1522人―――1970年代以降、米国で死刑執行された人の合計だ。現在米国では、連邦政府、軍、そして南部を中心とした28州で死刑制度が採用されている。1980年代から年代別に見ると、80年代で執行された死刑は117件で、90年代は478件。そして2000年代に590件に膨れ上がった。だが、2010年代になると288件に半減し、減少の一途を辿っているといわれる。だがその一方で、死刑制度をめぐるシステミック・レイシズムは深刻化している。
白人の命の方が大切?
「米国での死刑を統計的に見ると、現実は『(他の人種に比べて)白人の命の方が大切だ』という非常に強力な証拠が浮き彫りになる」。そう語るのは、米国の首都ワシントンにある、全米の死刑のデータや情報を分析する非営利団体「死刑情報センター」のロバート・ダンハム事務局長だ。1970年代以降に執行された死刑の合計の75%は、「白人が被害者」のケースだ。つまり「白人が被害者である場合に限り、(加害者の人種に問わず)容疑者が捕まる割合、裁判が行われる割合、被告が死刑判決を受ける割合のいずれもが高くなる」という。
加害者と被害者の両方の人種に注目して比較すると、人種格差はさらに明白になる。1976年以降執行された死刑の中で、「白人を殺害して死刑が執行された黒人」は295人。一方で、「黒人を殺害して処刑された白人」はわずか21名だ。人口比なども考慮にいれて総合的に分析した研究によると、「黒人が加害者で白人が被害者の場合、被告が死刑になる確率が一番高い。誰を死刑にするかという判断において人種が大きく影響していることが証明された」という。さらに、ダンハムさんは、「現代において、たまたま起きたようにも見える差別が、実は確たる証拠のある人種差別に基づいていることは、歴史を見れば明らかだ」と続けた。
「南北戦争の前は、白人が被害者の時に限り、被告に死刑が適用されるという法律が存在した。犯罪の内容によっては、黒人が加害者の時に限り死刑が適用されるという法律もあった。南北戦争後にこのような法規は違憲とされ、法律自体は無くなったものの、同じような精神構造は以前のまま残った」という。「例えば1900年から1969年の間は、殺人以外の罪で白人が死刑を受けることはなかった。だが黒人は性犯罪や窃盗でも死刑になっていた」。ダンハムさんは、特定の人種のみが特別な扱いを受けるこのシステムを「人種的カースト制度」と表現する。
デリック・ジャミソンさん(フロリダ州タンパ、非営利団体職員、59歳)
「死刑により命を落とした1522名の中には、多くの冤罪被害者がいた。その中には私の友達もいた」。柔らかい声で穏やかに話す男性がいる。お洒落な帽子や革靴がトレードマーク。195センチもあるNBA選手並みの長身で革ジャンやスーツを着こなす。首には大きなペンダント。笑うと、若い時に流行ったという金の前歯がキラリと光る。そのスタイルはまるで人気ラッパーのよう。
男性の名はデリック・ジャミソンさん。オハイオ州シンシナティに暮らす両親のもとに生まれた5人兄弟の末っ子。当時「プロジェクト」と呼ばれた低所得者用の住宅で育った。いつも優しい母親、自分と双子のように顔も格好もそっくりな父親、二人の兄と二人の姉に囲まれた賑やかな家庭は、貧しくとも笑顔が絶えなかった。当時はビデオゲームなどはなく、バスケットボールやアメフトに没頭したという。長身を生かし、バスケが一番得意だったため、将来はプロを目指そうと思ったこともあった。デリックさんは、「たくさんの友達に恵まれ、楽しく過ごした子供の頃を思うだけで笑顔になる」と少年時代を振り返る。
「たくさんの差別を経験してきたが、まさかこんなレベルにまで達するとは夢にも思わなかった」とデリックさんは切り出し、ある事件について語り出した。
1984年8月、シンシナティのバーでバーテンダーをしていた25歳の男性が、勤務中に二人の強盗から暴行を受け、8日後に死亡した。それから5ヶ月ほどたったある日、事件の主犯はデリックさんだという証言が突然浮上した。供述したのはデリックさんの近所に住む顔見知りの男性。別の性的暴行事件の容疑で逮捕されたこの男性は、「バーの強盗事件は自分とデリックさんの犯行で、デリックさんが被害者を殺害した」と警察に話したという。この供述に基づき、23歳のデリックさんはたちまち強盗殺人容疑で起訴されることとなる。
そもそも自分は殺人などやってない。決定的な物的証拠もないため、「有罪なんて、なるわけがない」。デリックさんはそう思いながら裁判に臨んだ。ところが、たった一人の証言に基づき始められた裁判は思わぬ方向に動き出す。事件当日一緒にいた複数の友人は、必死にデリックさんのアリバイを証明しようとした。しかし、法廷での証言は全て却下され、検察側はデリックさんの「無罪を証明する証拠は一つもない」という見解を貫いた。
この顔見知りの男性が、性的暴行の刑を軽くしてもらうために、自ら「共犯者」を名乗り、デリックさんを主犯に仕立て上げる「取引」を警察と交わしたことは、当初から周囲にも明らかだったという。法廷で誰とも目を合わせることなく、うつむいたまま証言する男性を、「この人は絶対に嘘をついている」と思いながら、デリックさんとその家族や友人はじっと見つめた。
デリックさんの母親や姉は法廷で、「デリックに必要なのは、『電気椅子』ではなく、助けなのです」と必死に訴えた(当時、オハイオ州の死刑は、電気椅子か薬物注射の2択だった。実際には1963年以降、電気椅子は使用されなかったものの、電気椅子の使用に公式に終止符が打たれたのは2001年だった)。だが、その声は陪審員に届かなかった。1985年10月、デリックさんは有罪の評決を受け、その後、死刑が宣告された。「『死刑』という言葉を耳にした瞬間、あまりの衝撃に意識を失いそうになった」というデリックさんが必死に目を開け傍聴席を見ると、家族や友達が互いの体を掴み合って泣き崩れていた。「このままでは自分だけでなく、家族までも破壊されてしまう」。デリックさんはそう思った。
地元の新聞が、デリックさんが「電気椅子で死ぬ宣告を受けた」と報じる一方、「共犯者」と名乗り出た男性は、デリックさんの命と引き換えに、10年の刑期を宣告された。
「死刑囚」となったデリックさんが送られたオハイオ州立刑務所では、全米を震撼させる事件が待ち受けていた。