地理学者なのに、なぜ薄毛について研究するのかとよく聞かれます。
私自身が薄毛に悩んだということもありますが、地理学は2000年代から、英語圏では特に、人間の身体を研究対象とする流れが生まれてきました。
地理学は空間、場所、風景、自然などを対象としています。そこに「境界と秩序」が作られ、村や町ができて、境界の外との関係も生まれます。
文化地理学は、こうした領域が関係しながらどう日常社会を作るかを扱っています。その視点で考えれば、人間の身体にも境界があり、外との関係で認識されていると考えられるわけです。
例えば、既製服にはSMLといったサイズがありますが、これが「自分はオーバーサイズだ」という感覚を生み出し、普通より太っているかも、などと思わせます。指標があれば安心するし、買いやすいけれど、外れる不安感も大きい。
その指標は、洋服の会社が作っただけで、何の意味もありませんが、指標が社会に与える影響は大きく、改善しなければという意識が出来上がっていくのです。
薄毛にも同じことが言えます。
薄毛は裕福、男らしいなどポジティブな言われ方をしていた時代もあります。でも、1960年代末ごろから「治すもの」として一気にネガティブな面ばかり強調されるようになっていきました。男性向けのかつらを販売する会社が、CMなどで大々的に宣伝し始めたころと重なります。
80年代には、手軽に使用できる育毛剤の登場で、「標準的な髪の量」から外れることに対する劣等感や不安感を若者にもあおるようになりました。
同じような見た目の問題では、肥満があります。
ただ、肥満にはメタボやBMIの数値などの指標がありますが、薄毛にはありません。髪がなくても死ぬわけではない。でも、ないと「気になる」。そのあいまいさが、人を惑わせてきました。
身体の問題は、公私が複雑に絡み合っています。髪の毛はこうあるべきだといった偏見などは公的(社会的)なものですが、それをどうするかは個人の問題に帰されてしまう。本来自由であるはずの身体という私的な部分に、公的な視点が強い力を持って入り込むために、自由になれない。
望ましいとされる身体の状態や形態は、歴史的に常に変化していますが、いつも個人の側が対応を迫られます。薄毛対策がビジネスとして成立するのは、私的な身体の劣等感が、公的な規範によって刺激されるからです。
特に女性に対しては、身体に関する同調圧力が顕著に出ます。
日本ではあるころから「髪は女性の命」と言われ始め、2000年代後半からの「美魔女」ブームによって、年をとっても健康と若さと美が求められるようにもなりました。「劣化」といった、本来は物について使う言葉を人に対して使う風潮もあります。
結局のところ、見た目が持っている力は大きい。近代以降の人間観は理性的に物事を考え行動するものだと言われてきましたが、実際は感情に支配され、情動が多くを決めてしまっています。
私自身、医療用ウィッグを必要とする子どもたちに髪を提供する「ヘアドネーション」をしてみて実感しました。今年の3月末、2年かけて伸ばした髪を寄付しました。
きっかけは小6の次男です。彼は4歳の頃から2回、髪を寄付してきたのですが、3回目はためらっていました。「男が髪を伸ばすのはおかしい」「女みたい」などと周囲にからかわれるようになったからです。ならば、一緒にやってみようと思いました。
実際に髪を伸ばすと、後ろ姿やマスク姿で何度も女性に間違われ、なぜ髪を伸ばしているのか、頻繁に聞かれました。他人からどう見られるかを意識するようになり、社会とは見た目で判断されるし、見た目がどれだけ「無意味に」大切にされているか、認識させられた体験でした。
近年、スキンヘッドやグレーヘアなど、身体の多様性や選択肢が増えています。2000年ごろから、薄毛の男性が雑誌の表紙になった影響もあり、恥ずかしくないもの、改善する必要はないもの、という意識も生まれました。髪をめぐる窮屈さは、いったんは外れているように思います。
一方で人間は、自由や多様性を求めながらも、どこかで束縛されたいし、同調したがってもいます。指標を決めて欲しいとも感じます。
多様化しても、不安は尽きることはない。髪にはそんな複雑さがあるのだと思います。