「カエサル、お前もか!」ではないが、2000年以上前の人物に親近感を覚えた。
いや、正確には「あれほどの人物も悩んでいたなら、自分が悩んでいてもおかしくない」という安心感だったか。
「人は見た目ではない。中身だ」も「ショーン・コネリーは薄毛だけど格好良い」にも異論はないが、「でも、ないよりあった方が……」「でも、ショーン・コネリーは別格だし。それに、薄毛だから格好良い、とは言わないし」と、留保は残ってしまう。
薄毛に悩むのは、一つには老化の象徴と捉えられるからだろう。
若くして薄くなれば、なおさら悩みは深い。
シワも同じだが、私たちは毛髪に、さらに特別な意味を見ている。赤ちゃんの髪で筆を作ったり、遺髪を形見として大切にしたり。だから髪を失うことに、何かしら「恐れ」のようなものも抱くのではないか。
外見重視の風潮もある。欧米で気にする人が少なく、韓国や日本で多い、と言われるのは薄毛率の高低だけでなく、「人と同じでいたい」「若さ=美」「競争社会」といった価値観や時代背景が見え隠れする。
「恐れ」に「不安」が重なり、悩みをさらに大きくしている。
ちなみに私の父方の家系の男はみんな薄毛だ。
「いずれ『仲間入り』するだろうな」という覚悟は若い頃からあったし、実際そうなった。「薄くなった?」と言われ、「そう?」ととぼけた時もあった。
30代半ば、「面倒だなあ」と思い、丸刈りにした。周囲の受け止めをあえて聞いたことはないが、おおむね好評だし、取材先には覚えてもらいやすい(と勝手に思っている)。
月桂冠や怪しげな薬しかなかったカエサルの時代と違い、私たちの前には、効果が確認された薬、かつら、植毛など様々な手段がある。
かつらの製造過程を間近で見て、手間のかけ方と精緻さに目を見張った。
想像以上に植毛が普及する韓国で「植毛も整形も自己投資。恥ずかしいことではない」と言われたときは、「これが答えか」と思わされた。かつらや植毛で前向きになったと聞くと、「なるほど」と納得し、薄毛についてオープンに語る人々にはすがすがしさも感じた。
私が30代だったら、この特集にかつらや植毛体験を加えたかも知れない。編集部にもそんな声があった。だが本気でないなら、すべきではないと考えた。
私は今のところ、何かを変えるつもりはない。
単純に、年を重ねたという理由もある。
改めて考え、ショーン・コネリーは薄毛だったけど格好良い、でも、薄毛だから格好良いでもなく、ショーン・コネリーだから格好良かったのだろう、とも思い至った。
当面、丸刈りを続ける。薄毛の悩みから人類が解放される「その日」が来たら、また考えよう。