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死刑執行の直前まで6回行った 黒人男性が見た「地獄」の刑務所

ホワイトハウスへ猛ダッシュ
57年前に公民権運動の指導者、キング牧師が「私には夢がある」と演説し差別撤廃を訴えたリンカーン記念堂で、警察による暴力に対して抗議する女の子=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月28日

前回 黒人として生きるとは⑨「作り上げられた死刑囚」 米死刑制度に潜む人種差別」はこちらから

死刑宣告を受けたデリックさんは、オハイオ州シンシナティから車で2時間の郊外、ルーカスビルにあるオハイオ州立刑務所へ送られた。デリックさんが入所した80年代、通称「ルーカスビル刑務所」と呼ばれるこのマキシマム・セキュリティ(厳重警備)の施設は、「全米で最も凶暴な刑務所」の一つとして知られた。凶悪犯罪で服役中の受刑者の中にはギャング集団も多く、所内では暴力が蔓延、殺人も珍しくなかった。

「デッドマン・ウォーキング!」

「デッドマン・ウォーキング!(=死刑囚が通るぞ!)」。デリックさんがルーカスビル刑務所に入所し、長い廊下を歩き独房に連れて行かれる途中、看守が周囲に向かってこう叫んだ。死刑囚監房では、名前の代わりに「187382」という囚人番号で呼ばれた。今でもすらすら出る「この番号は、一生忘れることができない」という。人とのコミュニケーションが絶たれ、窓もない狭い独房で、孤独と闘う日々。他の受刑者とともに食事することも、刑務所内で働くことも許されなかった。デリックさんはルーカスビルでの生活を、繰り返し「地獄」という言葉で形容した。「死刑囚として投獄されるということは他の受刑者の生活とはまるで異なる」という。

57年前に公民権運動の指導者、キング牧師が「私には夢がある」と演説し差別撤廃を訴えたリンカーン記念堂で、警察による暴力に対して抗議する人々=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月28日

「食べ物は扉に付いたスライド式の引き出しに入れられる。動物園のゴリラに餌をあげるかのように……」。レクリエーションとして外に出られたのは、週に数回のみ。時間は2時間に限られ、フェンスに囲まれた屋外に出ても「かご」の中に閉じ込められている感覚だった。

それ以外はゴキブリが出る不衛生な独房でずっと過ごした。長身のデリックさんはいつもあちこちに頭をぶつけた。固くて小さなベッドからは、必ず足がはみ出していた。まるで「大きな巨人がミニチュアのトイレにでも住んでいるかのようだった」

だが、デリックさんを一番「地獄」にいると感じさせたのは、「自分はここにいるはずではない」という思いと、「自分のような冤罪被害者が死刑によりどんどん殺されていく」という恐怖だった。

リンカーン記念堂に集まり、警察による暴力に対して抗議する人々=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月28日

手が届かない「正義の追求」

デリックさんは「自分の身に起きたことは何も特殊なケースではない」と訴える。それは、自分が受けた不当な有罪判決は「人種差別がはびこる欠陥だらけのシステムの産物」だと思うからだ。デリックさんは、この状況を「ダブルスタンダード(二重規範)」と呼ぶ。「低所得層や有色人種には『正義の追及』は手が届かない。でもお金を持っていれば、(身を守るための)様々な資源に手が届く。その差が、自由か冤罪かの2つの道を分ける」。

リンカーン記念堂で、警察による暴力に対して、縛り首の縄を掲げ抗議する男性。ロープの端を輪状にした縛り首の縄は白人による黒人リンチの象徴だ=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月28日

1970年代以降、無罪が確定し自由の身となった元死刑囚は170人いる。この内訳を人種別に見ると、半数以上を占めるのは黒人だ。非営利団体「死刑情報センター」のロバート・ダンハム事務局長は、「米国の司法に巣くうあらゆる人種的な偏見は死刑制度にも存在する。だが、ひどい偏見が死刑制度に持ち込まれた場合、最悪の結果をもたらす」という。「最悪な結果」とは、デリックさんの言う「人種差別と欠陥に満ちたシステム」があろうことか無実の人の命を奪ってしまうことを意味する。

死刑囚人口を人種別に見ると、1980年代と90年代までは、半数以上は白人が占めていたが、2000年代に入り、その割合は逆転し、差が広がりつつある。例えば、2010年代は白人の割合が43.9%、有色人種が56.1%まで増加した。現在の死刑囚2656名のうち、白人は42.2%で、黒人とラティーノ(ヒスパニック)を合計した有色人種が全体の57.8%も占めている。ラティーノの死刑囚の増加も格差拡大の原因の一つとはいえ、黒人人口が米国全体の13%しかいないことを考えれば、この割合がいかに不均衡かということは明白だ。ダンハムさんは「貧しい人が死刑を受ける確率が高いということも統計で証明されている」という。

ホワイトハウス周辺で「黒人の命も大切だ」と書かれた弾幕を掲げ、抗議デモに参加する人たち=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月27日

全米を震撼させた事件

もともと暴力が蔓延していた刑務所内では、受刑者の増加に伴う過密化、職員不足、十分な医療サービスの欠陥、看守による職権濫用、人種間の対立などに加え、看守の暴力行為なども重なり、受刑者の不満はまさに爆発寸前の状態だった。劣悪な環境の下、精神疾患に苦しむ受刑者も数多くいたといわれる。デリックさんは所内での医療について、「足を骨折すれば、タオルが渡されるだけ。それほどまでに理不尽で、憤りを覚えずにはいられなかった」と振り返る。

いつ点火されてもおかしくなかった「爆弾」はある日突然、爆発した。デリックさんがルーカスビル刑務所に入り、8年目の春のことだった。イスラム教徒の受刑者にアルコール成分を含む結核検査が強制された。彼らの不満が頂点に達したのをきっかけとし反乱が起き(実は裏で綿密に計画されていた)、みるみる受刑者同士の争いや看守に対する暴行に発展した。所内で横行していた犯罪を看守に密告していたと名指しされた受刑者が次々と刃物で刺された。

リンカーン記念堂に集まり、警察による暴力に対し抗議する人たち=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月28日

受刑者たちが次々と遺体を運動場に運び出す映像が多くのメディアで報道された。計450人の受刑者が暴動に参加し、8名の職員を人質に立てこもった。交渉の押し問答が何日も続いた。連日の交渉の結果、全米に報道された大惨事が鎮圧されたのは11日後のことだった。終結する頃には、死者10人、負傷者はおよそ100人に及んだ。殺された看守は以前、死刑囚監房を担当しており、デリックさんもよく知る人物だった。「とてもいい人で、なぜこの看守が殺されなければならなかったのか理解できなかった」。死刑囚監房は無事だったとはいえ、暴動の様子は看守やテレビによって伝えられ、混乱と恐怖の日々だったという。「同じ施設内で人が血を流して殴り合い、殺し合うその様は恐ろしく、まさに『地獄』のようだった」。

死刑90分前

仲間がひとり、またひとりと処刑されていくのを見守るデリックさんにある日、「自分の番」がやってきた。死刑宣告を受け、不服を申し立てるチャンスが全て却下されると、ついに死刑確定の「令状」が発行される。「自分が『何日の何時何分に死ぬ』と宣告されることがどれほど恐ろしいか想像できるかい?」。デリックさんの声が初めてこわばった瞬間だった。「ほかの誰でもない、自分の死刑のことが新聞やテレビのニュースで報じられていた。恐ろしくなってすぐさま祈りを捧げた」

「黒人の命も大切だ」と書かれた旗をホワイトハウス前で掲げ、警察による暴力に抗議する黒人男性=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月27日

「死刑宣告を受けた人は、死刑がいずれ行われることを頭では分かっているものの、令状が出て初めて自分の死が現実的なものとなる。果てしなく深い心の傷は、ここから始まる」。全米の冤罪被害者の元死刑囚が社会復帰するのを支援する非営利団体「ウィットネス・トゥー・イノセンス」のソーシャルワーカー、カラ・コバルビッチさんは、こう説明する。

ホワイトハウス周辺で「黒人の命も大切だ」と叫びながら抗議デモをする女性=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月27日

死刑を間近に控えたデリックさんに「最後の祈り」が捧げられた。その後、自分の遺体をどうするか、どこに埋葬するか、などという手続きが行われた。そして、最後に問われたのは、「最後の食事」で何を食べたいかという質問だった。デリックさんは、「いらない」と答えた。「自分が今から殺されるという時に、誰が食べ物のことなど考えられるものか? 何も喉を通るわけがない。食事なんて、考えることもできない」。デリックさんの優しい声はますます緊張を帯びた。

デリックさんの弁護団が懸命に州知事に掛け合い、死刑の延期が確定したのは、執行のわずか90分前のことだった。「『死ぬほどに恐ろしい』とはまさにこのことだ」。デリックさんは、この「死ぬほどに恐ろしい」恐怖を収監中に6回も経験した。その6回とも「最後の食事」を拒んだことは言うまでもない。

最悪のクリスマス

心の支えは、家族と友達だった。自由時間や人とのコンタクトが限られた死刑囚監房では、そんな環境だからこそ仲間との友情が深まった。中でも向かいの独房にいたウィリアムさんとは親友になった。レクリエーションの時間には、きまってウィリアムさんとチェスをしたり、一緒にいろんな話をしたりした。独房では、檻の隙間から二人でよく即興で歌を歌ったりもした。

トランプ大統領が大統領候補の受諾演説をする夜、ホワイトハウス周辺で黒人差別に対する抗議デモをする人々=ワシントン、ランハム裕子撮影、2020年8月27日

5人兄弟の末っ子だったデリックさんは家族にも支えられた。特に母親は、訪問が許される日には必ず会いにきてくれた。デリックさんを「ベイビー」と呼ぶ母親は、デリックさんの無実を信じ励まし続けた。「ベイビー、神様を信じて祈り続けなさい」。母親は、教会や学校などで集会があるたびに、大勢にデリックさんの無実を訴えたり、死刑制度について問題提議をしたりした。そのおかげで、デリックさんは「決して諦めることなく希望を持ち続けた」という。

デリックさんがルーカスビル刑務所で迎える12回目のクリスマスが近づいていた時のことだった。独房でクリスマスの音楽を聴いていたデリックさんに突然、看守が母親の死を告げた。後日、デリックさんを訪れた二人の姉は、「もうお母さんはいないけど、私たちがあなたを守るから」と言って励ました。だが、デリックさんは悲しみと同時に罪悪感もおぼえずにはいられなかった。「自分の身に起きたことが、父さんと母さんの命を縮めてしまったに違いない。我が子が無実にも関わらず死刑囚となったことで両親が経験した葛藤や痛みは計り知れない」。

デリック・ジャミソンさん(ウィットネス・トゥー・イノセンス提供)

このような思いをしたのは自分だけではない、とデリックさんはいう。収監が長期間に及ぶ死刑囚にとって、いつか家族が亡くなる時がやってくる。誰かがその経験をするたびに、我が身のことのように一緒に泣いた。デリックさんの父親は、ルーカスビル刑務所に入った2年後に亡くなっていた。「母さんは、必ず私が家に帰って来ると信じていた。でも間に合わせてあげることができなかった」と、デリックさんは声を震わせる。父の時も、母の時も、デリックさんは葬儀にすら出席することが許されなかった。

死刑囚となり15年が経った頃、新しい弁護士によって驚きの事実が暴かれる。

(黒人として生きる⑪「『合法リンチ』から生還した黒人男性 冤罪被害者を生む米国システム」に続く)