「メンバーはみな、南北統一を強く願っていました」と語る。

1987年に発行された季刊『三千里』の最終号=呉文子さん提供

■語らなかった過去

金達寿は著作で自身の私生活を語ることはなかったが、深刻な悩みを抱えていた。呉さんは13日の講演で、朝鮮総連系の金融機関に勤めていた金達寿の長男が昇進ができなくなり、父親と徐々に疎遠になっていった事実を明らかにした。長男は体を壊し、金達寿の死後に亡くなった。

呉文子さんも、金達寿と同じように家庭が破壊された経験を持つ。父親の故関貴星(呉貴星=オグィソン=)さんは岡山県で事業に成功した在日商工人で、帰国事業に熱心に取り組んでいた。呉さんも1959年12月13日、初の帰国船が出発する前夜祭で金日成をたたえる歌を歌った。

呉さんは「私自身、音大出身ということもあり、女性同盟(在日本朝鮮民主女性同盟)の幹部として、大会の式典で合唱の指揮をしたり、党が掲げる思想について学習指導をしたりして熱心に活動していました」と語る。

だが、関貴星さんは60年、北朝鮮に招かれて視察する機会があった。関さんの目に映った北朝鮮は「地上の楽園」とはほど遠く、同行者が帰国者らに囲まれ「あなたにだまされて一生を棒に振った僕たちをどうしてくれる」と激しくなじられる場面を目撃した。

関さんは「帰国を希望する人に実情を説明すべきだ」と総連に訴えたが、「帰国事業を妨害する反動」とレッテルを貼られた。関さんは62年、北朝鮮の実態を告発する『楽園の夢破れて』を出版し、娘夫婦との関係を断った。

それでも総連は呉さんと朝鮮大学校で教えていた夫を責め立て、自己批判を繰り返し強要した。学生も夫に反抗し、もはや教育の場ではなくなっていた。「このまま組織にしがみつき、不正にも目をつむっていていいのか」と悩んだ末、夫は71年、朝鮮大学校を辞めた。関さんは86年に死去した。

呉さんは「私は1990年ごろまで、どうしても、首領様、元帥様、将軍様と言ってしまい、ただ、金日成と呼ぶことができませんでした。尊敬していなくても、呼び捨てにできない。それがマインドコントロールの怖いところだと思います」と話す。

1987年にあった季刊『三千里』終刊パーティーに出席した金達寿(左から2人目)=呉文子さん提供

金達寿が死去した後、北朝鮮は日本人拉致の事実を認めたほか、核実験や弾道ミサイル発射を繰り返している。北朝鮮による深刻な人権侵害の実態も次々と明らかになっている。

呉さんは「今、金達寿先生が生きていれば、前面に立って、北朝鮮を批判し、人権や民主化運動の先頭に立っていたでしょう」と語る。「気持ちの熱い人でした。自分の立場が悪くなろうとも、悪いことは悪いとはっきり語る人でしたから」と話す。

「金達寿先生の人生は、自分が知っていることだけで簡単に物事を判断せず、世の中を複眼的に見ることの大切さを教えてくれたのではないでしょうか」。呉さんは、そう語った。