ウクライナ南部オデーサにある歌劇場が6月17日、再開した。ロシアが4カ月近く前に侵攻してから初めてのことだった。それは仕掛けられた蛮行に、文化で反撃することを強調するかのようだった。
国は戦時下にある。それでもこの港湾都市は、普段の暮らしを上辺だけでもよいから取り戻そうともがいていた。その舞台が、この歌劇場となった。その威容は、今は活動を停止している黒海の港を望む高台にある。創建は、1810年にさかのぼる。
再開の演目は情熱的な国歌で始まった。舞台の背景幕には、風にそよぐ小麦が描かれていた。後背地には肥沃(ひよく)な穀倉地帯があり、この街の豊かさの源になってきたことを思い起こさせていた。しかし今、穀物はサイロに封印され、世界的な食糧不足の恐れが高まっている。
「警報が鳴ったときは、すみやかに場内の避難所に移動してください」
演目を紹介した劇場スタッフのIlona Trach(以下、一部のウクライナ人名表記は原文のまま)はこう注意し、さらに再開の意義を語った。
「ご来場のみなさんは、この劇場の魂そのものです。私たちは、ほぼ115日間もの沈黙を強いられました。今こそ、上演を通じて黙ってはいないことをともに示しましょう」
オデーサはこの数週間、これといった攻撃は受けていなかった。しかし、東に70マイル(約112キロ)の港町ミコライウでは、ロシアによる砲撃は日常茶飯事になっている(今回の上演翌日の18日には、ウクライナのゼレンスキー大統領が前線視察と激励でここを訪れている)。
ロシアのプーチン大統領がオデーサをなんとか手に入れようとしていることは、秘密でもなんでもない。ウクライナ経済にとっての重要港であり、かつてはロシア帝国に属し、引き続きソ連という帝国に加えられ、文化の象徴的な存在でもあるからだ。
敷石の並べられた広い並木道がひっそりとたたずむように見えても、それはいつ壊れるともしれないはかない静寂にすぎない。
振り返ってみても、この街の歴史は勝利と悪夢の連続だった。国境もたびたび動いた。ナチス・ドイツのホロコーストに加担させられ、山あり谷ありの歩みをたどった。
しかし、どの瞬間をとっても、この街は今を大切に生きてきた。
歌劇場もそうだ。再開の日もロココ様式の金の曲線をうねらせ、仏リヨン風の赤いビロードをまとい、シャンデリアと鏡を輝かせていた。客席は3分の1ほどしか埋められなかった。安全上の制約のためだった。
タクトを振ったのは、首席指揮者のViacheslav Chernukho-Volich。「ロミオとジュリエット」の二重唱や「トスカ」「トゥーランドット」の独唱などに加えて、オデーサ生まれの作曲家Kostiantyn Dankevychの作品も演じられた。
音楽は挑戦的な文化と美の奇跡のように聞こえた。「ブチャ」や「マリウポリ」でロシアが示した残忍さを叱責するのに、これ以上のものはないように思えた。
いずれの地名もプーチンがこの戦争で仕かけたいわれなき破壊の代名詞となった。そこには、ウクライナは「虚構の国家」にすぎないというこの人物の妄想が映し出されている。
「軍当局から開催許可を得たのは10日前。そして、今日という日を迎えられ、気持ちは幸せそのものだ」とChernukho-Volichは話す。
「戦争が始まったときは爆発音と警報に恐怖を感じた。まるで、第2次世界大戦の映画に迷い込んだかのような、ある種の非現実感に支配された。しかし、人間はどんなことにも慣れるもの。それを打破するのは難しいかもしれないが、私たちは文明の勝利を信じたい」
Chernukho-Volichは数年間、モスクワで働いていた。しかし、2014年にプーチンがクリミアを併合し、ウクライナ東部ドンバス地方で分離戦争をけしかけると、ひらめきを受けたように考えが変わった。
ロシアは帝国という発想を捨てることはない。プーチンのような自分たちの原理原則を外に向かって解き放つ用意がある政治家は、ロシア国内ではすぐに自らの立場を強める。同時に、世界にとっては脅威となるだろう。
そんなことが見えるようになったChernukho-Volichは、モスクワを去った。
今はオデーサの歌劇場で指揮を執るが、ここにもロシアの影響は色濃い。
創建時はロシアのサンクトペテルブルクの建築家によって設計された。大火に遭い、ウィーンの建築家たちによって再建されたが、建物正面の装飾にはロシアの大詩人プーシキンの胸像がある。街そのものも、ロシアの女帝(訳注=エカテリーナ2世〈在位:1762~96〉)によって設立されている。
ただし、街の設計のほとんどはフランスの公爵が手がけている。西は地中海から、東は中央アジアの草原地帯から人々を引きつけ、長年にわたってさまざまな宗教・宗派の交易商人たちが住み着くようになった。
それをプーチンはますます野蛮な手法で制圧し、「ロシア帝国」の名のもとに支配下に収めようともくろんでいる。オデーサという開放的な街と、いくつもの言葉を話す社会を黙らせるつもりなのだろう。
しかし、街の開放性と多言語社会の組み合わせこそが、ここに根づく音楽の本質なのだ。
「オデーサには、独自の国民性があるといってもよい」とGrigory Baratsはいう。ロシアの今回の侵攻で多くが避難し、散り散りになったオデーサのユダヤ人団体の一人だ。
再開コンサートを聞きながら、ニューヨークにいる母(96)のことを考えていたとBaratsはいう。母はかつてこの歌劇場で働いていた。
演目が終わると、拍手が鳴りやまなかった。「ブラボー」のかけ声が飛び交った。
楽屋ではジュリエット役のソプラノ歌手Marina Najmytenkoが誇らしげに笑顔をはじけさせていた。「芸術は私たちの心の核にあるものを守ってくれ、私たちが生き延びるのを助けてくれる。だから、この戦争にだって勝てる」
「いつそうなるのか」と筆者は尋ねた。
「残念ながら、しばらくかかる。プーチンは狂っているとしか思えないことが、みんなの気持ちを暗くしている」
「でも」とNajmytenkoは言葉をつなぎ、ジュリエットが自分をとくに鼓舞してくれたと明かした。「これは、あのシェークスピアもの。青春と純粋な愛が描かれていて」
オデーサが大きな攻撃にさらされたのは、2カ月ほど前だった。ミサイルの着弾で8人が亡くなった。
その街で歌劇場が再開されたことは、じわじわと進むこの戦争の二つの側面を浮き彫りにしている。一つは、かつての日常生活に近いある種の暮らしが、かなり広い地域で表面上は復活していること。もう一つは、東部のかなりの部分と南部の一部で激戦が続いていることだ。
「オデーサは生きている。ウクライナも生きている。私たちが生き、創造性を発揮しようとしていることを示すことが、今ほど重要なことはない。ロシアの占領者の手法が、殺戮(さつりく)と死であるだけに」とオデーサの市長ゲンナジー・トゥルハノフは強調する。
「もし、プーチン大統領がこの歌劇場を攻撃しようものなら、世界中が憎しみを爆発させることは想像に難くない」
トゥルハノフは長らく親ロシア的な政治家と見なされてきた。それが、今回の戦争が始まると、ウクライナとこの街をはっきりと擁護する姿勢に変わった。そして、組織犯罪との関わりについての告発をはねつけながら、ロシアについてはこう語るのだった。
「文化国家としての名声を、自分で壊している。本当に残念だ」
「プーチンはオデーサの中心部を攻撃するだろうか」と問うと、「もちろん、やりかねない」と答えた。
「『ブチャ』や『マリウポリ』を引き起こし、ちょっと先の『ミコライウ』でやっていることを思えば、なんだってやりかねない。それが、私たちが学んだことだ」
意気軒高なオデーサでは、文化間の緊張も高まろうとしている。市役所近くのプーシキン通りの名称変更をトゥルハノフは迫られている。優れた脚本家で小説家でもあるロシアのこの大詩人が、オデーサに滞在したのは1823年のことだった。
「私は反対だ」と市長は明言する。「オデーサは異文化が集うウクライナの中心都市だ。ロシアのありとあらゆるものを憎む風潮の広まりには、強い懸念を抱かざるをえない」
ただ、この憎しみはプーチンのこのいわれなき戦争の必然の帰結なのかもしれない。
ある国家の存在そのものを否定することを宣告する。そうすれば、その国家は反発し、かつてないほど団結して自らの存在を守り抜こうとするだろう。(抄訳)
(Roger Cohen)©2022 The New York Times
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