――吉田さんは、今回のコロナ禍は「これまでの国の好ましからざる特徴を、さらに強める作用がある」と説いていますね。どういう意味ですか?
新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた段階で、各国・地域の対応に明暗が出ました。たとえば、台湾や韓国のように封じ込めが初期段階でうまくいったところもあれば、アメリカやフランスのように拡大を防げなかったケースもありました。ただ、いずれの場合でも、感染拡大の初期は各国の政権への支持率はほとんどの場合、上昇しました。これは政治学で言うところの「旗本結集効果」、つまり社会が危機に直面したリーダーを最初は支える形で政権支持が高まるためです。しかし、その後、状況をコントロールできない状態が続くと、支持率は低下に転じます。アメリカやフランスはまさにこの事例に当てはまります。
歴史的にみても、国家が危機に陥るのは、戦争など外部的な要因でない限り、政治体制やその社会制度などに内在していた元からの矛盾を拡大させ、加速させるからです。20世紀初頭のスペイン風邪についてのドキュメントである『史上最悪のインフルエンザ』(アルフレッド・クロスビー著、西村秀一訳、みすず書房)などを読むと、第1次世界大戦中にアメリカで軍事的要素が肥大化し、情報統制や現場の混乱があったことで広がっていったことがわかります。パンデミックは社会の脆弱(ぜいじゃく)な部分に巣くい、拡散していきます。今の新型コロナの危機によって、各国の民主主義が抱えていた矛盾や問題点というものが、目に見える形で如実に出てきているといえるでしょう。
とくに感染者数が突出して多い米国は、コロナ禍によって社会の分断がいっそう可視化されるようになりました。「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」運動は、オバマ政権時代から存在しましたが、もともと構造的差別や劣悪な労働環境に置かれていた黒人層がコロナ禍でさらなる困窮に追いやられたことで、史上最大のムーブメントへと発展することになりました。
さらに、1990年代から進んできたアメリカ社会の二極化も、パンデミックによってさらに強化されています。共和党支持者か民主党支持者かでは地球温暖化、自由貿易、移民問題、同性愛等々について異なる見解を持つようになっていますが、価値観の違いはコロナ禍でマスクを着けるか着けないか、ワクチン接種に積極的かどうか、という点にまで及んでいます。日本では2000年代の行政の合理化・効率化や公共部門の人員削減が感染抑止や生活保障を困難なものにしています。
つまり、パンデミックが国や社会を危機にさらしているというよりも、国や社会が抱えている問題を顕在化させるのが、パンデミックの持つ作用のひとつなのです。
――新型コロナは過去の感染症のパンデミックと異なる特徴があるとも、吉田さんは説いていますね。
14世紀のペストや、20世紀初頭のスペイン風邪は、社会に労働力不足をもたらしたことで、その後の賃金上昇や女性を含むマイノリティーの社会進出を実現させる要因のひとつなりました。米スタンフォード大教授で、歴史家のウォルター・シャイデル氏は、著作『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社)で、戦争と革命、国家破綻(はたん)に加えて疫病こそが社会の平準化をもたらしたと指摘します。
ただ、今回の新型コロナは必ずしも同じ影響を持たない可能性があります。例えば、コロナ禍でリモートワークが当たり前になりつつありますが、そうなると所得の多寡のみならず、知識や学歴、人的ネットワークなどの「社会関係資本」を持っているかどうかによって、リモートやワーケーションが可能かどうかを決めることになります。そうしたものを「持つ者」は、「持たざる者」よりも生存可能性や健康維持の側面において有利になります。反対に「エッセンシャルワーカー」と呼ばれる人たちは、家から出て働かないと生活がままならない。リモートが当たり前になった大学教育でも、もともとの自主的に学習できる大学生はその恩恵を最大限に享受していますが、「巻き込んで」学習して初めて伸びるような学生は置いていかれがちで、学力格差が広がっています。パンデミックが長引いて非接触の社会、流動性のない社会が今後もずっと続いたら、「持つ者」と「持たない者」の不平等はさらに固定化されることになるでしょう。
それに加えて今、世界各国でコロナ禍を乗り切るために1600兆円にも及ぶ大々的な財政支出をしています。結果として政府の負債が膨らみGDP比で350%もの水準に達しています。利上げと金融緩和解除のタイミングもあわさって、緊縮財政にかじを切ることになれば、社会に大きな混乱と不安が広がることになるでしょう。2008年のリーマン・ショックに際しての財政支出とその後の緊縮が自国重視のトランプ政権や英国のEU離脱(ブレグジット)を招いた一因だとすれば、それと同じか、それ以上のインパクトが数年後にもたらされる可能性があります。そうすると、ますます社会的な不平等が強化されることになります。
コロナ禍を乗り越えたとしても、その後にさらなる試練が待ち受けている。ただでさえ国際協調が揺らいでいますから、そこに危機が来るというのは、かなり危うい事態を迎えることになるかもしれません。その時に民主主義は持ちこたえることができるかどうか、厳しい局面が続くのではないでしょうか。
――一方で、日本に目を向けるとどうでしょう。若者たちの声に耳を傾けると、政治を「自分ごと」に感じられないという声が高まっているようです。
日本の若者は必ずしも政治に関心が低いわけではありません。フランスのシンクタンク「Fondapol」が2011年に行った国際調査では、日本の若者(16~29歳)の80%が投票を義務と捉えており、25カ国の平均81%と変わりません。こうした政治意識の高さは内閣府の青少年調査でも明らかになっています。ただし、デモや党活動など、投票以外の政治参加になると、他国より意欲が低いというところに特徴があります。
――何が原因なのでしょうか?
戦後、政治への直接参加のうねりを最初に作ったのは、ヨーロッパでは60年代の学生・労働運動、アメリカでは公民権・反戦運動でした。フェミニズムや環境保護など、今でいう「リベラル」な意識もこの時代を源泉にしています。その意識は子や孫の世代に受け継がれ、現在になっても各国でのムーブメントの担い手となりました。投票率や党員数は先進国では漸減していますが、代わりにデモなどの非伝統的な政治参加は比例して増加傾向にあります。しかし日本では、新卒一括採用や年功序列などを特徴とするメンバーシップ型雇用の特性も相まって、団塊の世代の政治意識は継続せず、過激化した学生運動の反省から、教育現場でも政治的な話題に触れないことが原則とされました。
その結果、教育学者の苅谷剛彦氏の言葉を借りれば、いまの日本の若年層に顕著になったのが「正解主義」です。最近、「勉強不足だから投票できない」と、ある高校生が言っていたのを聞いて驚きました。政治に「正解」があると、試験勉強の延長で捉えていることの証左でしょう。
民主主義とは何なのか、という定義にもよりますが、政治体制としての民主主義がこれまで曲がりなりにも持続してきたのは、やり直しのきく強靱(きょうじん)性の高い統治制度であるということと無関係ではありません。共同体に関わる問題について構成員みなで決めて、みなでやってみる。ダメだったらもう一回、別の方法を試す。そのためにも少数意見を大事にする、見直すために定期的に選挙をする。そんな民主主義の精神は、「正解主義」と折り合いが悪い。
今回の新型コロナウイルスへの対応についても、日本世論は「正解」を求めたように思います。未知のウイルスに対する措置は、ベスト・プラクティスと呼べるものがあるわけではありません。スウェーデンはロックダウン(都市封鎖)を行わず、できるだけ平時に近い生活を維持するという独自のコロナ対策をとったために、北欧の中では当初死者数を多く出しましたが、大きな政権批判が巻き起こることはありませんでした。それは、他の民主主義国と比較しても、国民の政治参加の割合が高く、政府に対する信頼が高いためです。スウェーデン政府は政策に修正を施す場合、説明責任を果たし、透明性のある形で、国民に説明します。自分たちが選んだ政府という意識が市民の中に強いため、政策が失敗したり、変更されたりしても、それは我々が選択したものだという意識があれば、政権と政策は支持されます。
単純化のそしりを恐れずにいえば、日本の場合、感染症対策のみならず、政策一般に対しても「正解があるはずだ」という期待値が有権者の側に強くあります。こうした期待値は、行政に瑕疵(かし)はあってはならないという無謬(むびゅう)性を前提とした官僚政治にもつながっているかもしれません。
――なるほど、日本独特の「正解主義」ですか……。効率性を求めてきた現代社会ならではな感じがしますね。なんとか克服する方法はないものでしょうか?
政治家や行政だけに任せるのではなく、市民の手でともに「正解」を生み出そうとする試みも、世界各地で始まっています。たとえば、最近ヨーロッパでは、「くじ引き」が注目されています。
――くじ引き? 名前や数字をランダムに選ぶ、あのくじ引きのことですか?
そうです。英国やフランスでは抽選制あるいは無作為抽出といった、いわゆる「くじ引き」で選ばれた様々な立場の市民がコロナ禍にもかかわらず集まり、環境対策や地球温暖化対策、脱炭素社会をどう作りあげていくのかについて、専門家と一緒に熟議の場を形成しました。今夏、フランスでは気候変動について149の提案が出され、その大半を受け入れるとマクロン大統領が公言しました。
世界が直面している課題には、選挙でしか決められないものもありますが、選挙だけで決められないものもたくさんあります。環境問題や教育問題のように、選挙のサイクルだけで解決できない課題はますます増える一方です。そこで、社会の合意をいかにつくっていくのか――いままでは、基本的に議会エリートが決めてきました。しかも、そのエリートと有権者の関係も、固定的で安定的なものでした。
しかし、パイの分配からリスクの分配の時代へと移り変わって、エリートの正当性は大きく揺らぎ、これがマイノリティーを排除することでリスク負担を回避しようとするポピュリズム台頭につながっています。新しい争点や課題が増えるなかで、ポピュリズム的手法は持続可能ではありません。それに対しては、選挙でエリートを選ぶという代議制を通じた方法だけでなく、ボトムアップの形で人々が政治に参加する経路を増やしていくことが求められます。民主的な決定様式は、いろいろな手段や方法があっていい。それが厚い切れ目のない民主主義を作っていくことにつながります。
現代社会は生活リスクの個人負担が進んでいるため、ややもすると社会との接点を失いがちです。それでも社会全体の制度設計をどうするかという議論や、その変革のための手段なくしては、リスクの個人負担は減らないというジレンマがあります。日本では公共政策についてはパブリックコメントやヒアリングという限定的な意見反映の仕方しか定着していません。代わりに、みなが当事者だと思える場所をもっと増やしていくことが重要ではないでしょうか。
――そういう意味では、ビッグデータや人工知能(AI)を駆使した新しい民主主義の形態が議論されています。それについて、吉田さんはどう見ていますか。
ビッグデータやAIを活用した新しい民主主義は、技術的には十分に可能な段階にあるでしょう。でも、それを誰が設計し、運用、監視するのか。権力と責任の所在はどこなのか。それらが可視化され、集合的な意思決定の手段として信頼されなければ、実践は難しいままではないでしょうか。
なぜなら民主主義とは、ある種の「フィクション」でもあるからです。みなで決めるという、人類が発明した「神話」であり、それを多くの人が信じられなければ、機能しない。そして「神話」には「儀式」が必要になります。スイスのある小さな村で、投票率を上げようと郵便投票などを導入したら、逆に下がってしまったという事例があります。それは、投票所でみなの前で投票することが「フィクション」を本当にするものだったからです。非効率的に見えても、こうした「儀式」がセットになっていないと、民主主義の信頼回復は難しいでしょう。
民主主義はオワコン(終わったコンテンツ)なのか。その答えは、主権者である我々にしか出せません。みんなが止めようと決めれば終わるし、生存させようと考え続けるならば、オワコンにならない。民主主義の特徴は、自己決定と生きる社会が不可避的にリンクしていることにあります。自分の人生や次世代のため、私はこう生きたいという思いがあっても、他人や社会を経由してしか決められない。その難しさと面白さは、他のどんな政治体制よりも抜きんでているはずだと、私は思います。
よしだ・とおる 1975年生まれ。北海道大学法学研究科教授、シノドス国際社会動向研究所理事。専攻はヨーロッパ政治史、比較政治、著書に『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』、近著に『アフター・リベラル 憎悪と敵意の政治』など。
■少数派も納得感得られる政治に 取材記者の眼
小学5年の頃だったと思う。学校の球技大会の種目を決めるため、私を含め学級委員や児童会役員が集められた。ラケットで打つ野球に意見が傾いた。野球少年だった私も賛成した。そこで、担当の先生がこう言った。「ポジションに限りがあるし、時間内に全員が打席に立てないね」
多数決をとると、2番人気だったドッジボールが圧勝した。私も寝返った。「忖度(そんたく)」したのだ。クラスの野球派はみな悔しがった。でも、みんなで決めたんだから仕方ない。そう言うしかなかった。
みんなで決めるってむずかしい。社会に出て、ますます思い知らされた。政治、経済、外交、環境……世の中は一筋縄でいかない問題であふれている。全員が納得することなんて滅多にない。
2014年、私はベルリン支局に赴任した。未曽有の移民・難民が欧州に流れ込み、混乱に乗じてテロが続発。「政治に置き去りにされている」。社会不安が増す中、民主主義に幻滅した人々の心にポピュリストの過激な主張が入り込んだ。
米調査会社ピュー・リサーチ・センターが今年2月に発表した調査によれば、34カ国で平均52%の人々が、うまく機能しない自国の民主主義に「不満」だと答えた。日本も53%に上った。
2600年前、古代ギリシャで奴隷制に支えられた「市民」が、アゴラ(公共の広場)で議論を戦わせたのが、民主主義の原型とされる。だが当時に比べ、人口は桁違いに増え、抱える問題も複雑化している。昔の村の「寄り合い」のように三日三晩、話し合っている暇もない。効率を求め、「説明」「配慮」「妥協」を端折り、多数決に委ねる。
「日本の選挙制度は、とりわけ考える時間が短すぎる」。北海道大学の吉田徹教授はそう指摘する。米国の大統領選挙はほぼ1年をかけて候補者を絞る。その間、国民もメディアも選挙に染まる。一方、日本では知事選や参院選は17日、衆院選は12日しかない。事実上、日本のトップを決める自民党総裁選は、派閥力学で大勢が決する。
ここ数年、民主主義に疑念を抱く日本の若者たちとひざを交えるうち、私も思い始めていた。民主主義って、やっぱりオワコンなんじゃないのか、と。
「いやいや、従来の仕組みでもまだ試していないことがたくさんある」。高千穂大学の五野井郁夫教授に諭され、はっとした。デモ、集会、請願、リコール……どれも憲法と民主主義で保障された権利なのに、多くの人はいまだに試したことがない。
小学5年のあのとき、どうして、野球派の子たちに先生の言葉を丁寧に伝えなかったのか。私はもういちど考えた。後ろめたかったのだ。先生に言いくるめられ、自分を曲げたのが格好悪かった。それを多数決で決まったことだから、少数派の僕たちは我慢するほかないと、民主主義のせいにした。
でも、説明を尽くせば、彼らも分かってくれたんじゃないか。今はそう思う。みんなで何かを決めるとき、大切なのは「納得感」だ。自分たちが顧みられないとき、民主主義への不満が高まる。
選挙だって、考え方一つで変わるかもしれない。多数派はおごってはいけない。いつか失敗したと気づく日が来たときのために、少数派の意見にも耳を傾けるべきだ。反対に、少数派は自分たちの意見がくみ取られないと嘆いてばかりではダメだ。ましてや、それを民主主義のせいにしてはいけない。
そんなこんなをとことん試してみて、それでもやはり「機能しない」「時代遅れだ」、みんながそう思えたとき初めて、今の古臭い民主主義を捨て去る日が来るんじゃないか。
5歳になる娘が最近、周囲に気を使って言いにくいことは声を潜めるようになった。成長がうれしい半面、ちょっぴりふびんにも思う。もう少し大きくなったら、パパの「小5の失敗談」を話して聞かせよう。ささやかだけど、民主主義を未来につなぐ一歩になる。自戒を込めて、そう思った。