実はあいまいな定義 気に食わなければみんなポピュリスト
――「ポピュリズム」という言葉には、何か怪しさ、不透明さが伴います。何より、定義がはっきりしません。
「学者の間でも定義の一致をみない部分があります。ただ、最近では、ポピュリズムを政治的、経済的、文化的なエリートに対する抗議だとする理解がだいぶ広まってきました。ただ、こうした定義が一般的になったのも最近のことです。例えば、欧州のポピュリズムは、かつてであれば『極右』と呼ばれていた政治勢力でした。1998年から99年にかけてオーストリア政権入りした自由党のイェルク・ハイダー氏は、当時『ポピュリスト』ではなく、『極右政治家』と呼ばれていました。『ポピュリズム』という言葉が一般的になったのは、2000年代後半から。これには2つの出来事が作用しているといえます。ひとつは、2001年に米9・11テロが起き、文明の衝突がささやかれ、「ヨーロッパの近代文明対野蛮なイスラム」といった構図が出来上がり、これに難民・移民危機が加わったこと。もうひとつは、2008年以降のリーマン・ショックとユーロ危機、続く各国政府の緊縮政策で、これによって国内社会の格差と貧困が深刻なものとなったこと。いわば中期的な政治的、経済的な既存の政治エリートが十分に対処できなかったことに対する不信から出てきたのが21世紀に入ってからのポピュリズムです。これらの多くは政治社会的立場には保守的で、経済的には保護主義的です。既成政党が政治的、経済的な危機に対応できない中で、その隙間を埋めたのがポピュリスト勢力といえるでしょう」
――実際、一部の「ポピュリズム」は近年、自らを「イスラムの脅威に対してヨーロッパの価値観を守る役目を担う」と位置づけているようですね。そう見ると、「極右」より随分ましな存在のように思えてきます。
「議論の大前提として、ポピュリズムという言葉は、分析概念でもなければ、記述用語でもないということに注意すべきです。一般的にポピュリズムという言葉は、相手を攻撃し、侮蔑するための言葉に過ぎないというところに、理解の難しさがあります」
「実際、ヨーロッパや日本で『自分はポピュリスト』と名乗る政治家はまずいない。つまり、ポピュリズムは、常に誰かを名指しする時に使われ、気に食わないものを『ポピュリスト』と呼ぶ。そう考えると、ポピュリズムに何か本質があるわけではない。これがまた、ポピュリズム理解を難しくしているゆえんです」
――確かに、ポピュリズムと簡単に言う割には、それが何だかはわかりません。
「端的にいえば、何をポピュリズムと言うかは、時代に応じて変化してきました。まだ『ポピュリズム』という言葉がなかった時代ですが、1851年に国民投票で皇帝となったナポレオン3世などは、現在でいうところの『ポピュリスト』の定義に当てはまることが、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読むとよくわかります。1960年代は、中国の最高指導者毛沢東をはじめ、途上国の指導者などが『ポピュリスト』と呼ばれていましたし、アメリカのジミー・カーター氏が1977年に大統領になった時も、彼は『ポピュリスト』と呼ばれていました。つまり、既存の政治エリートや文化エリートからみて何かしら違和感のある存在、従来の枠組みでは理解し得ないものがポピュリズムとされてきた。これこそがポピュリズムの歴史そのものといっても過言ではありません」
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なぜ小泉純一郎氏はポピュリストと呼ばれたのか
――ポピュリズムは、果たしてイデオロギーなのでしょうか。研究者によって立場が違うようですが。
「イデオロギーとは確固たる世界観や体系であり、それらが言語化されたものと定義するなら、ポピュリズムは、イデオロギーではありません。何か別のイデオロギーと結びついたり、それを利用したりすることはあっても、ポピュリズム自体に体系だった理念があるわけではない。唯一核心的なものがあるとしたら、「政治的な代表制を奪われた人々の声を代弁する姿勢」のようなものかもしれません。ただ、これをマルクスがいったようなイデオロギーとして見なすことは難しい。『ポピュリズムと呼ばれてきたもの』の歴史を見ても、必ず既存のイデオロギーに憑依したり、寄生して出現したり、収束していったりします。だから、ポピュリズムは右翼のものでも、左翼のものでもあり得る。これをイデオロギーと解するのは難しいでしょう」
「ただ、ポピュリズムをつくりあげている文脈というのは時代ごとに存在します。日本では小泉純一郎氏がポピュリストと呼ばれましたが、それはバブル崩壊後の「失われた10年」の喪失感があったから。2000年代以降では西欧の価値観を守ろうとしたり、福祉国家を擁護する、あるいは白人労働者層の代弁者となったりするなど、社会的、経済的グローバル化に対するバックラッシュという文脈があります。ポピュリズムが何と結びつくかは、その時々の時代状況によって変わります」
「西ヨーロッパやアメリカの場合は、移民や多文化主義といった社会的グローバリズムに抵抗する形でポピュリズムが出てきて、ナショナル・アイデンティティーと結びつきました。反対に、南ヨーロッパでは若年層の失業問題や不平等が課題となったことで経済グローバリズムに対する対抗意識が高まり、これが左派ポピュリズムとして表れました。つまり時代や国の文脈に応じて、無定形に生まれるのがポピュリズムの特徴といえます。それは人々の政治的な不満や怒りが時代や国によって多様であることの証左でもあります」
ポピュリズムとファシズム、つながるとは限らない
――ドイツ出身で米プリンストン大学教授ヤン=ヴェルナー・ミュラー氏の著書「ポピュリズムとは何か」が昨年翻訳されて話題になりました。ポピュリズムの危険性を厳しく指摘し警告した本です。彼は朝日地球会議にも登壇する予定ですが、ポピュリズムをある種のイデオロギーとしてとらえているように思えます。
「ミュラー氏の『ポピュリズムとは何か』はそうした捉え方が強いですね。ミュラー氏は1920-30年代のヨーロッパ思想が専門ですから、彼のポピュリズム理解の前提にはファシズムがあります。だから、ポピュリズムを分析しているようでいて、実はファシズムを分析しているようにも読めます。だからこそ、ポピュリズムを危険視する人々にとっては読みやすく、支持されたという部分もあるかもしれません」
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「ミュラー氏の指摘のように、ポピュリズムが権威主義的で窮屈な社会を生む可能性は、もちろんあります。ただ、南米の事例をみればわかるように、ポピュリズムは場合によって、民主化を促し、人々を解放するきっかけを提供する時もある。ポピュリズムがどのような形で機能するかは、文脈次第で違ってくるという点にも注意を向けるべきです」
――ポピュリズムをファシズムと関連づける考え方は他にもあるようです。アルゼンチン出身の歴史学者フェデリコ・フィンケルシュタイン氏は「ファシズムから暴力を差し引いたものがポピュリズムだ」などと言っています。
「ポピュリズムとファシズムで大きく違うのは、ファシズムは戦争で敗北するまで、資本主義とコミュニズムに挑戦する先端的なイデオロギーでもあったことです。これは歴史家シヴェルブシュ氏の『三つの新体制』、最近ではメディア史家の佐藤卓巳氏の『ファシスト的公共性』などの研究が指摘しているところです。その意味で、ファシズムには政治体制や運動以外にもイデオロギー的側面がありました。しかもファシストは、イタリアの「ファッシ党」のように、自らがファシストであることと公言していました。ポピュリズムはファシズムに似ている部分もあります。社会的、制度的な多元主義を嫌ったり、人民の一体性を掲げたり、既成政治の否定だったり。ただ、これはコミュニズムにも共通している面もある。既知のものと似ているところだけを拡大して納得してしまうと、ポピュリズムの本質を見誤ることになると思います」
「もし両者が同じなら、ポピュリストを『ファシスト』と呼べば済むでしょう。でも、そうは呼ばせない「何か」がある。その「何か」を考えることこそがポピュリズム理解の鍵だと思います」
「ポピュリストか否か」は本質的な問いではない
――イデオロギーか否かの論議を続けますと、共産主義は間違いなくイデオロギーですか。
「政治を教義的に捉えるという意味でコミュニズムは間違いなくイデオロギーです。そのイデオロギーを支える確固とした歴史観もある。これから実現されなければいけない社会があるという意味では、未来志向のイデオロギーです」
「反対に多くのポピュリズムは、過去より悪くなっているとされる現状に対する異議申し立てであることが特徴です。そうした意味では『過去志向』の政治です」
「異議申し立てを本質にしているということは、反対にポピュリズムが実権を握ってしまうと失速したり、『正常運転』に戻ったりすることもあります。トランプ大統領も派手な政策を打ち出しますが、それで社会がどこまで変化するのか、見極める必要があります」
「フランスの政治学者タギエフ氏はポピュリズムを『否定の政治』と呼びます。本質的には現状を支配しているエリートに対する異議申し立ての政治です。言い換えると、ポピュリズムは代表制民主主義やリベラル・デモクラシーの後をついてまわる影のようなものです。代表する者(政治家)と代表される者(有権者)との間には、いつもズレが生じる。その影が濃くなる瞬間、ズレが大きくなる瞬間が歴史にはあって、それは代議制民主主義がうまく機能していないことの証しです。ポピュリズムがリベラル・デモクラシーを危機にさらしているというより、リベラル・デモクラシーが危機にあるからポピュリズムが結果的に強くなっているとした方が因果関係としては正しい。その危機にエリートの側が適切に対処しないと、ポピュリズムがファシズムに転化する場合もあるでしょう。ナチス政権の誕生もヒトラーの能力というより、ワイマール共和国の旧エリートたちの長い失敗の過程の結果だとするのが定説です」
――つまり、ミュラー氏のようにポピュリズムを権威主義的な体制と結びつけて考えるのでなく、ポピュリズムが果たす機能と権威主義が果たす機能とを分けて考えるべきだということですね。
「私たちはなぜポピュリズムと聞いてそれに否定的反応をするのか、ということを考える必要があります。その裏には、戦後になってはじめて政治的な正当性を獲得したリベラル・デモクラシーへの信頼があります。ポピュリズム政治への反感が最も強いのは、日本とドイツという、実際に権威主義体制を経験した国です」
「ただし、こうした政治的議論と、ポピュリズムが何であるのかという学術的議論とは一端は分けて考える必要があります。そうでないと、文脈や歴史に応じてポピュリズムがどういう機能を果たしてきたのかが説明できなくなってしまうからです。そして通時的にみた時、ポピュリズムと呼ばれてきた政治は、その時々のシステムに対する異議申し立てに過ぎなかったといえます」
――ポピュリスト政治家は、私たちにある種の警告を発してくれる存在である、というのはよく理解できます。ただ、ポピュリストと呼ばれる政治家の中には、警告を発するだけでなく、政権を握ってしまう場合もありますよね。たとえば、フランスでは2007年にニコラ・サルコジ氏が大統領に就任しましたが、彼をポピュリストと呼ぶ人もいました。
「その頃のポピュリストと今のポピュリストでイメージされるものも、かなり異なっていますよね。当時は日本の小泉純一郎首相やイタリアのベルルスコーニ首相もポピュリストと呼ばれていて、サルコジ大統領と同類と認識されていました。国末さんの『サルコジ――マーケティングで政治を変えた大統領』でもつまびらかにされていますが、改革志向で市場主義的な政治家こそが『ポピュリスト』と呼ばれていました。ただ、小泉氏も、ベルルスコーニ氏も、サルコジ氏も、それまでの政治家や政党に対する不信が彼らの活躍の場を与え、旧来の政治を批判したという点では共通しています。ポピュリズムのコンテンツは時代で違っても、そのスタイルは同じです」
「ただ、もしこの時代にミュラー氏の本が出版されていたら、それほど説得力を持たなかったでしょう。彼がポピュリズムとしているのは社会的に保守的で、経済的に保護主義的な2010年代のポピュリズムの話であって、サルコジ氏やベルルスコーニ氏ではない。時代をさかのぼってポピュリズムの普遍的な特徴は何かと考えるのと、時代ごとに違うポピュリズムがあるとするのとでは、ポピュリズム理解には大きな違いが出てくることになります」
――ポピュリストと呼ばれる中には、道化師のような政治家の一群と、もっと真剣で怖い政治家の一群がいますよね。本質的なポピュリストというのはむしろ、道化師的な人々だと思えます。
「そうですね。道化師的にみえるのは、それがリベラル・デモクラシーの影だからかもしれません」
――フランスの「国民戦線」の場合、父親の前党首ジャン=マリー・ルペン氏は道化師のようで、つまり民主主義の機能不全を警告してくれる存在だと思えました。しかし、娘の現党首マリーヌ・ルペン氏はもっと凄みがあって、政権を握ったらやばいなと思えます。
「『ヤバいポピュリスト』という括りでいうと、ロシアのプーチン大統領やトルコのエルドアン大統領、ハンガリーのオルバン首相等が当てはまるでしょう。ただ、彼らをポピュリストと呼んでも、何もなりません。プーチン大統領をポピュリストと呼んだところで何が変わるのか。どうにもならないですよね、たぶん。プーチンやエルドアンがポピュリストであるかどうかは本質的な問いではないと思います。彼らの怖さはもっと他の所にあります」
「政治制度の違いも考慮に入れないといけません。新興民主主義国と欧米の古い民主主義国におけるポピュリスト、それらが野党政治家なのか与党政治家なのかで意味合いは変わってきます。ロシアやハンガリーのように1990年代に民主化した国でポピュリストが政権をとってしまうと、国際情勢に予測不可能性が飛躍的に高まるという意味で『ヤバい』のは確かです」
「新興民主主義国のヤバいポピュリストと対比させると、古い民主主義国の野党政治家がいわば道化師的なポピュリストでしょう。ただ、彼らが目に見える脅威となったのは、保革を問わず、既成政治家がリーダーシップとヘゲモニーを喪失して、本来道化師的だったポピュリストが棚ぼた式に押し上げられているからです」
「イギリスのキャメロン前首相に典型ですが、ポピュリズムを利用しようとして、逆に振り回されてしまうようなケースもあります。2018年春にあったイタリアでも、過去に政権を担った保革の2大政党が有権者の不信をかこった結果、左右両極のポピュリズムが台頭して、連立を組むまでに至りました」
――あれはハプニングでしょうか。
「イタリアの場合、政権を握った両極が強かったというよりも、それまでに保革それぞれの連立内閣が政権交代を繰り返してきたものの、いずれも社会的、経済的グローバル化に有効に対処できなかったために、より急進的な左右のポピュリズムを招きよせた、という構図です。イギリスもキャメロン首相は保守党内のEU懐疑派を抑え込むことができずに国民投票に逃げ込んで、敗北しました。フランスもルペン氏が積極的に支持されたというよりも、当時のオランド大統領の低支持率とポスト・サルコジのリーダーがいない保守政党の間隙(かんげき)を彼女が縫ったからです。だから、やはり新顔で既成政党批判を繰り広げ、政策論争で競り勝ったマクロン氏が結果的に次の大統領に選ばれた。反対に2007年のサルコジ大統領誕生時のように、保守の再編の中で既成政党が党を右傾化させると、極右のルペン氏(父)は抑え込まれた。既成政党が劣化したり、統治能力を欠如させたりすると、そこにポピュリストがつけこんでくるのというのが常套(じょうとう)です」
「アリストテレスは『自然は真空を嫌う』と書いていますが、政治も同じです。政治的真空を埋めようとする新しい勢力が頭をもたげようとする。そのような勢力を私たちは『ポピュリズム』と呼ぶのではないでしょうか。名付け得ないものをとりあえず『ポピュリズム』と呼ぶ。だから『あれはポピュリズムだ』と言われると、みんな何となく納得する。理解不能な殺人事件などが起きると『心の闇は深い』といって納得を得ようとするのと似た論理です。もっとも、大事なのは、どう名付けるかではなくて、何がその闇をつくったのかを知ることではないでしょうか。ポピュリズムと名付けたからといって、それで何か言った気になるのは、本質を遠ざけてしまうゆえ、むしろ危険なことです」