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金与正氏の肉声、北朝鮮メディアが初めて伝えた 13分の討論で何を語った?

北朝鮮インテリジェンス 更新日: 公開日:
8月10日の全国非常防疫総括会議で討論する金与正氏
8月10日の全国非常防疫総括会議で討論する金与正氏=北朝鮮ウエブサイト「わが民族同士」の映像から

朝鮮中央テレビが11日、会議の様子を1時間40分余りにわたって伝えた。金正恩氏が「新型コロナウイルスの撲滅」を宣言。与正氏は討論者の一人として登壇した。与正氏は21年6月29日の党中央委政治局拡大会議でも討論したが、北朝鮮メディアが肉声を伝えるのは初めてだ。

放送では李永吉国防相らの討論の紹介は割愛された。李氏は党政治局員。政治局メンバーでもない与正氏の討論を放映するのは異例の扱いだ。他の討論者は政府や平壌市、軍など各部門の防疫責任者として紹介されたがが、与正氏は党副部長として登壇。北朝鮮が与正氏を、形式的な肩書を超えた「事実上のナンバー2」と位置づけている様子がわかる。

13分余りにわたった与正氏の討論は、「正恩氏がいかに国民のために奮闘したのか」という説明と、「コロナを北朝鮮に持ち込んだ韓国を許さない」という主張で占められた。

与正氏は、正恩氏を褒めたたえる際、「防疫戦争の日々、高熱で苦しみながら、自分が最後まで責任を取らなければいけないと、人民のことを考え、一時も横になることができなかった」と訴えた。

正恩氏が新型コロナに感染したかどうかは不明だが、北朝鮮の他の感染者と同じように苦しんだと強調し、住民感情を和らげる狙いがあったのだろう。

何より、この発言は与正氏がロイヤルファミリーにつながる「白頭山血統」であることを強調している。最高指導者の健康状態はトップシークレットで、高級幹部ですら、口にすることも知ることもできないからだ。2008年8月に金正日総書記が脳卒中で倒れた際、事情を知っているのは、金正日氏の侍医ら医師団のほかは、内縁の妻だった金玉氏、張成沢氏と金敬姫氏夫妻、金正恩氏兄妹ら肉親に限られていた。

朝鮮中央テレビが伝えた聴衆の反応も独特だった。他の討論者が登壇して正恩氏の働きをたたえても、聴衆は時折、一斉に拍手を送る以外は黙って聞いていた。与正氏が登壇し、金正恩氏の苦労話を始めると、放送はあちこちで涙を流す参加者の姿を映し出した。

8月10日の全国非常防疫総括会議で、金与正氏の討論を聞きながら涙ぐむ女性
8月10日の全国非常防疫総括会議で、金与正氏の討論を聞きながら涙ぐむ女性=北朝鮮ウエブサイト「わが民族同士」の映像から

これも、与正氏にカリスマを与える一つの演出だろう。北朝鮮は最高指導者を「オボイ(親、父母)」と呼ぶ。国家を一つの家族に見立て、肉親よりも近い存在である最高指導者の下、すべての人々が平等だという理念を持つ。与正氏にも、そのような地位を与えるつもりなのだろう。

ただ、北朝鮮は従来、最高指導者を脅かす可能性があるナンバー2は置かなかった。正恩氏が2013年、義理の叔父の張成沢氏を処刑したのも、同じ理由からだった。正恩氏と与正氏は非常に仲が良いとされるが、ナンバー2を置くと、自然と派閥争いが起きる。金日成主席の晩年、同氏を警護する第1護衛部と、金正日総書記を警護する第2護衛部の間で勢力争いが起きたこともある。

それでも、与正氏の権威を育てているのは、金正恩氏の健康に不安があるからだろう。韓国の情報機関、国家情報院によれば、正恩氏の体重は昨年、約140キロから120キロくらいにまで減った。ただ、最近の映像をみると、再び体重が増えたように見える。

また、金正恩氏は10日の会議で約48分にわたり演説したが、しきりに体を揺するしぐさを繰り返した。昨年8月に平壌の住宅建設現場を視察した際、足場の悪い仮設の階段をおぼつかない足取りで降りる様子も公開されている。情報関係筋の1人は正恩氏の健康状態について「よく転ぶそうだ。心機能や呼吸に影響が出ることもある筋ジストロフィーではないかという指摘も出ている」と語る。

8月10日の全国非常防疫総括会議で、体を傾けながら演説を続ける金正恩氏
8月10日の全国非常防疫総括会議で、体を傾けながら演説を続ける金正恩氏=北朝鮮ウエブサイト「わが民族同士」の映像から

一方、与正氏は10日の討論で「南朝鮮(韓国)地域から(新型コロナや西側の情報などの)ごみが引き続き入ってくる現実を傍観していられない。極めて強力な報復対応を加えるべきだ」「ウイルスはもちろん、南朝鮮当局の連中も撲滅する」などと語った。

北朝鮮は2020年7月の外務省報道官談話で、当時のポンペオ米国務長官の「新型コロナウイルス事態は中国共産党が招いた危機」などとした発言について「中国共産党を甚だしく愚弄している」と非難したことがある。新型コロナの問題を特定国家の責任にすり替え、保健医療協力を申し出ている韓国を批判するなど、与正氏の発言は支離滅裂な内容だと言える。

道理が通らない主張をする背景に何があるのか。

北朝鮮は5月ごろまで、豊渓里の核実験場で7回目の核実験を行う準備を進めていた。第3坑道には実験用の観測ケーブルも配置されたが、5月末ごろから動きが急に止まった。このころ、中国は第三国に対し、北朝鮮に核実験実施に反対する考えを伝えたと説明している。米韓関係筋は「現在の状況をみれば、中国の反対を聞き入れざるを得なかったということだろう」と語る。

中国は10月に共産党大会を開き、習近平総書記の三選を決める見通しだ。習近平政権にとって重要な時期、台湾海峡に加えて朝鮮半島でも緊張が高まることは避けたい。このまま行けば、北朝鮮は少なくとも共産党大会までは核実験に踏み切れないだろう。

そうなれば、北朝鮮は振り上げた拳を下ろす場所を探さなければならない。北朝鮮の高官たちは核実験の準備を進めた事実を知っている。このまま何もできない場合、最高指導者の威信が保てない。その布石として与正氏に「韓国に対する武力挑発の予告」をさせた可能性が高い。

平壌国際空港で2019年6月20日、子どもたちの歓迎に応える中国の習近平国家主席(中央)と金正恩朝鮮労働党委員長
平壌国際空港で2019年6月20日、子どもたちの歓迎に応える中国の習近平国家主席(中央)と金正恩朝鮮労働党委員長。朝鮮中央通信が配信した=朝鮮通信

文在寅政権時代に南北関係に携わった韓国政府元高官は「金与正は訪韓し、南北首脳会談も主導したが何も成果を上げられなかった。ロイヤルファミリーだから、他の幹部のように粛清はできない。責任を取る代わり、韓国に対する強硬政策の先兵役をやらされているのだろう」と語る。

韓国の尹錫悦大統領は15日、北朝鮮が非核化した場合に大規模な経済協力を行う提案を行った。南北関係筋は「非核開放3千(北朝鮮が非核化と開放政策を取れば、国民1人あたりの所得3千ドルを実現させる)政策を唱えた李明博政権と同じ発想。北朝鮮が受け入れるわけがない」と話す。

米韓は8月22日から9月1日まで大規模な合同軍事演習を行う。米軍が即応体制に入っている演習期間中、北朝鮮が武力挑発を行うことはないだろう。演習後、南北は一つの危機を迎えるかもしれない。