話は20年前にさかのぼる。02年5月28日、夏はまだ先というのに、焼け付くような太陽が輝いていた。ローマ中心部から南に約25キロのイタリア空軍基地。地中海に臨む小さな街の外れの広大な仮設テントで、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議「19プラス1」が開かれた。「19」は当時のブッシュ米大統領を含め、当時19カ国だったNATO加盟国の首脳たち。「1」は就任して2年が過ぎたばかりの49歳のプーチン・ロシア大統領だ。NATOの仮想敵国とみなされたロシアの大統領が出席したこの会議は、東西冷戦終結13年の欧州安全保障の転換点と受け止められた。
首脳らはNATOとロシアが安全保障政策の一部を共同で決める「NATO・ロシア理事会」の創設文書に署名した。翌日の朝日新聞1面には「ロシア、NATOに準加盟」の見出しが躍った。
「ウクライナは独立国だ。自らの平和と安全保障の道は自ら決める」。議長のベルルスコーニ・イタリア首相、ロバートソンNATO事務総長(いずれも当時)と並んだ記者会見で、ウクライナの将来のNATO加盟について聞かれたプーチン氏の答えは今とは正反対の見解だった。
独立を主張するロシア南部チェチェン共和国への軍事進攻で政権発足時から激しい国際的な批判にさらされたプーチン氏は当時、欧米との関係回復を模索していた。反対していた旧ソ連のバルト3国の加盟はもう避けられない情勢。NATO拡大反対の主張を押し通して孤立するより、チェチェン独立派に対するテロ掃討作戦や人権問題で欧米の批判を封じるためにも自らがNATOに関与できる道を選んだ方が得策、との合理的な判断があったはずだ。
プーチン氏は首脳会議の演説で「ロシアとNATOの協力は、バンクーバーからウラジオストクまで共通の安全保障空間を作り上げる大きなチャンス」とも言った。カナダから極東まで広がるNATO空間――。プレスセンターのテントで隣のブルガリア人記者が私に「次は日本のNATO加盟だな」と話しかけてきた。
私は当時、モスクワ特派員になって1年が過ぎたばかりで、就任間もないプーチン氏がどんな大統領なのかつかみあぐねていた。チェチェンを力で押さえ込んだプーチン氏の支持率は70%を超えていた。強さと決断力を前面に国の尊厳回復を訴える一方、改革派のお株を奪う経済改革を次々と実現。欧米接近をはかるかと思えば、ソ連の国歌のメロディーを復活させソ連に郷愁を感じる世代の歓心を買っていた。
数年前まで普通の生活をしていた人々が路上で自宅の食器から家庭菜園の野菜まで売って生計を立てる一方、新手のビジネスでもうけたやくざまがいの集団が高級車で街にばっこする――そんなソ連崩壊後の記憶がまだ生々しかった時代だ。
このころロシアの人々は保守、改革派の違いに関わらず、混沌からの脱却を目指す若いプーチン氏に、それぞれが見たいものを見ようとしていた。ソ連を懐かしむ人はその強さに生活の安定をもたらす権威主義を望み、欧米のような社会を望む人は彼の決断力に改革推進を期待する、というように。多くの人は、プーチン氏の判断で大規模な攻撃をかけ、多数の戦死者や避難民を出した悲惨なチェチェン共和国の現実からは目をそらしたがっていた。
それは「欧州の安定のために」とプーチン氏の接近を歓迎し、取り込みを図った欧米も同じだったのかもしれない。しかし、その蜜月はほどなくして終わる。
後にプーチン氏が「欺かれた」と繰り返す数々の出来事が起きた。03年、米ブッシュ政権がロシアの石油権益を無視してイラクに侵攻。その後に打ち出した東欧のミサイル防衛構想を、プーチン氏は「ロシアの核戦力に対する封じ込め」と受け止めた。04年のウクライナ大統領選で「オレンジ革命」が起き、プーチン氏が肩入れした候補が敗れると、背後に欧米の策動があるとにらんだ。
実利主義的で、人権など価値を押しつけられることを嫌うプーチン氏はこの時期、欧米諸国は冷戦が終わってもロシアを相いれない国家として敵視し続けるのだという確信を深めていたと私は思う。
01年9月の米同時多発テロを受けて米国が発動した対テロ戦争に協力した結果にプーチン氏が失望を隠せなくなったころ、ロシアで悲惨な事件が起きる。イスラム過激派がチェチェン共和国からのロシア連邦軍の撤退を要求して起こした、北オセチア・ベスラン学校占拠テロ事件だ。幼い児童ら330人以上の犠牲者を出す大惨事となった。
事件直後の国民向け演説でプーチン氏は悲痛な表情で「私たちは自分たちの国や世界全体で起きている現象の複雑さ、危険さを理解していなかったと認めざるを得ない。我々は正しく対応できず、弱さを見せた」と語り、こう付け加えた。「弱い者は打たれる」
プーチン氏は「私たちは、不幸にも急速に変化する世界で生き残る能力を持たなかった巨大で偉大な国が崩壊した後に暮らしている。だが、我々は何とかソ連の中核は残すことができた。その新しい国をロシアと呼んだのだ」とも語った。10分間の演説で国民に誓ったのは、ソ連崩壊でばらばらになった「国の一体性を取り戻す策」をとることだった。
原油高で経済は上向き、プーチン人気で与党が肥大化し、欧米との協調路線を掲げる改革派は04年の議会選で大敗。野党は与党を表向き批判するふりをしながらプーチン体制を補完する「体制内野党」に変わっていった。政権に異議を唱える勢力は政治の舞台から消えていった。人々がプーチン氏に託した希望の陰で、民主主義による権力のチェック機能は徐々に失われた。
プーチン氏は学校占拠事件の翌05年、議会向け演説で「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的惨事」とし、「数千万人の同胞が国外に取り残された」と語った。07年のミュンヘン安保会議で米国の単独主義を激しく批判し、欧米との対決姿勢を鮮明にする。
プーチン体制が親欧米路線を突き進む隣の旧ソ連国ジョージアに対して力の行使に走るのはその後間もなくだ。(つづく)