■出会いは夜の空港
ヤシンさんと出会ったのは、2004年1月の日曜、夜の関西空港の国際線出発フロアだった。冬休みで、学生時代にホームステイしたパキスタンの家族の兄妹を神戸の自宅に招いていた私は、帰国する2人を見送りに来ていた。
出国ゲート前で別れを惜しんでいると、褐色の肌の男性が兄妹に話しかけた。「里帰り出産をする妻が同じ便に乗るので、面倒をみてもらえませんか」。その隣で、おなかの大きな女性が小さな男の子の手をひいていた。もちろん。私は、あいさつ代わりに尋ねた。どこの方ですか?「ミャンマー」。彼は答えた。
「うわ、1年前に行ったところ」。偶然、旅先で買った、ビルマ文字の書かれたビニールバッグが手元にあった。彼は丸っこい文字をすらすら読み、私は単純に喜んだ。「さすがミャンマー人!」兄妹たちがゲートの向こうに消え、さあ帰ろうとふと横を見ると、さっきの男性が固まっている。群馬県の館林に住んでいて、今夜は大阪の友達の家に泊まるつもりなのに、空港から大阪までの電車はもう終わっていたのだ。私はもともと、一緒に見送りに来てくれた友人を、車で大阪まで送っていくつもりだった。「じゃ、ついでだから一緒にどうぞ」
助手席に座ると、男性は中古の愛車カローラⅡの計器盤に目をやり「6万キロ」とつぶやいた。仕事は中古車の輸出販売業だという。「日本の中古車輸出業者にはイスラム教徒が多いんです。今日泊めてもらうのも同業のパキスタン人です」
「ミャンマー人なのに、イスラム教徒なんですねえ」。旅先で見た金色の仏教寺院を思い浮かべながら言った私に、男性が「私は、───なんです」と言った。私が聞き返すより早く、友人が後部座席から「え?ロヒンギャ!」と声を上げた。辺境や民族に詳しい友人によると「ミャンマーでもバングラデシュとの国境付近にはムスリムが住んでいてロヒンギャと呼ばれている」という。へえー。私はそれほど興味を持たなかった。「それで、あなたの名前は?」「ヤシンです」「あ、そっちは覚えるの簡単だ」。連日報道されていたパレスチナのイスラム武装組織「ハマス」の「精神的指導者」と同じ名前ね─。それが、モハメド・ヤシン(53)との出会いだった。
大阪に着いたものの、「同業のパキスタン人」の携帯はつながらない。寒い夜中に、日本語も地理も分からない外国人をガード下に放り出すわけにもいかず、私は彼を神戸の自宅に連れ帰った。友人も一緒に、カルダモンを入れたチャイを飲みながら明け方までおしゃべりした。1989年にミャンマーを離れ、サウジアラビアなどを経て6年前に日本に来たこと。難民申請をしていること……。
翌日は、神戸にある日本最古のイスラム寺院や港に案内し、記念写真を撮って新神戸駅のホームまで送った。「お兄さんができたと思って下さいね」と言って新幹線に乗り込んだ彼に、私は「また会うかどうかも分からないのに、大げさだな」と思いながら笑顔で手を振った。
■パクチーとともに一家は根を張った
そんなわけで、ホームで別れて3日後に彼から電話が来た時には、面倒なようなうれしいような気がした。館林に激励に行くと、真冬の公営住宅の敷地の隅で、彼が植えたパクチーが震えていた。日本の寒さでは、とても根付かないだろうと思った。
出産を終えた妻が日本に戻ってからも、暮らしは大変そうだった。外国人に慣れないご近所とのもめ事もあった。夫妻の日本語は初級会話程度で、夜中に「子どもが病気。薬の飲ませ方が読めない」と電話が来て、説明書を英訳してファクスしたこともある。
1年ほどして私は東京転勤になった。忙しくて友人関係が途切れていく中で、ヤシンさんは変わらず、よく電話をくれた。「まだ仕事ですか。だめですね」「今日は日曜日ですよ。堀内さんのお父さんにはもう電話しましたか」。ヤシンさんに言われ、急いで父に電話したことは何度もある。
館林を訪れるたび、ヤシンさんと妻は香辛料をふんだんに使った料理を用意して待っていてくれた。ラマダン(断食)明けには私が大好きな手作りのビリヤニ(炊き込みご飯)を宅配便で送ってくれる。遊びに行ったあげくに熱を出した時は、家に泊めて看病してくれた。「まだ結婚しないですか?堀内さんいい人だから、あとはイスラム教徒になれば完璧なのに」と言うヤシンさんに、「いや私、敬虔な仏教徒だから」。そんな軽口も言って笑い合った。
来日した頃はエアコンの組み立てなどの仕事をしていたヤシンさんはそのうち、中古車輸出の会社を作り、日本人の従業員を雇うまでになった。
子どもは4人に増えて地元の学校に通い始めた。給食にはイスラム教で禁止された食材も入るので、妻は献立表をみて「肉じゃが」や「ほうれん草のおひたし」に近づけた弁当を作り、毎朝送り出した。
4年前、一家は館林の隣町に中古の一軒家を買った。庭の一部を畑にして野菜を育てている。キュウリにトマト、唐辛子、イチゴ。パクチーも青々と育ち、バナナの木まで葉を茂らせている。
あのとき空港で手を引かれていた長男はこの春、地元の県立高校に進学。末っ子も小学1年生だ。家ではロヒンギャの言葉と日本語を、学校や地域では日本語を話す。最初のころ「日本は難民に厳しい。オーストラリアに移住したい」と漏らしたヤシンさんも、もう言わなくなった。外国語を覚え、会社を作り、子どもを育て、ご近所と仲良くなって根を張っていくヤシンさん一家に会うたび、自分の悩みは小さく思えた。
彼はよくミャンマーの故郷ラカイン州の村の話をした。「ミャンマーが平和になったら、絶対に遊びに来て下さいね」。ロヒンギャ難民でパキスタン生まれの妻も、日本育ちの子どもたちも、見たことがない村だ。
村の中心には大きな「ピーポルの木」があり、横にはモスク。農場に季節の野菜が育ち、池では魚が捕れ、マンゴーやレモンやジャックフルーツやバナナがたわわに実る─。それは素敵。私は、ヤシンさんの村で歓待される日を想像して楽しんでいた。
■歓待してもらうはずの村に何が起きたのか
楽しい空想は2012年6月、ヤシンさんからの突然の電話でかき消された。「ロヒンギャがミャンマーで殺されています。新聞で取り上げてもらえませんか」。知り合いが国境を越え、バングラデシュから携帯で電話してきたという。私はそのとき初めて、軍事政権下のミャンマーで民主化運動に参加したために国を逃れた、と思っていたヤシンさんが、ロヒンギャとしても迫害されていたことを知った。政府から「不法移民」とみなされたロヒンギャには国籍が与えられず、ヤシンさんもパスポートなしで国を出た「自称」ミャンマー人だった。
私は1997年に初めてミャンマーを訪れて以来、人々の穏やかな優しさとたくましさに魅了されて再訪もした。その人たちが、自分の友人を迫害しているとは信じたくはなかった。海外経験が長く「リベラル」なミャンマー人の友人に聞いてみても、「彼らはそもそもミャンマー国民じゃないから」と同情する様子はない。詳しい人に「ロヒンギャの人たちは、日本のミャンマーコミュニティーの中でも差別されている。反政府デモも別々にする」と聞いて初めて、私はロヒンギャ難民として暮らす厳しさを想像した。
2016年秋、ヤシンさんの家に遊びに行くと、彼は暗い顔で、私に衛星テレビ・アルジャジーラのニュース番組を見せた。ロヒンギャの村を治安部隊のヘリコプターが攻撃しているという衝撃的な映像だった。「モスクもたくさん燃やされちゃったんですよ。ロヒンギャはもうずっと仕事も選挙もできない。何年もかけていなくなるように計画されてきたんです」
そして、昨年11月には隣村に住んでいた親戚が殺され、母方の叔母さんがバングラデシュの難民キャンプに逃れたという知らせが入ってきた。何が起きているのだろう。私が歓待してもらうはずの「ヤシンさんの村」は無事なのだろうか?
いまは外国人記者が自由にミャンマーのロヒンギャの村に入ることは難しいが、バングラデシュ側のキャンプに行くことはできる。パスポートを持たないヤシンさんに代わり、私は叔母さんに会いに行ってみることにした。
■対岸のキャンプ 近くて遠い村
見渡す限り延々と、山肌に張り付くようにビニールシートと竹でできたテントが続く。5月末、私はミャンマー国境に近いバングラデシュのロヒンギャ難民キャンプに着いた。コックスバザールから車で1時間半。点在するキャンプに、70万人もの難民がいるという。
叔母さんを探すキャンプの入り口で、軍の治安責任者に「難民は車に乗せない」「物品を渡さない」「遅くとも午後4時までには出るように」などの注意を受けた。「お年寄りにあげてください」とヤシンさんから託された50個の老眼鏡を入れた袋を上着にくるみ、私はテントの間を縫うように歩を進めた。行く先々で「夫を殺された」「家を焼かれた」という人のテントに連れていかれる。大けがを負った人もいた。通訳役の若者が「襲ったのはミャンマー軍と僧侶だ」とスマートフォンでフェイスブックの画面をかざす。
ラマダンが始まったところで、私も通訳に付き合って日中は断食していたが、仮設トイレを見た時に「正解だった」と思った。便があふれ、申し訳ないが、とても使えない。夕方にはホテルに戻る私と違い、彼らは何カ月もここで暮らし、終わりも見えない。あちこちで竹を切って新しいテントを立てていた。翌日、叔母さんのいるキャンプが分かり、さらに南を目指す。国境のナフ川が見えてきた。対岸のミャンマー側に見える山。あの山を越えれば、ヤシンさんが住んでいた村があるはずだ。
やっと叔母さんに会えたのは、午後の遅い時間だった。
ヤシンさん似の目元に懐かしさを覚え、私はいそいそと用意してきたヤシンさんの写真を叔母さんに見せようとしたが、それより早く、同行したガイドがスマホの通話アプリで通信を始めた。日本のヤシンさんが帽子を取って画面に顔をぐっと近づけて笑い、叔母さんは一気に話し始めた。想定外の展開だ。
次の瞬間、私は、はっとした。ヤシンさんの背後に、何不自由なさそうな日本の生活が映っている。日没が3時間早いせいで一足先に彼がほおばっている食事も、おいしそうだ。30年ほどがたち、お互いの環境は全く違ってしまった。私が来たせいで懐かしさ以上に、その「差」を感じさせたのではないだろうか。暗いテントの中で、スマホの画面だけが場違いに色鮮やかに見えた。
叔母さん一家はヤシンさんの村の隣村で暮らしていたという。昨年10月の昼間、治安部隊が来て、村の家々に火を放った。穴を掘って隠れたが、1歳と2歳の孫は亡くなり、息子夫婦と残った孫と一緒に隣村に逃れた。数週間後、ミャンマーの警備兵に金の耳飾りを渡してナフ川からボートで国境を越えた─。
ひとしきり話を聞いたあと、私は尋ねた。「ヤシンさんの村を知っていますか」「ええ、あの子の母とは一番の仲良しで、よく遊びに行ったの。池で魚が捕れて、商店がたくさんあってね」「その村がどうなったか、ご存じですか」「燃えただろうね。私が逃げるとき、あの村の方角からも煙が上がっているのが見えたから」。それが叔母さんの答えだった。私は絶句した。
「ヤシンさんに会って初めてロヒンギャのことを知りました。私たちは友だちになって、叔母さんに会いに来たんです」。夕暮れが迫る。キャンプを離れる時間だ。私はヤシンさんの分まで小さな身体を抱きしめた。「どうぞお元気で」
■宗教を超えた友情にも出合う
旅の終わりの3日目。私はコックスバザールから東に14キロ離れたラムー村を訪ねた。ガイドブックに「仏教徒の村」と書いてあったからだ。仏教徒が多数派のミャンマーから逃れたイスラム教徒のロヒンギャの話を聞いてきたが、イスラム教が多数派のバングラデシュで、仏教徒はどう暮らしているのだろう。
村に入ると、イスラム教徒の姿が目立った。目についた小さな仏教寺院に入ると、僧侶が穏やかに応対してくれた。この村の寺院は2012年にイスラム教徒に襲われたという。「仏教徒がコーランの悪口を書いた」というフェイスブックの書き込みを信じたムスリムが「何千人も」遠くからバスで村にやってきて、20以上の寺院に一斉に火をつけたという。ロヒンギャのキャンプで何度も聞かされた「僧侶に襲われた」という話を、僧侶は「誰かが作ったフェイクニュースです」と話した。「私たちは、ここではマイノリティー。闘うことなどできませんよ」。その近くの再建された寺院には、襲撃で頭部を失った古い仏像が安置されていた。
キャンプでは「被害者」だったイスラム教徒が、ここでは「加害者」として語られている。それぞれに生活のある「優しい」人たちだっただろう。私を含め誰でも状況によって、どちらの立場にもなり得るのだと仏像に言われているような気がして、やるせなかった。
案内役の青年僧の頭が剃りたてで青い。その横をジーンズ姿の若者がずっと付いてきていた。聞くと、青年僧は1週間の出家修行中の大学生、隣にいるのは大学の友人で、イスラム教徒だという。「宗教の違い?問題ない、全然」と2人は笑いあった。重い旅の最後に私に出会ってくれてありがとう、と思いながらシャッターを切った。
夕日が遠浅の水平線に沈んでいった。関西空港での出会いが、ずいぶん遠くまで私を連れてきたな─。ロヒンギャの友人として迎えられ、叔母さんに会って自分のことのように痛みを感じた。地元の人と夕食を囲み、ピーポルの木を見て、ヤシンさんが来られない場所にいる重みを知った。これからも見続け、考えていくことがまた増えた。
「ヤシンさんの村」がようやく見えてきたんだな。私は気が付いた。
ほりうち・きょうこ 1972年生まれ。学生時代に勉強した児童労働の現場を見たかったこともあり、ミャンマーやパキスタンなどを旅行。毎度のように窮地に陥り、思いがけない親切に助けられた。
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