■学校で唯一の黒人
ワンダさんは、1953年、アラバマ州セルマで建設請負業者の父親と小学校の教員をしていた母親の元に長女として生まれた。ジャマイカ出身の父親は米国南部に残る人種差別的な制度や、地域に根付く差別意識に耐えられず、「南部を出よう」と、引越しを決意した。
オハイオ州シンシナティへ移った時、4歳下の妹が生まれた。その後も一家は引っ越しを繰り返し、ニューヨークのブルックリンで幼少期を過ごしたワンダさんが高校へ上がる頃には、マサチューセッツ州にいた。当時白人が大多数を占めていた同州ダルトンという町で高校へ通うことになったワンダさんには多くの試練が待ち受けていた。
父親が土地を購入できることとなり引っ越した先のダルトンでは、皮肉にも「学校中でたった一人の黒人だった。近所でも私たちは唯一の黒人一家だった」。ワンダさんは、1960年代に高まった人種間の緊張の中で過ごした思春期を振り返る。
「名前をばかにされ、仲間はずれにされるのは日常茶飯事だった。プロム(学年末にドレスやスーツの正装で行われるダンス・パーティー)にも招待されず、高校生活の一大行事に参加することができなかった」。2021年の国勢調査局のデータによれば、ダルトンの人種別人口の割合は、現在でも98%以上が白人で、黒人は0.1%だ。
■相次ぐ家族の悲劇
1970年9月19日、バーモント州ミドルベリーで大学に通い始めたワンダさんの誕生日、母親がマサチューセッツ州ダルトンから3時間運転して訪ねて来る予定だった。だが、ワンダさんの母親は途中で交通事故に遭い命を落とした。当時17歳のワンダさんは、まだ13歳だった妹の母親代わりとなった。それから間もなく、腎臓病を患っていた父親が臓器移植を受けたが、拒絶反応を起こし亡くなった。母親がこの世を去ってからわずか1年半後のことだった。
両親を亡くした後も大学で学ぶことを諦めなかったワンダさんは、妹の世話と勉強を両立させた。大学4年生の時、同じ大学の学生だった男性と結婚し、1977年、23歳のワンダさんは長男のサムさんを出産。その3年後に長女のシャロンさん、4年後には次男のシモーンさんが生まれた。シャロンさんは、弟をまるで自分の赤ちゃんのように可愛がり、毎日おしめを換え、ミルクを飲ませ、一緒に遊んであげた。だが、シモーンさんが生まれて1年8ヶ月経った1986年8月23日、家族を悲劇が襲った。家族全員でバケーションに行く途中、交差点で注意散漫の運転手がワンダさん一家が乗る車に横から突っ込んできた。その衝撃で、まだ赤ちゃんだったシモーンさんは即死した。
長男のサムさんが18歳になろうとしている時だった。多発性硬化症(免疫細胞が脳や脊髄などの中枢神経や視神経に炎症を起こし、神経組織に障害を引き起こす自己免疫疾患)と診断された。18歳になって、両親の保険を使うことができなくなったサムさんは、メディケイド(低所得者および障害者のための医療保険制度)を使い治療を始めた。「この時の経験が、後に妹のシャロンを『医療の場から人種による不公平をなくす活動』へ導いたに違いない」とワンダさんは振り返る。
ワンダさんによれば、この時の白人男性の主治医は、成人のサムさんに対し2歳児であるかのように語りかけ、一方でサムさんの懸念や相談に一切耳を傾けようとしなかった。待合室ではなぜかサムさんだけが長時間待たされることが続き、後から来た患者たちが次々に先に診察を受けた。診察後、病状について説明がされることも稀だった。「まるで彼の声が誰にも聞こえていないかのようだった」。ワンダさんはいう。
シャロンさんはサムさんを病院に連れて行く度に兄がこのような扱いをされるのを目撃し、悔しい思いで何度も爆発しそうになったという。「高くていい保険を持っていないからといってこのような扱いをされるのはフェアじゃない!」。ワンダさんは当時のシャロンさんの口癖を真似し、落ち着いた声でこう続けた。「特に自分を擁護してくれる人がいない時、黒人はいつもこのような壁にぶち当たる」
サムさんは障害にも負けず、6年かけて大学で心理学の学位を取得した。「卒業式では、車椅子でなく自分の足でステージを歩き卒業証書を受け取りたい」という強い思いから、3週間に渡るリハビリに集中した。ちょうどこの頃ワンダさんの元に、サムさんがオバマ大統領の医療保険制度改革(オバマケア)委員会のインターンに選ばれたという一報が届く。「全てが素晴らしい方向に向かっていた。サムはこの上なく、喜びに満ちていた」とワンダさんは振り返る。それからわずか3日後の2009年2月16日、ワンダさんは病院から、緊急病棟にサムさんが救急車で運び込まれたという連絡を受ける。サムさんは突然肺寒栓症を引き起こし、病院に到着した時にはすでに息を引き取っていた。
■母娘から親友へ
「シャロンが私を悲しみのどん底から救ってくれた。私の相談相手となり、心の支えとなり、いつもそばにいてくれた」。若くして両親を失い、我が子を二人も失ったワンダさんにとって、残された一人娘のシャロンさんはワンダさんの「全て」だった。ワンダさんは、シャロンさんと毎日のように語り合い、テレビを一緒に見て笑ったり、旅行に出かけたりした。「この頃、私たちはベストフレンドになっていた」。
「小さな頃からシャロンはまるで私の『影』だった。シャロンなしではどこにも行くことができなかった」。ママっ子だったシャロンさんは母親のワンダさんの後をいつも追いかけていた。「子供の頃から極めて好奇心旺盛で、人の心が読めるような賢い子だった。これはまさに彼女に与えられた『ギフト』だった」と話すワンダさんの表情は優しい笑顔に変わった。
シャロンさんは素晴らしい成績で飛び級をし、社会学と老年学のダブルメジャーで2つの博士号を取得。卒業論文では幼少期に経験するトラウマや虐待が長いスパンで子供に与える影響について研究した。卒業後は大学で助教授をした後、米公衆衛生局で大統領の軍医総監の元、少佐としてジカ熱やエボラ対策に取り組んだ。同時に米疾病対策センター(CDC)にも所属し、伝染病学者として構造的な不平等、トラウマ、暴力がいかに人に疾患をもたらすかという研究に従事した。ミシェル・オバマの子供の肥満対策プログラム「レッツ・ムーブ!」のコンサルタントも務めた。シャロンさんの人間性や学者としての功績を語るワンダさんの顔は、みるみる誇りに満ち溢れた。
■プエルトリコでのサプライズ
ワンダさんは2016年4月、CDCのジカ熱ウィルス対策でプエルトリコに派遣されたシャロンさんを週末に訪ねていた。シャロンさんがふと妊娠テストの結果を取り出し、ワンダさんに見せた。「完全なサプライズだった。シャロンはこの上なく喜びでいっぱいだった」。ただ、ワンダさんはこの時、手放しで喜ぶことができなかった。
「もちろん嬉しかったが、なぜか恐怖と懸念が押し寄せナーバスになった」。自身の辛い経験がよみがえったからかもしれないとワンダさんは振り返る。ワンダさんが長男のサムさんを出産した時、陣痛に苦しむ17時間の間、何度医者や看護婦に助けを呼んでも誰も来てくれず、麻酔を投与してもらえなかったという。
最終的に帝王切開で無事出産できたものの、「本当に死ぬ思いをした」と語るワンダさんは、これまでの数々の差別体験から、この時の経験も白人男性の医者による人種差別または黒人に対する固定観念に基づいたものだと確信していると続けた。この時ワンダさんの反応をすぐさま読み取ったシャロンさんは、「何かを恐れているの?」と言い、「ママ、私は大丈夫だから」とワンダさんを安心させようとした。
赤ちゃんの父親との関係はうまくいっていなかったが、シャロンさんはシングルマザーになってもお腹の子を生むことを決意した。母親になりたいという子供の頃からの夢を諦めるオプションなどなかった。プエルトリコでジカ熱ウィルスが妊婦や新生児に広まることを予防するための対策に取り組んでいたシャロンさんは、妊娠が発覚すると自分の赤ちゃんへの影響を懸念しすぐさま帰国した。
ワンダさんによれば、高齢の白人男性だったハイリスクの担当医は、最初からシャロンさんを見下すような話し方をし、懸念や質問を聞き入れることもなく、まるで軽蔑しているかのような態度を取り続けたという。予約に間に合うように行っても、なぜか長時間待たされることが続き、そのうち医者自身が出てきて診察をすることもなくなり、シャロンさんの検診は「担当医が忙しい」という理由で、看護師やナース・プラクティショナーによって行われることが多くなっていった。
それはまるでシャロンさんが兄のサムさんを病院に連れて行くたびに見たのと同じ光景だった。「この医者が見たのは『未婚の黒人のシングルマザー』という事実だけだった。シャロンの人間性や高学歴を持つバックグラウンドが彼女のおでこに書いてあるわけではないからだ」とワンダさんは指摘する。
「第三者からすれば些細で大したことのない体験に見えるかもしれないが、黒人女性としてこのような対応を受ける側からすれば、けして微妙なものではなく、明らかな人種差別だ」
■娘の遺志を継いだ母親
「あらゆるところに見える不平等を指摘し、それを撲滅するために取り組みます」。シャロンさんのツイッターのプロフィールには、こう書かれている。
ワンダさんは一人娘のシャロンさんを失った後、2年もの間悲しみに打ちひしがれ、「とてつもなく深く暗い闇」から抜け出せなかった。共に悲しみに暮れるシャロンさんの友人たちと話した時、「医者がまた責任を負わずに逃れたのではないか?」という話題になった。肌の色で異なる扱いを受けたのはシャロンさんだけではないと実感したワンダさんは、この時決心した。「他の母親が私と同じように苦しむことがあってはいけない。医療機関における不公平を排除するために何かをしなければならない」
こうしてワンダさんは「ドクター・シャロンズ・マターナル・アクション・プロジェクト(MAP)」という非営利団体を結成し、娘のシャロンさんが生涯をかけて取り組んだ活動を引き継いだ。MAPは、多くの黒人女性が妊娠・出産時に不均衡に亡くなっている現状や医療現場で起こる人種差別などをファクトベースで検証し、その認識を広めるために各地域で討論会を行ったり、医療機関に従事する人の教育を支援したりする活動をしている。
さらに、シャロンさんのような経験をした黒人女性が自らの体験を共有したり助けを求めたりできるアプリを開発し、横の繋がりを通して女性たちがお互いをサポートできるような取り組みも行っている。黒人の妊産婦死亡率に関するドキュメンタリーの映像作品の話も進んでいるという。
想像を絶する数々の悲しみを経験したワンダさんが、なぜそこまで強くポジティブでいられるのか?この質問に、ワンダさんは大きく深呼吸をし、一拍置いてから静かな声で答えた。「私を前向きにしてくれるのは、孫のソレイユの存在だ。母親を失い、寂しい思いをする彼女が少しでも普通の生活ができるように私が何とかしなければならない。シャロンが私を信用し、この子を私に託したのだから」
ワンダさんは、シャロンさんが亡くなった後、思い出が詰まったシャロンさんの家でソレイユちゃんを育てるために自分の家を売り、シャロンさんの家に引っ越した。家中にシャロンさんの大きな写真を飾り、シャロンさんの話をすることで、ソレイユちゃんが自分の母親がどんな人だったかを知り、母親に見守られているような環境を作った。
「なぜママがいないの?」と聞くソレイユちゃんに、ワンダさんは答える。「医者があなたのママに耳を傾けてくれなかったからよ」。「どうしてお医者さんはママの言うことを聞いてあげなかったの?」。ワンダさんは現在5歳になったソレイユちゃんに真実を知ってもらうため、シャロンさんが亡くなった経緯を隠さず話すという。「でも……」とワンダさんは加えた。
「『どうして?』と無邪気に尋ねる5歳の女の子に、なぜ母親がこの世を去ったか、なぜ黒人がこのような扱いを受けるのかを説明することは悲痛で嘆かわしい」。ワンダさんは続けた。「このようなトラウマ、このような喪失は決して消えてなくなるものではない」。ワンダさんが大きく深呼吸をした理由は、このトラウマにあったのかもしれない。
■パソコンに残されていた手紙、まるで天国からの「キス」
シャロンさんのお葬式が終わり約1週間が過ぎた時のことだった。ワンダさんの姪がシャロンさんのコンピューターに残された一つのファイルを見つけた。それはシャロンさんがワンダさんへ宛てた手紙だった。「最初は本当にその手紙がシャロンが書いたものだと信じられなかった。悲しむ私を慰めようと、姪っ子が書いたのではないかとさえ思った」。
読み始めると、「親愛なる『ビューラー・ベア』へ」の文字が。「シャロンに間違いない」。ワンダさんは確信した。ワンダさんをこう呼ぶのはこの世にシャロンさんしかいなかったからだ。「ビューラー・ベア」とは、「子熊を必死に守る母親熊」を愛情を込めて呼ぶ意味が含まれており、シャロンさんがワンダさんに付けた、二人だけが知るあだ名だった。ワンダさんはそのまま座り込み、何度も手紙を読み返しては、ただただ泣き崩れた。「予期せず息子を二人も失った私を見て育ったシャロンは、もしも彼女の身に何かがあった時に私が心の拠り所にできるような手紙を残してくれたのかもしれない」。ワンダさんの目からボロボロと涙がこぼれた。
「手紙は、シャロンがいなくなって寂しがる私に彼女が天国から送ってくれた『キス』のようだった。愛おしくてたまらなかった」。自分の身に何かあった場合のことを記した2015年2月10日のメモと同じ日付が付いたこの手紙には、まるでシャロンさんが2年後に自分の身に起こることを予期していたかのような内容が書かれていた。
「ママの元を去ってごめんなさい。なぜこのようなことになってしまったか今は全くわからないけど、決して去りたくて去ったわけではない。今は無理かもしれないけど、どうか打ちのめされないで。幸せで笑顔でいて欲しい。私は兄弟や祖母に見守られ、彼らはママのことも見守っているから。どうか泣かないで。泣く代わりにそのエネルギーを私の愛を感じることに使って。私たちが築いた絆はどんなことがあっても壊れない。あなたは永遠に私のマミー、私は永遠にあなたのベイビー・ガールだから!」(つづく)