亡くなって1カ月にあたる4月23日、甲府市でお別れの会が開かれ、大勢の人が弔問に訪れた。会場には、金丸信吾さんが金日成主席や金容淳朝鮮労働党書記らと会談した写真や、北朝鮮から贈られた勲章などが飾られていた。
金丸信吾さんが初めて訪朝したのは1990年9月。父、金丸元副総理らに同行した。
この訪朝で、早期の国交正常化などをうたった日朝3党共同宣言がまとまった。金日成主席が景勝地の妙香山で「これで私と金丸先生は同じ船に乗った。しかし、泥舟になるかもしれない。私と金丸先生とで力を合わせ、泥舟になっても国交正常化という目的地に向かってこいで行きましょう」と語りかける様子を目撃した。
金丸信吾さんは、92年10月に佐川急便事件で金丸元副総理が議員辞職するまでの間に、計10回訪朝している。元副総理の指示で、国交正常化交渉の側面支援のためだった。金日成主席とは7回、金正日総書記とも2回、それぞれ会談した。
その後、北朝鮮との関係は途切れたが、2002年5月、北朝鮮が再び金丸信吾さんを招待した。同年9月に実現した日朝首脳会談を控えた動きとみられた。金丸信吾さんの訪朝は19年9月まで計22回に及んだ。
北朝鮮は金丸信吾さんに何を期待していたのか。
脱北した朝鮮労働党の元幹部は「(北朝鮮にとっての)金丸信は、中国にとっての田中角栄のような人物。その息子だから大切にした」と語る。2000年に来日した鄭泰和・朝日交渉担当大使が金丸元副総理の墓参りを希望したこともあった。
しかし元幹部は同時に、「政治家でもない金丸信吾は、秘密交渉ができる相手でもなかった」とも話した。2002年以降、金丸信吾さんが訪朝しても、面会に応じるのは、宋日昊・朝日国交正常化交渉担当大使程度にとどまった。金丸元副総理が存命中だったときのように、最高指導者と面会することもなかった。
ただ、北朝鮮は自分たちにおもねらない金丸信吾さんに一目おいていた。
12年に訪朝した際、北朝鮮側が金丸さんに「平壌市内の劇場で、金日成生誕100年を記念して思い出について語ってほしい」と依頼した。北朝鮮が事前に渡した原稿には「金日成主席が金丸信元副総理を接見した」など、上下関係をつけた表現になっていた。
金丸さんは「これは自分が書いた原稿ではない。上下関係をつけるのはおかしい。拉致や核ミサイル問題にも触れていない」と抗議した。金丸さんは「自分で原稿を書けないなら、語らない」と突っ張り、最後は北朝鮮も認めた。
金丸さんの講演を2度聴いた在日朝鮮人の一人は「事実関係を客観的に語る人だった。何を根拠にしているのかをきちんと説明していたのが印象に残った。朝鮮の発展した姿を見たが、全体を把握しているわけではないからと言って、手放しで称賛しなかった。もっと朝鮮をほめてくれても良いのにと、不満を漏らした朝鮮総連幹部もいた」と語る。
金丸元副総理が政界を引退した後、北朝鮮が日本政界とのパイプ役として頼ったのが野中広務元官房長官だった。野中氏は金丸訪朝団に参加した際、厳しい北朝鮮批判の論陣を張ったが、逆に北朝鮮から一目おかれることになった。
金丸さんは生前、「日本で核や憲法改正に反対している人々が、訪朝すると北朝鮮を礼賛する姿を何度も見てきた。『先軍政治は素晴らしい』と言い、核開発に抗議しないのは矛盾だろう」と語っていた。
元党幹部によれば、訪朝中に北朝鮮をほめちぎった日本の朝鮮半島専門家が帰国後、北朝鮮を批判した。再訪朝した際、北朝鮮側が「なぜ、平壌と東京で話すことが違うのか」と聞くと、専門家は「日本には世論があるから」と釈明した。同じことが続き、北朝鮮はこの専門家を受け入れなくなったという。
また、テレビ番組などで厳しく北朝鮮を非難している専門家が山梨県を訪れた際、金丸信吾さんに「何とか訪朝できるよう、朝鮮総連や北朝鮮本国に取りなしてもらえないか」と頼んだという。金丸さんの訪朝に随行した朝鮮総連幹部が平壌での会食の際、「上座に座らせて欲しい」と頼んできたこともあった。
金丸信吾さんは生前、北朝鮮を何度も訪れたことで、見えた事実もあると話していた。
あるとき、金丸さんは北朝鮮のゴルフ場を訪れた。なかなかコースに出られず、理由を聞くと「芝を刈っている」という説明だった。「ロストボールを袋に入れて売っていたが、汚れた球ばかりだった。レンタルのクラブも古くさいものしかなかった。客がほとんどいないから。在日の訪問客や外交団しか利用していなかった」と語った。
金日成主席は会員制ゴルフクラブの代表取締役を務めていた金丸信吾さんに「一番良い土地を提供するから、ここでゴルフ場を開かないか」と持ちかけたが、「私も商売をしないといけないから」と言って断ったという。
また、金丸さんは1991年から92年にかけ、金正日総書記とも2度、単独で面会した。当時、金正日総書記の情報はほとんどなく、「好戦狂」「酒浸り」などといった情報がまことしやかに語られていた。
金丸さんは2度とも約1時間、金総書記と語り合った。金丸さんによれば、金総書記は頭の良い人物だった。金丸さんが日朝交渉について尋ねると、「それは主席にお話しください」と言って、分をわきまえた態度を示したという。
金丸さんは「日本の政治家や役人は、あまりにも北朝鮮を知らない。よく、政府の人間が私を訪ねてきて、北朝鮮の話を聞かせてくれと頼むが、話が逆だろう」と語っていた。
また、金丸さんは日本人拉致問題について「対話なくして解決なし。強硬な政策だけでは拉致問題は解決しない。圧力をかけ続けても、自尊心の強い北朝鮮は絶対に屈服しない」と述べ、北朝鮮の主張にも耳を傾けるよう説いていた。「日朝国交正常化こそ、懸案を解決する近道だ。北朝鮮は独裁国家だから、経済協力をしなくて良いということにはならない」とも語っていた。
金丸さんは訪朝に随行したいというメディアを快く受け入れたが、同時に「斜めからではなく、まっすぐ見ろ。興味本位で報道するな」と注文をつけたという。生前、「マスコミが、拉致被害者は絶対に生きているとあおりすぎた。北朝鮮は怖い国だというのが一般市民の印象になった」と語っていた。
金丸訪朝30年を前にした2020年9月に取材した際、「本当は9月27日の3党宣言30周年の時期に訪朝するはずだったが、新型コロナウイルスの影響で行けない」と残念そうに語っていた。今ごろ、雲の上で金丸元副総理に日朝関係の現在地を報告しているかもしれない。