前回「『多数の警察官が殺害されている』 ロヒンギャへの攻撃が始まった」はこちら
すでに、多数のロヒンギャが国境を越えてバングラデシュに逃げていることが明らかになっていた2017年8月27日、私はバンコクからミャンマー・ヤンゴンに入った。そんな中、ミャンマーの情報省が、「ラカイン州での現状を見てもらうために、外国メディアが現場を取材できる機会をつくりたい」という連絡をしてきた。
情報省は、軍事政権時代は言論統制を担う省だったが、民政移管後は外国メディアの対応窓口になっていた。おそらく、ロヒンギャ武装勢力側の攻撃の跡を見せるなどして、「政府の掃討作戦の正当化」としたいのではないか、と予想できた。ただし、参加できるのはミャンマー人だけ。外国人は「安全上の理由で」連れていけないという。
自分の目で見られないのは残念だったが、同僚ネイテッに行ってもらうことにした。掃討作戦の最中。情報省の役人が先導するのだから、安全な場所を選ぶだろうが、万が一ということもある。ネイテッに、「危険な現場だが、取材できると思うか」尋ねると、「十分に注意して、是非現場を見てきたい」と返事があった。「とにかく安全第一で」と送り出した。
情報省と現地を訪れたのはミャンマーや日本のメディアなど約10社。通信状況も悪く、なかなか連絡がつかなかったが、ネイテッはメールやショートメッセージを使って逐一報告してくれた。
「先ほど、ラカイン州マウンドーの近くで情報省の担当者と話しているとき、銃声が聞こえた」
「マウンドーの街中を歩いていたら、燃え上がる複数の家があった」
こちらも「安全だろうか」と体をこわばらせる一方、「自分の目で見たかった」と少し悔しい思いもこみ上げた。
特派員本人ではないにせよ、世界的なニュースになっている現場に我々の同僚が入っている。ネイテッの生々しい報告を記事にして東京本社に送ったが、残念ながら「政府側の『官製ツアー』だし、特派員が見ていないなら、難しい」という返事だった。結局、ネイテッの見聞きしたことを文字にすることはできなかった。
今にして思えば、世界から注目された現場の事件直後の空気を伝えるため、もっと努力すべきだったと深く反省している。3日後、ネイテッをヤンゴンで迎えたときには「無事に帰ってくれた」という思いと、危険な取材を文字にできなかったことへの申し訳なさを感じた。
そのときの「幻」の記事にはこう書いた。
今月25日、ミャンマー西部ラカイン州でイスラム教徒ロヒンギャとみられる武装集団が警察施設を襲撃してから、治安部隊と武装集団との戦闘が続く。死者は100人を超え、隣国に逃れたロヒンギャは1万8千人にのぼる。襲撃があった同州マウンドーに30日、朝日新聞のミャンマー人スタッフ記者が入った。銃声が鳴り響き、治安部隊の警官や兵士があちこちで銃を構える緊迫した状況だった。
取材は、ミャンマー政府・情報省がミャンマー国内外のメディアを募って行われた。参加できるのはミャンマー人のみとされた。3日間で取材先やスケジュールは情報省が決め、単独行動は認めない、訪れるのは、安全が確認された場所だけという条件だった。朝日新聞は、3年間、ヤンゴン支局で勤務する男性のミャンマー人スタッフ(32)が参加。このほかに日本や中国など7メディアほども同行した。
(中略)
政府の掃討作戦が最も激しく行われたとされるラカイン州西部マウンドーに一行が入ったのは30日午後3時前。記者たちは前後を国軍兵士や警察の車両に守られ移動した。マウンドー地区行政事務所では、イェートゥ行政長官が、「(ロヒンギャの)テロリストが5人を襲い、家々に火をつけた」などと説明。その最中、事務所近くで複数の銃撃音が聞こえ、ライフルを持った警察官10人ほどが走っていった。記者たちが外に出ると、銃撃音のした方で3軒ほどの家が炎を上げているのが見えた。
音が静まってから約20分後、同行した情報省の担当者が記者たちに現場を見る許可をしたため、10人ほどで火の手が上がっていた方に向かった。レンガと木でつくたれた家は焦げて崩れ落ち、まだ火薬の匂いがしていた。
(中略)
マウンドーに暮らすヒンドゥー教徒の男性(56)は、「とても怖い。以前はイスラム教徒と良い関係だったのに。今、彼らは私たちが仏教徒と結託しているから、殺すという。家にいたら燃やされ、殺されてしまう。衣料店を開いていたが、とてもあけられる状態ではない」と話した。仏教徒ラカイン族の女性(36)は、「私たちを襲ってきたのは、黒ずくめでマスクをした集団だった。25日の夜中に襲われたが、警察などが来たのは朝になってからだった」と語った。
同行した情報省の担当者は記者団に、「真実を伝えてほしい」と何度も言ってきたという。取材はヒンドゥー教徒や仏教徒に限られ、イスラム教徒の声をきくことはできなかった。掃討作戦はどんな状況だったのか、ロヒンギャの人たちはなぜ逃げなければいけなかったのか。こうした部分を見られなかったのは事実で、確かに「官製ツアー」かもしれない。ただ、時間がたってから読み返しても当時の緊迫した状況が伝わる取材で、読者に届けるべきだった、と自分を責める気持ちがある。
(次回へ続く)