黒人として生きるとは「自分が次の『ジョージ・フロイド』になり得る」はこちら
瑞枝・ハチェットさん(ジョージア州、会社員、44歳)
なかなか子供を授からなかった両親の元に、11年越しでやっと命が宿り、生まれたのが瑞枝さんだった。千葉県出身。同級生の親と比べ少し年上だった両親に大切に育てられた。初めて触れた海外文化は母が大好きだったマイケル・ジャクソンの音楽だった。将来アメリカ人と国際結婚し、渡米するなんて、家族も自分でさえも想像したことがなかった。
そんな瑞枝さんが、軍人だった黒人の元夫と横須賀で出会い、長男を妊娠したのは21歳の時だった。両親は、まだ若かった瑞枝さんが子供を産むことに戸惑いを見せた。相手が黒人ということも不安だったかもしれないが、その当時両親が人種を口にすることはなかった。実はひっかかっていたということを、何年も経ってから知る。
長男が生まれた翌年、次男が生まれた。我が子でありながら人種が異なること、二人の息子が黒人にしか見えないことで不安を感じることはなかった。日本人の母親として日本の文化やルーツを教えたが、若くして産んだ二人の男の子を育てるのは容易なことではなかった。黒人の子供を育てるということを意識もせず、毎日必死に子育てをした。黒人の歴史や文化は夫が息子たちに教えてくれるものだと思っていた。
海軍の基地内では、多様な人種が入り混じり、ハーフの子供たちも多い環境だったため、子供たちが人種差別を受けることはほとんどなかった。米国に引っ越した後も、住んだのは首都ワシントンや隣のバージニア州。多様性に富む環境で、子供たちをのびのび育てることができた。
一方で、二人の息子が「黒人として生きる」ことについて、どれだけの知識や考えを持っているのかはわからなった。元夫は話し上手で明るい性格だったが、人種差別や黒人の歴史を家族で話すことを一切しなかった。日本人である妻には黒人としての思いを所詮わかってもらえないという「諦め」があったのか。普段明るい元夫の奥底にある、触れてはならない「闇」だった。
その「闇」は突然爆発した。家族と友人で集まった時のこと。反抗期だったティーンエイジャーの息子たちはこの時期、なかなか言うことを聞かず、非行に走りかけていた。元夫は突然、怒鳴り散らした。「お前たちは裕福な白人の子供がやるような悪さをしてはいけないんだ! 同じ事をやってみろ。お前らは白人のようには扱われないんだぞ」。同席した黒人男性の友人が続けた。「悪ぶっているのなら本当に悪い奴らがたくさんいる俺の出身地(ニュージャージー州)に連れて行ってやる。そうやって悪くなった末に奴らが黒人としてどんな扱いを受けて、どんなひどい生活をしているのか見る勇気はあるのか?」
息子たちはショック状態で何も言葉が出なかった。二人の息子にとって、初めて自分が「黒人であること」を叩きつけられた日だった。
ある日、友人たちとレストランで食事を終え、駐車場で話していた時のことだった。16歳だった次男が「ママ、そろそろ帰ろうよ」と体を掴んで揺さぶった。すると、すぐさまレストランの警備員が「大丈夫ですか?」と叫び飛び出してきたではないか。「愛する息子が『脅威』として見られている」と初めて感じた瞬間だった。息子は駄々をこねて母親に甘えただけだったのに、「アジア人の女性に暴力を振るう黒人男性」として認識されたのだった。しかも私はその「黒人男性」の母親……衝撃だった。
米国に住んで18年。これまでも白人警官による黒人への暴力は何度もニュースで目にした。でも、今回のジョージ・フロイドさんの事件は今までと違った。それは、フロイドさんを首で抑え続ける警官の表情に、人間の冷酷さを見せつけられたからだ。
仮に正当防衛で警官が誰かを撃ったとしても、人間なのだから多少は動揺するはずだ。でもこの事件に関わった警官一人ひとりの表情には焦りも動揺も見られず、無表情で当たり前のように人の命を奪った。この表情に「システミック・レイシズム」の恐ろしさを感じた。同時にこの事件は、黒人と結婚し、二人の黒人の息子を持ち、米国に20年近く住む自分が、黒人が抱える「闇」がいかに深かったかを理解していなかったと気付かせてくれた。
どんな状況にもひるまない人間になって欲しい――その一心で子供たちを育ててきた。でも「黒人であること」をあまり意識することなく、真っ直ぐに育ち成人した息子たちが今心配だ。特に強い正義感を持つ長男が、もし警察に止められるようなことがあったとしたら。なぜ自分が止められたのか、警察を問い正すに違いないからだ。
もしもそのようなことがあれば、「頼むからおとなしく警官の言うことを聞いて」と息子を説得する。それは、どんなことがあってもひるんではいけないという自らの教えに矛盾しているかもしれない。それでも母はお願いする。愛する我が子が意味もなく命を落とすことがないよう……。