14年2月28日、クリミア半島のシンフェロポリ国際空港に着いた同僚が、到着ロビーからキーウにいた私に電話をかけてきた。「緑の軍服を着て自動小銃を持ったロシア兵がいます」。そんなところにロシア兵がいるはずがない、と私。それでも同僚は「尋ねても答えてくれませんが、どう見てもロシア軍です」と言った。ロシアのプーチン大統領が彼らをロシア軍兵士だったと認めるのは、ずっと後のことになる。
この時ウィーン支局長だった私はキーウに釘付けになっていた。プーチン氏の後押しを受けながらも「オレンジ革命」で敗れたヤヌコビッチ前首相が、10年の選挙で雪辱を果たして大統領に就いたが、親ロシア路線や腐敗に対する抗議運動が激化した。2月18日、ヤヌコビッチ氏の退陣を求めて首都中心部の広場を占拠してきた市民らに治安部隊が銃撃を浴びせ、3日間で100人を超える死者が出た。
その後、ヤヌコビッチ氏は失踪し、親欧米路線の野党が臨時政権を立ち上げた。ヤヌコビッチ氏の政敵で、オレンジ革命当時、伝統の編み髪で日本でも話題になった親欧米派の野党党首、ティモシェンコ元首相が収監先から解放され、私は「一件落着」と思い込んでいた。だがその矢先、ロシアによる突然のクリミア介入でウクライナの先行きは見えなくなった。
「緑の軍服を着た人々」の出現からロシア軍の制圧下で行われた住民投票を経て、プーチン氏がクリミア併合を宣言するまでわずか18日。続いて東部各地で武装した親ロシア派が行政機関や警察を占拠し始めた。私は東部ドネツク州に向かい、州都ドネツクが武装勢力の要塞(ようさい)に変わっていくのを見た。
4月末、親ロシア派の庁舎占拠に抗議する約千人がウクライナの国旗を持って中心部を行進したとき、迷彩服に覆面の男たちが発煙筒や爆竹、こん棒で襲いかかった。デモ参加者の大半は女性や学生で子ども連れの家族もいた。
さまざまなデモを取材したが、平和なデモがこんな乱暴につぶされるのを見た経験はなく、取材する立場ながら心底怒りがわいた。その直前に親ロシア派がドネツクのテレビ局を占拠して流し始めたロシアの国営テレビは、でたらめを話す証言者を登場させて「西部から来た民族主義者のデモ隊が起こした争乱」と伝えた。
銃撃戦が広がり、重火器が持ち込まれて本格的な戦闘に変わっていった。5月には、親ロシア派がドネツク国際空港を制圧して全面的な戦争状態になった。人口約100万人のドネツクから住民の脱出が相次いだ。
7月には親ロシア派支配地域から発射されたミサイルで上空を通過中のマレーシア航空機が撃墜され、乗員・乗客298人が犠牲に。ミサイルは後に国際捜査チームがロシア軍部隊のものと断定した。私は砲撃戦で廃虚と化したドネツク近郊の村々をまわった。ドネツクと境界を接する街をウクライナ軍が奪還した直後に訪れると、砲撃を受けた集合住宅の壁に「何のためにこんなことを?」という大きな落書があるのを見た。
やがて戦況は親ロシア派側に傾いた。9月、私は同派部隊が東の市境まで迫った南東部の50万都市マリウポリで、脱出する住民らが鉄道駅に押し寄せ、西に向かう幹線道路に長い渋滞ができるのを見た。翌年2月には仏独首脳が仲裁する本格的な停戦合意が成立したが、発効の3日後にドネツク市内に入るとまだ砲撃音が続いていた。
ウクライナ東部の紛争は、90年代から武力紛争が続いたジョージアと性質が異なっていた。キーウでの政変後、東部で新政権を支持する人々と拒む人々の対立があったのは事実だ。しかし、独立後のウクライナに武力紛争の過去はなかった。大量の武器や、紛争地からやってきた「義勇兵」を名乗るロシア人戦闘員。紛争の「発火装置」が外から持ち込まれたのは明らかだ。
停戦合意では親ロシア派に「特別な地位」という名で自治権を与える条項が入り、プーチン氏はウクライナに介入し続ける足がかりを得た。欧米は当初こそロシアに対して経済制裁を導入したが、エネルギーをロシアに頼る欧州各国は「政治と経済は別」と個別交渉に走った。領土問題の解決を目指した日本の安倍晋三首相はプーチン氏と個人的関係を深めた。17年には米国に「ロシアと仲良くすることはよいことだ」と言うトランプ大統領が誕生。欧米の足並みの乱れはプーチン氏に駆け引きで優位に立てるとの誤ったメッセージを送ったと考えざるを得ない。
ウクライナは東部を地盤とする親ロシア政党と西部の欧米派政治勢力の対立が続き、国の方向が定まっていなかった。大統領選や議会選のたびに結果は東西でくっきりと差がついた。オレンジ革命で発足した親欧米政権は内紛が続き、ロシア軍がジョージアに侵攻したときも足の引っ張り合いが続いていた。14年の政変も当初は「親ロシア勢力対親欧米勢力」の文脈でとらえられた。
だが、クリミア併合と東部の紛争を経てウクライナ社会は様変わりした。政治と距離を置いていた中間層、特に若い世代のウクライナ人意識が高まり、国民の一体感が格段に強くなった。市民団体の活動が活発化した。ロシアへの反感で国内の対立は緩和し、東部、クリミアからの150万人の避難民支援に中部、西部の人々が動いた。話す言葉や地域の違いによる偏見がなくなったと多くの人が証言した。
17年末に再びモスクワ支局に異動した私は18年冬、マリウポリを再訪した。危機で多くの人が去ったが、親ロシア支配地域を逃れて移り住む人もおり、活気を取り戻していた。14年の紛争の際、脱出しようとキーウ行きの切符を買ったが、妊娠中で断念したという主婦は「あのころ誰も助けてくれないと思っていたけど、今は守られている気がする」と話した。
ただ、14年の政変後、東西の区別なく票を集めて大統領に当選した親欧米路線のポロシェンコ政権はそのころ大きく支持率を落としていた。当初政権には議会選の比例区で議席を得た親欧州路線の全政党が加わったが、過去の親欧米路線政権と同じように間もなく与党間の争いが起きた。支援する主要7カ国(G7)や欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)などの支援の条件となった経済改革や腐敗対策はなかなか進まなかった。
社会が大きく揺れる中で、政治の世界だけは危機前と同じ顔ぶれの有力政治家たちが合従連衡を繰り返していた。19年の大統領選で「刷新」を掲げた政治経験ゼロのコメディー俳優ゼレンスキー現大統領が突然の出馬表明から一躍トップに躍り出た背景にはこうした事情があった。ソ連崩壊後の6回の大統領選で5回目の政権交代だった。
一方、プーチン大統領氏が事実上2000年以来権力の座につくロシアでは、全く別の地殻変動が進んでいた。(つづく)