IAEAは今年1月、核開発疑惑が持たれているイランに対して、高官級調査団を送りこんだ。だが、予定していた核施設への立ち入りが認められなかったため、今月再び調査団を派遣する。
イランの疑惑をめぐっては、欧州連合(EU)が制裁措置として原油の全面的な禁輸を決定。反発するイランとの間で緊張が高まっている。欧米諸国にはIAEAに疑惑の解明を期待する声も強い。
原発事故への対応と核兵器の拡散防止のいずれでも前面にでているIAEAだが、その役割は、核と原子力をめぐる国際政治の変化に応じて、少しずつ変わってきた。
誕生したのは、第2次世界大戦の後、米国と旧ソ連が核兵器の開発競争をくりひろげ始めた時代だった。
1953年に米大統領アイゼンハワーが国連総会で原子力の平和的利用の推進や核不拡散のための国際協力をになう機関をつくることを提唱。1957年に設立された。
米ソの勢力争いが激しくなるなかで、当時の米国はIAEAを通じて各国に影響力を行使しようとしたとみられる。旧ソ連圏では今でも「IAEAは米国寄り」と信じる人もいる。
本部の候補地には4カ所が挙がった。ジュネーブ、コペンハーゲン、リオデジャネイロを抑えてウィーンが選ばれたのは、東西の体制の間にあって米ソ双方に受け入れられたからだ。
当初は、核物質や技術を提供した側が提供された側を査察していたため、IAEAの出番は少なかった。存在感が高まったのは、あわや米ソ核戦争かといわれた1962年のキューバ危機の後。米ソ間に軍縮の機運が生まれ、核や原子力の分野で協力を探る動きが強まった。
1970年に発効した核不拡散条約(NPT)※では、非核兵器保有国はIAEAの保障措置を受け入れるのが義務になった。
1973年の第1次石油危機を機に多くの主要国が原発建設にのりだし、IAEAの保障措置の規模も拡大した。
一方、1986年のチェルノブイリ原発事故は、「原子力安全」への取り組みの重要性を浮き彫りにした。放射能汚染の調査や対策で、IAEAは主導的な役割を果たす。その流れは、今回の福島第一原発事故にも引き継がれている。
1990年代以降は、ソ連の崩壊によって大規模核戦争の脅威が遠のいた一方で、イラク、イラン、北朝鮮などで核兵器開発疑惑が持ち上がった。混乱が続いた旧ソ連の核施設から核物質が持ち出される事件も相次いだ。
2001年の9・11米同時多発テロ以降、核物質がテロリストに渡る危険性がたびたび指摘され、保障措置、原子力安全に加え、核セキュリティーを三つめの「S」として重視する動きが強まった。
この問題を国家の安全保障にかかわる問題と位置づける米国は、2010年にワシントンで核セキュリティーサミットを開き、IAEAも参加した。
今年3月下旬には韓国で第2回核セキュリティーサミットが開かれる。専門家や有識者などの間では、福島第一原発事故で問題になった原発の安全性も教訓にしてIAEAをより強化すべきだ、との声もある。
核問題に取り組む米シンクタンク代表のケニス・ルオンゴも「核セキュリティーとセーフティー(原子力安全)はこれまで別々に考えられてきたが、テロであっても自然災害であっても原発事故の影響はその国にとどまらない。裏表ととらえて、国境を超えた枠組みで検討しなければならないことは、福島事故でも明らかだ」と話している。
ただ、三つのSのバランスは、一筋縄ではいかない。原発への規制や安全性基準を強めれば、非核保有国が「NPTで認められている原子力平和利用の制限だ」と反発する可能性があり、NPT体制への揺らぎにつながる懸念が残る。
また、米国が重視する核セキュリティーについては、IAEAの任務としてIAEA憲章で明確に位置づけられておらず、「IAEAで中心的に扱う課題ではない」と考える国も少なくない。