前回の「視察に訪れた大臣を追いかけて ロヒンギャ難民キャンプ内を走り回る報道陣」はこちら
ビザの期限が迫る
河野太郎外相(当時)がバングラデシュ南東部コックスバザールを訪れた翌日の2017年11月20日、日が昇り始めた頃、記者たちは車でホテルを出発した。ホテルの主人が出てきて、アルミホイルに包まれた朝食を手渡しながら、「幸運を祈ります」と笑顔で言ってくれた。
そもそも、この出張では、「8月25日の問題発生から2カ月たっても難民の流入は止まっていない」という現状を直接取材することを想定していた。国境で、難民キャンプで何が起こっているのか、日本にいる読者からではわからないことを自分の目で見て、記事として発信しなければ。そんなプレッシャーを自分自身にかけていた。キャンプ内のロヒンギャの人たちへの取材はできたが、川を渡って逃げてきた人たちがどんな状況なのか、どんな気持ちなのかを知ることはできず、コックスバザール滞在の時間は終わりに向かっていた。21日は午前中にはダッカに移動する予定だった。20日がダメなら、もうあきらめるしかない。
落ち着かない気分だったが、車の中から目をこらした。この日はキャンプには向かわず、海沿いの道をミャンマーとの国境に向けて走った。1時間半くらい走った頃だった。進行方向右側に人が行列を作って歩いている。「あれはロヒンギャの難民じゃないか?」。フダ氏が我々を見た。数十人がゆっくりとこちらに向かってきている。
すぐに降りて近づくと、子どもを抱えた女性や頭に黄色い荷物を載せた人らが連なって歩いていた。「どこから来たのですか」と尋ねると、疲れた様子で「ミャンマーから逃げてきた」という。やはり、そうだ。「ボートで川を渡って、国境から歩いてきた。キャンプに行ったら食料があるときいたので、そこまで行くつもりだ」という。とても疲れている様子で、道路にへたり込む人もいた。数日前に取材したWFPの報道担当者に、彼らのことをメールで伝えたが、「今でも多くの人がこちらに来ているので、独力でキャンプまで歩いてきてもらうしかない」ということだった。キャンプの方向を伝え、また車に乗り込んだ。
国境を越えるのは朝が多いときいていた。日中になるとミャンマー・バングラデシュ両国の国境警察も集団に気づく。国際機関によると、バングラデシュ警察はほぼ黙認しているというが、明らかに「違法入国」とわかれば、止めざるを得ない場合がある。なるべく日が昇らないうちに国境を越えたいというロヒンギャが多いということだった。
我々は車で国境に向かった。実は数日前、国境に車で近づくと、バングラデシュ軍兵士に追い返されたことがあった。「近くに車を止めて、歩いて国境まで行こう」。カメラやメモなど最小限の荷物であまり目立たぬように国境まで黙々と歩く。徐々に日が高くなってきた。「まだロヒンギャの人たちはいるのだろうか」「もしいなかったら次はどこへ行くべきか」「途中で兵士に止められたら……」。不安ばかりが頭をめぐる。
手製のいかだを発見
国境の河岸そばの短い草の生えた土手を20分ほど歩いた頃だろうか。右手にオレンジ色の固まりのようなものが水に漂っているのが見えた。近寄ってみると、日本で灯油を入れるようなプラスチックのポリタンク数十個、ひもで結んで20平方メートルほどの正方形の板状のものをつくっていた。上には竹が組まれている。そんなものがいくつも岸につけられていた。これは何だろう。現地通訳の男性が、「これはミャンマーからわたってきたいかだだ」という。多数の人がわたろうとするため、舟が足りず、ミャンマー側にあるもので手作りのいかだをこしらえ、それに乗って国境を越えてきているという。「こんないかだだから、大雨が降ったら転覆する。たくさんの命がなくなったときいた」と男性は説明する。
いかだがここにあるということは、まだ近くに来たばかりのロヒンギャの人たちがいるかもしれない。焦る心を鎮め、周囲に目をこらしながら歩き進む。すると、数十メートル先に、数十人の人影が見えた。土手を列になって歩いている。思わず、カメラを左手で押さえてかけだしている自分がいた。杉本機動特派員は人々の様子をしっかりカメラにおさめてくれていた。
歩いていると、土手ののり面に、荷物が無造作にいくつか置かれているのが見えた。そばに、女性が数人、立っている。大変な思いをして国境を越えてきたことがわかっていたが、可能な範囲で話を聴けないか、とそばに寄った。ピンクのヒジャブをした女性、ジャイナフ・ベガムさん(20)。腰に巻いた女性用のロンジーは水にぬれていた。「いかだにずっとしがみついてきた。生きてたどり着いてよかった」。そう話すと、ぺたんと地面に腰を落とし、涙がほおをつたった。
きくと、5日前、ミャンマー・ラカイン州にあるマウンドーの村を逃げ出したという。数週間前からミャンマー国軍の兵士が、「テロリストが隠れている」と村中をさがしまわり、村人に外出を禁じた。買い物にも行けない。徐々に食べ物が尽きてきたという。村人の中には、こっそり抜け出し、バングラデシュを目指した人もいた。ただ、ジャイナフさんには病気の両親がいて、見捨てるわけにはいかない。妹はまだ15歳。このままでは皆死んでしまう、と思い、両親に相談した。「あなたたちだけでも逃げなさい。私たちはついていけない」。そう言われ、妹と2人でバングラデシュに逃げることを決めた。両親のことは、隣の家族にお願いした。3日間、国境まで進んだ。川沿いにいた十数人と一緒にポリタンクと竹でつくったいかだに乗り、木の枝に鍋をくくりつけた櫂で交代にこいでわたった。
暗い中、海のように広い川を進むのはとても怖かったという。到着してほっとした思いの次にこみ上げてきたのは、両親のことだったという。「なぜ、残してきてしまったのか。私たちは罪を犯したのではないか」。涙を流し、しゃがれた声でジャイナフさんは話した。きいているこちらも胸が締め付けられる思いだった。
何とか話を聴くことができた。安心はしたが、達成感を感じられたわけではなかった。命がけで故郷の村を捨て、両親までおいて逃げてきている人たちがいる。そんな人たちの声を、数日キャンプを訪れただけの自分が伝えられるのか。そんな悩みが大きくなってきた。
記事はそれから1週間後、朝刊の1面と国際面に掲載された。通常から考えれば破格のスペースをもらったが、書き足りないことばかりだった。「これでは『現場発』とは、とても言えない。これからもずっと追い続けなければ」。そんな思いが強くなった。
(次回に続く)