男も女も老いも若きも「増やしたい」 植毛普及の韓国 薄毛治療が大統領選の公約に
最近では渡航して植毛したことを公表する人もいる。
そんな渡航先の一つに、お隣韓国がある。今春の大統領選では、薄毛治療への保険適用が公約にもなったという。どんな背景があるのか。
「植毛ですか? 悩んでいたらすると思いますし、私も実際していますよ」
クォン・ヒョクチャンさんはこともなげに答えた。
10月上旬、ソウル。薄毛や植毛治療が盛んな韓国で、薄毛をどう思うか、街頭取材を試みた。クォンさんは声をかけた5人目、応じてくれた2人目。こんなに簡単に経験者に会えるとは思わなかった。
30歳の男性で、医療機器開発会社の社長を務めている。3年ほど前、緩いM字だった額の生え際をまっすぐにした。約1000万ウォン(約100万円)かかったという。
「朝、セッティングが早くなりました。鏡を見ながら手入れして、『良し』という感じ」
誰も植毛には気づかないが、隠してもおらず、家族や知人に話しているという。
「今は『整形した』と自信を持って言える時代。容姿や自己管理に投資するのは恥ずかしいことではない」ときっぱり。薄くならなくても植えてしまうほど、植毛は身近らしい。
「ありのままで良いという見方もありますよね」と尋ねると、「それはポジティブだし尊重したい。ただ韓国には薄毛を忌避する面も残ってます。すごく悩んでいる人には支援も必要だし、植毛したと私たちが話すことで、薄毛に対する意識も変わっていけば良いと思います」。直接目にしたり聞いたりしたことはないが、「(薄毛で就職や恋愛が不利になることは)あると思う」と答えた。
多くの整形外科が並ぶソウル江南エリアで「毛髪移植センター」の院長を務めるファン・ソンジュさん(52)は20年以上、移植に携わる。
「髪があると、若く健康で、美しく見えます」と強調した。
来院は韓国人が多いが、コロナ禍前は中国人や外国人留学生、米軍関係者らも訪れていたという。
この日午前には75歳の男性が毛髪移植の相談に来たといい、「髪は夏の暑さ、冬の寒さから守ってくれます。その人は食堂のエアコンで冷えて風邪を引いたらしい」と説明を加えた。薄毛の治療に来る人だけでなく、近年は生え際矯正など美容目的の人も増えた。男女比は3対1という。
移植は、後頭部の毛を薄くなった部分に植える。代表的な脱毛症である「男性型脱毛症」は男性ホルモンの影響で起き、頭頂部や前頭部の生え際は薄くなるが、側頭部や後頭部の毛は残る。
自分の毛なら拒絶反応の心配がないため、脱毛の影響を受けない部分の毛を「引っ越し」させるのだ。後頭部の毛も、頭頂部に植えるとやがて薄くなるのでは、と思うが、そこは人体の不思議。もともとの部分の性質を維持しているのだという。ちなみに「男性型」と呼ばれてはいるが、女性の脱毛の原因の一つでもある。
良いことだらけのような移植にも、注意点はある。
あくまで「引っ越し」なので、採取量には限界がある。また、脱毛が進行中の場合は薬を服用したり、塗り続けないと移植部分以外は薄くなっていく。
ファン院長は移植のほか、頭皮に黒い点を打って髪に見立てる「ヘアタトゥー」という方法も使う。移植とタトゥーでおおよそ1日1~2人に施術しているという。
2018年秋にファン院長のもとで移植を受けた34歳の女性チェさん(名前は非公表)が、矯正した額のラインを見せてくれた。
スマホで以前の写真も確認させてもらった。前髪を下ろしていたら気づかれないように思えたが、「こめかみの上辺りが生まれつき薄くて、コンプレックスになっていたんです」と話す。
2800本移植して、費用は1100万ウォン(約110万円)。「これまでお金をかけたものの中で満足度は一番」。友人らにも勧めているという。チェさんも「就職面接でも薄毛だと難しい。薄毛で悩んでうつ病になる人もいる」と説明した。
ファン院長もチェさんも、韓国での薄毛に伴うデメリットの例として、「芸能人は薄毛になると売れない」と声をそろえた。
芸能人の例を持ち出されてもなあと思い、記者のような丸刈りはどうかと聞くと、ファン院長は「韓国人はしないですね。社会に反感を抱いているイメージです」、チェさんは「ファッションならタトゥーを入れたりしないと」。
苦笑するしかなかったが、あまり街角で見かけないのは確かだ。兵役で丸刈りにするため、拒否感が強いとの見方があるという。
実は植毛手術は、日本の医師、奥田庄二氏が昭和初期に考案したという。やけどの患者に移植し、論文も発表したが、戦争などで埋もれていたらしい。
国際毛髪移植学会の会長も務めたというファン院長は「日本で植毛が盛んでないのが不思議だ」と首をかしげた。
一方で、ファン院長は「供給があると、需要が生まれる」とも指摘する。「かつて移植をしていたのは数カ所だったが、今はソウルとその近郊で40~50カ所ある」といい、移植を手がける医師が増えたことで、求める人も増えた面があると説明した。
薄毛を巡る話題は、今年3月の大統領選でもあった。
「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)候補(落選し、現在は同党代表)が薄毛治療に健康保険を適用すると公約に掲げたのだ。円形脱毛症などにはすでに適用済みの保険を男性型脱毛症にも拡大する内容で、若者向けアピールだった。
公約を紹介する動画には本人が登場し、「李在明を抜きますか?(右手の人さし指を振って)違います。李在明は植えるんです」と自らの髪をなでつけるポーズ。
韓国語で「抜く」には「選ぶ」、「植える」には「ポストに入れる」との意味もあり、言葉遊びの要素もあるという。
対立陣営からは「毛(モ)ピュリズムだ」との批判も出たという公約だが、自治体でも同じような動きがあるらしい。ハンギョレ新聞によれば、ソウル城東区は5月に全国初の脱毛支援条例を可決。脱毛症と診断を受けた39歳以下の人への支援策(予算約2000万円)を予定しているという。
李候補の公約はメディアでも盛んに取り上げられたが、ファン院長は「医療保険の財政は不足している。十分カバーできていない難治療にお金を使うべきだ」と批判的だった。
江東慶熙大学病院皮膚科のシム・ウヨン教授(64)も「深刻ではないのに、薬物治療をしている人もいる。韓国で薬はそんなに高額ではない。適用は必要ない」との立場だ。
シム教授はさらに、韓国で植毛が盛んな背景に「産業界やマーケティングが雰囲気を作ってきた面もある」と指摘した。お見合いをあっせんする企業が、女性に「薄毛の男性をどう思うか」と尋ねるようなアンケートがあるという。「他にも色んな条件があるはずだが、それだけ聞くと『嫌だ』と答えることが多いでしょう」
ソウル大学プンダン病院皮膚科のホ・チャンフン科長(53)は韓国の人口約5170万人のうち、800万~1000万人が男性型脱毛症と推測する。「保険適用で薬が安くなったり無償になると、飛びつく人もいるでしょう。カバーするのは不可能です」
アジア初のロボット毛髪移植を手がけたり、低出力レーザーによる育毛効果を研究したりしているというホ科長に、「近い将来、人類は薄毛の悩みから解放されますか」と尋ねた。
何でもよどみなく、丁寧に答えていたホ科長が、深いため息をついた。「人工毛髪を植えられるようになればできるが……まだ難しい。外部で細胞を使って毛髪を作るのも実用化には至っていない……」
薄毛治療は大きく分けて、進行した脱毛を回復するもの、もともとある髪を維持するものがあるが、「後者が市場を掌握していくのではないか」と話した。