私が初めてモスクワで取材したのはソ連時代末期の1991年8月、共産党の保守派がゴルバチョフ・ソ連大統領の改革を阻止しようとクーデターを起こしたときだ。抵抗する急進改革派のエリツィン・ロシア共和国大統領(のちにロシア大統領)と彼を支援する市民たちが、同共和国最高議会ビル(今のロシア首相府)前にバリケードを作って抵抗し、クーデターは3日で失敗に終わった。
直後から民主主義の勝利に目を輝かせた人々が街のあちこちで議論の輪を作った。その情景を伝える記事を当時の私は「『民主主義の興奮』の中にあるモスクワ市民たちは――」と書き出した。ソ連が崩壊したのはその4カ月後だ。
冷戦終結30年の2019年秋、ロシア世論の変遷について話を聞いたレバダ・センターのレビンソン社会文化研究部長に「あのときバリケードに立てこもった市民たちはどこへ行ったんでしょう」と尋ねたら「ここにいますよ」と答えが返ってきた。「でもあれはモスクワという都会の出来事で、ロシア全土が同じだったわけではない。クーデターの失敗を民主主義の到来と喜んだ私たちは実は当時から少数派だったと考えるべきでしょう」
人口でソ連の半分、面積で4分の3を占めていたロシアの国民はソ連から独立を勝ち取ったのか、ソ連という国を失ったのか。当初のエリツィン政権はソ連から独立した新生ロシアという考えを鮮明にしたが、独立した国民国家として明確なアイデンティティーを得た他の旧ソ連国と異なり、ロシアの多くの国民にとって新しい国の姿はあいまいだった。
ソ連を生んだロシア革命で帝政ロシアは否定され、今度はそのソ連が否定された。二つの時代をめぐる評価も真っ二つに割れた。その国民を00年代にもう一度一つにまとめたのが、自分たちは帝政ロシア、ソ連を通じて何世紀も続いた一つの「強い大国」を引き継いだのだとする第2代のプーチン大統領の歴史ストーリーだった。
お題目のように民主主義を唱えるエリートたちが壊した強い国を大衆が取り戻す――レビンソン氏の話を聞いて思ったのは、新自由主義に取り残された「ラストベルト」(さびついた工業地帯)の人々に支えられて誕生した当時のトランプ米大統領のことだった。米国ではトランプ氏に異を唱える人々の動きも活発化した結果、国は分断された。一方、民主主義の歴史が浅いロシアでは権力間のチェック機能があっという間になくなり、少数となった反対派は存在さえ否定された。
プーチン氏に絶対的な権威を与えているのは過去22年で1度しか6割を切ったことがないという驚異的な国民の支持率だ。世論はコントロールされ、政敵排除が続いた結果、ほかに国を担える人物はいなくなった。
20年の国民投票直後に独立メディア「メドゥーザ」が賛成投票した読者に理由を聞いた投稿特集は「プーチンが続投しなければ社会が成り立たない」といった20代、30代の読者の声であふれた。メドゥーザは国外に本社を置いて政権に批判的な報道を続けるメディアだ。その読者でさえ大人になってからプーチン以外の権力者を知らず、ほかの政治家を信じていなかった。支持、不支持にさえ関係なく、だれもがプーチンを失うことを恐れているのというのがいまのロシアのもう一つの現実だ。
ロシア国民はいまも常に4分の3が国内で「特別軍事作戦」と呼ばれるプーチンのウクライナ侵攻を支持している。キーウで侵攻を経験し、戻ったモスクワはまさに「パラレルワールド」だった。
私たちは1989年のベルリンの壁崩壊や冷戦終結に自由と民主主義が勝利したと考えた。2年後に「『民主主義の興奮』の中にあるモスクワ市民」を見た私はロシアも自然な流れでそこに加わり、国際協調の道を進むのだと考えた。
自由と民主主義が勝利したのは事実だ。ただ、私はそこに見たい未来しか見ていなかった。新生ロシアが民主主義の道を歩み続けられるよう支援を惜しまなかった欧米各国も同じだったと思う。
第1次世界大戦でロシア、オーストリア、オスマントルコ、ドイツの帝国が倒れた。多くの国民国家が生まれた欧州は新たな道を歩み出したが、20年後に直面したのは大戦の敗北で失ったものを取り戻そうとするナチス・ドイツの台頭だった。ソ連崩壊から30年、私たちはあの時と同じ道を歩んでいるのか。ロシアによるウクライナ侵攻が終わるまで、その結論は下せない。(おわり)