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イエール大・成田悠輔助教授「選挙も政治家も、本当に必要ですか」

World Now 更新日: 公開日:
米イエール大助教授の成田悠輔氏=本人提供

――私たちが慣れ親しんでいる民主主義は、かなり過去の社会や技術を前提としていることが問題だと、成田さんは説いていますね。

いくら普遍的な理念を目指したと言っても、私たちが民主主義とよんでいるものの運用は、ざっくり数百年前の人々が考え出したものです。数百年前の社会と技術の環境を前提として作られているのです。

当時はほとんどの人が生まれた土地で育ち、働いて死にました。とくに重要なのが、コミュニケーションがどういうものだったかです。会話はほとんど家族や仲間の間で、情報の伝達はうわさが中心でした。メディアと言えるものは立て看板、貴重品としての新聞や雑誌などしかなかった。そういう、すごく鈍くて、人も情報も流れない世界を前提に民主主義を運営すれば、みんなで決まった日に決まった場所に集まって意見を提出してもらい、それを集計して発表する「お祭り」をやるのも理にかなっていたでしょう。つまり、それが選挙です。お祭りとしての選挙は国や共同体としての一体感を醸しだすのに一役買ったはずです。

しかし、今から150~100年ほど前、ラジオやテレビなどのマスメディアが現れました。そして今世紀に入ってソーシャルメディア(SNS)が浸透しました。それなのに、いまだに選挙という伝統行事で意思決定をしている。この制度と時代の齟齬(そご)が多くの問題を生んでいます。

そもそも選挙は、みんなの体と心が同期するお祭りなので、流れと空気に任せた同調行動にうってつけです。数百年前であれば同調は各地域内に閉じたものでいてくれましたが、メディアやメディアハッカーがいる今では国や地球の規模に同調行動が増幅するようになった。さらに、生活や価値が多様化するにつれ政策論点も多様化しているのに、いまだに投票の対象は政治家・政党でしかなく、個々の政策論点に細かな声を発せられない。

こうした今の環境に対応できない民主主義の行き詰まりが、世界の政治を「偽善的リベラリズム」と「露悪的ポピュリズム」のジェットコースターで気絶状態にしているんだと思います。

米大統領選の期日前投票のため、列を作る有権者たち=2020年9月18日、バージニア州フェアファックス、ランハム裕子撮影

いったい、何が問題なのか。

結局、人間が意識的に意見を形成しようとすると、周りの声や一時の情動、情報などに簡単に流されてしまうという点だと思います。会議室で人に意見を求めると、当たり障りのないどこかで聞いたような話をするか、隣の人に同調するかくらいしか反応が見られないのと同じです。で、飲み屋にいってひとしきりグッタリしたあたりからみんな素直な意見らしきものを話し出す。問題なのは、そんな不安定で、近視眼的で、シャイで、周りに流された選択をしてしまう人間の弱さがマス・ソーシャルメディアによって増幅され、そのまま選挙に反映されてしまっていることなのです。

じゃあ、それを乗り越えるにはどうしたらいいのか。大きく分けて、三つの方策があります。

一つ目が、今の民主主義の制度をある程度前提として、調整・改良していくというタイプのものです。たとえば、政治家や政党ごとに投票するのではなく、子育てや年金、働き方といった個別の論点に対して興味や利害に応じて投票してもらう。いわゆる「液体民主主義(Liquid Democracy)」「分人民主主義(Divicracy Democracy)」や、「二次投票(Quadratic Voting)」といった提案が、このタイプに当てはまるでしょう。いずれも、民主主義の基本的な発想は残したままで、解像度や柔軟性を高めようという試みです。シルバー民主主義対策としてよく議論される、有権者の平均余命に応じて一票の重みづけを変えたり、世代別の投票区を作ったりするのも調整・改良タイプと言えます。

ただ、私自身は、こうした選挙制度の調整・改良は本質的な解決にはならないと考えています。人間集団のお祭り的な意思決定が誘導や空気に流されやすすぎるという根本問題には対処できないからです。その問題に対処するために、「選挙祭り」をやらなくちゃいけないという固定観念をいったんとっぱらいましょう。選挙の代わりに、我々の意識しないレベルの欲求や目的を何らかの形で集約したらどうでしょう。これが二つ目の方策、いわば、「無意識民主主義」「センサー民主主義」「データ民主主義」と呼ばれる考え方です。

――無意識……ですか? でも、どんな政策がいいか考えるのも、選挙で誰かを選ぶのも、私たちが意識するものじゃないんですか?

でも、ウェブで買い物をしたりニュースを読んだり動画を眺めたりするとき、データが導き出すおすすめに頼りきっている人も多いですよね。同じことを政治や政策選びにしていけないという理由はないんじゃないでしょうか。個人が何を買うか選ぶのを助ける代わりに、社会全体としてどういう政治・政策を選ぶかを助けるのに無意識とデータを使うという議論が今後高まるはずです。

わかりやすい例は、選挙データを用いて人々が政策に何を求めているのかを見つけることです。たとえばアメリカの民間企業L2やCatalistは、得票数のような粗い公開情報を超え、個々の有権者がどんな人で、いつどの選挙に行って誰に投票したかという、数億人規模の選挙パネルデータを構築したことで有名です。このようなデータを使えば、どんな背景を持つ有権者がどんな政党・政治家・政策を求めているかを測ることができます。

データの収集法も選挙やSNSに限りません。たとえば、街頭に設置された監視カメラから、人々の振るまいや発言がデータとして採取される時代になっています。中国の国営監視カメラ網がいい例です。24時間、365日、無数の監視カメラ群が表情と声色を捉え、あらゆる政策論点について、人々が街中でどんな声で何を語りどんな意思を表明しているか聞き耳をたてています。そこから我々民衆の中の隠れた声を見つけ出す。そんな民主主義の姿がそう遠くない将来にくるのではないでしょうか。

ナイロビの街のあちこちに取り付けられたファーウェイ製の監視カメラ。キノコの帽子の部分に「HUAWEI」のロゴが見える。カメラ部分はぐるりと回転し、ズームもでき、遠隔操作で映像を見ることができるという=2020年2月2日

――うーん、たしかに、テクノロジーの発達はめざましいものがあります。でも、なんだか、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する、「ビッグブラザー」が国民一人ひとりを監視する国みたいで、背筋が寒くなりますねえ。

これはSFというほど大した話ではなく、ほぼ確実に来る近未来です。もっと長期的な視点で歴史を振り返ってみて下さい。たとえば約800年前、源頼朝たちが活躍した時代の人々にしてみたら、現在のような一国単位の選挙という発想だって、SFに聞こえたに違いありません。それと同じことです。情報・技術環境が変化していけば、今すぐは難しくても、今後数十年から百年単位で可能になる、そう考えています。

こうなると「人々の声を集約するには選挙というイベントが必要だ」という固定観念自体も絶滅すると思います。

どんなセンサーデータを収集してどう集計するのか、データや計算の権限は誰が握るのか。未解決問題は山盛りです。でも、昔から人々はどんな選挙制度がいいのかを延々と議論してきたわけですから、その21世紀版と考えればいいのではないでしょうか。

――なるほど。もし、成田さんの理論が現実になったら、選挙も政治家という「代表」を選ぶのではなく、自分が信じる「政策」に票を投じるということですか?

そうなるでしょうね。そして個々の論点、政策ごとに、それに重大な影響を受ける人々の声を中心に集める仕組みが必要になります。とくに少数派の声をどのようにしてくみ取るかが重要です。

そもそも、今の民主主義の欠点の一つは、あらゆる論点に「みんなが参加する」という「無理ゲー」(難易度が高すぎて「クリアするのが無理なゲーム」を指す用語)な建前が適用されている点だと思います。たとえば、特定のマイノリティーグループに関する制度設計が必要なのに、ほとんど影響を受けない多数派の人々の乱数のような意見が場を支配してしまう。LGBT法制がその例です。これを解決するために、液体民主主義のようにその問題に精通する人に自分の票を預けるとか、あるいは、自分にとって重要な論点だけ投票権をバウチャーを使って購入するとか、そんな方法もあり得ます。さらに、先ほど説明したデータ民主主義なら、当事者たるマイノリティーの声をアルゴリズムで自動的に吸い上げることが可能なはずです。

――そうなると、もう政治家という存在も必要なくなっちゃうかもしれませんね。

そうですね、いらなくなると思います。ただ、キャラクターやマスコットとしての政治家の価値はしばらく失われないのではないでしょうか。私たちは何かの意思決定や制度変更をするときに、誰がそれをしたのかという責任主体を求めてしまいます。自動運転の問題がわかりやすい例です。確率的に手動運転より安全だと頭では分かっていても、そこに誰か責任が問える人がいない形で重大な物事が進行していくことに、まだ耐えられない。私たち古い人類には、そういうくせがあります。だから、データ民主主義が可能になったとしても、最初のうちは、いざとなればサンドバッグとしてフルボッコ(「フルパワーでボッコボコ」の略語)にできるマスコットとして政治家がしばらく必要なんじゃないでしょうか。ただ、2世代先、3世代先になって、データ民主主義に人々が慣れてしまえば、それさえいらないかもです。

トランプ大統領の選挙集会終了後、笑顔で帰る支持者たち=2020年9月、米ミシガン州フリーランド、ランハム裕子撮影

――成田さんが挙げた、民主主義の「弱点」を克服する、最後の三つ目の方策とは何ですか?

三つ目が最も難しく、厳しい選択肢です。端的に言えば、民主主義そのものを諦めてしまう、そういう考え方です。これは言うなれば、「反民主主義」、あるいは「迂回(うかい)民主主義」と言えます。

――迂回(うかい)? どういうことですか?

重大な決定や変革をできるだけ民主的な手続きを経ず、一部の「強者」が行えるようにしようという野心です。アメリカ西海岸でトランプ大統領を支持する起業家・投資家集団の中に、こうした発想をしている人が少なからずいます。「民主主義と自由は両立できない(I no longer believe that freedom and democracy are compatible)」と明言するピーター・ティール(米国の投資家、PayPal創業者)がその典型です。私なりに彼の言葉を意訳すれば、「民主主義という仕組みに邪魔されるのはまっぴらだ」ということだと思います。

彼らの基本的な発想はこうです。万人に平等に権利が与えられる民主主義という制度は、特異な才能や経験を持った人間がフロンティアを切り開き、価値や差異を生成するのを阻害する制度である。そんな民主主義のプロセスはできるだけ「迂回(うかい)」しよう。だから、カリフォルニア州を独立させるとか、海上や地底、宇宙空間に新しい独立国家を作るとか、そういうことを大真面目に思考します。

――そんな彼らが、なぜ、「自国第一主義」を掲げるトランプ氏を支持するのですか? 正反対のように見えますが。

民主主義を内側から破壊する「人間爆弾」としてのトランプ氏に期待するという感覚でしょうね。彼らにしてみれば、今ある民主主義は無知で何も創造しない過半数の人々のルサンチマンを発散する制度に成り下がっている。そんな民主主義を通じて誕生し、民主主義の醜さを体現するトランプ氏が、民主主義そのものの自壊の象徴になる。そういう発想に近いんだと思います。

――たしかに、民主主義は議論ばかりでなかなか決まらないという欠点はありますが、その冗長性こそが「長所」だと言う人もいます。長く議論することで、失敗を繰り返さない、少数派の意見もくみ取れる、と。

良い意味での「二枚舌」を作り出すことが重要ではないかと考えています。冗長性や遅さが価値になる局面や課題がある一方で、それが害をもたらす場面もあります。今の問題は、民主主義があまりに普遍的になりすぎて、その冗長性や意思決定の遅さが社会の多くの面を覆い過ぎていることではないでしょうか。民主主義はもともと、政治的な意思決定をする仕組みとして作られたはずなのに、元々定義された適用領域を超えて、社会の様々なところまで広がってしまっています。市場経済でのビジネス活動や、ソーシャルメディア上での日常生活の振る舞いなどもしかり。全ての分野に、謎の平等主義がポリティカルコレクトネスとして浸透し、それが人々の意思決定、意思表明を鈍らせてしまっています。冗長性が価値を持つ領域と、そうでない領域をもっとはっきり切り分ける必要がある、そう思います。

ともあれ、政治のような公の問題には、すべてを解決できるバラ色の制度というものは存在しません。ひどい制度とひどい制度を比べて、どっちが相対的にましかを競うような側面があります。

「民主主義は最悪の政治形態である。これまでに試されたすべての形態を別にすれば」と、英宰相チャーチルは言いましたが、その命題を保ちつづけられるかが今、問われています。私個人としては、無意識センサーデータ民主主義という来たるべき近未来をできるだけ早送りで追求しながら、民主主義を捨て去ろうと考える勢力と競争するのが正しい戦略ではないかと考えています。そのアップデートされた民主主義さえも、やはり衆愚政治になってしまうのだとしたら、初めて最悪の民主主義を捨て去ってしまうという選択肢が浮かび上がってくる。そんな風に考えています。

なりた・ゆうすけ 専門は、データとアルゴリズムを使ったビジネスと公共政策(特に教育)のデザイン。米イエール大学助教授、半熟仮想株式会社代表、一橋大学特任准教授、独立行政法人経済産業研究所客員研究員、スタンフォード大学客員助教授を兼歴任。サイバーエージェント、ZOZOなど複数の組織との共同研究・事業に携わる。