農民的な気質を留めるベラルーシ国民
ベラルーシでは、本稿を執筆している8月28日の時点でも、ルカシェンコ「自称」大統領が権力の座に居座っており、情勢は膠着したままです。ですので、今回も、目先の情勢分析というよりは、そもそもルカシェンコ体制はどのような存在なのかということを解説したいと思います。今回のキーワードは、「農村」です。
ベラルーシは今日でこそ都市・工業を主体とした国ですが、1世代前は農民だったというような人も多く、国民性には農民的な気質が色濃く残っています。週末や夏休みに郊外や田舎の「ダーチャ」(簡易な別荘)でのんびり過ごしたり、あるいはそこで家庭菜園にいそしんだりする市民が多いのも、そうした気質の表れです。むろんダーチャ文化はロシアなどとも共通ですが、ベラルーシ国民のダーチャ熱はロシアよりも高い印象を個人的には受けています。
そして、今、世界を騒がせているルカシェンコという人物が、どのように形成されたかを理解するためにも、農村という視点が欠かせません。もちろん、農村や農業自体が駄目だということを言いたいのではありません。問題は、ルカシェンコの世界観が、ベラルーシの国営農場でワンマン支配人をしていたソ連時代から、何ら進歩していないという点です。
諸外国の大使たちを追い出してジャガイモ畑に
個人的な話をすると、筆者は在ベラルーシ日本大使館で働くため、1998年4月にミンスクに着任しました。ちょうどその頃、当地の外交団は大騒ぎになっていました。独立後のベラルーシでは、ミンスクの北の郊外にあるドロズディという地区に、諸外国の大使たちの公邸が立ち並ぶ大使村が設けられていました。筆者も2度ほど行きましたが、緑豊かでとても環境の良いところでした。
ただ、厄介なことに、ルカシェンコ大統領の公邸も、同地区にあったのです。そして、1998年に突然、ベラルーシ当局が各国大使を公邸から強制退去させ、ドロズディ全域を大統領公邸の敷地にしてしまうという事件が起きました。追い出された各国大使は、一時帰国や不便なホテル暮らしを強いられることに(当時のベラルーシには粗末なホテルしかなかった)。本件は大スキャンダルに発展し、ルカシェンコ=奇人・変人というイメージが国際社会に定着することとなりました。
その後、大統領公邸のあるドロズディ地区は、一般人の立ち入りが禁止されたため、内部がどうなっているのかはうかがい知れませんでした。しかし、2015年に衝撃的な画像・映像が配信されます。かつての大使村は、広大なジャガイモ畑へと姿を変え、そこでルカシェンコ大統領親子が収穫作業に励んでいたのです(冒頭写真参照)。
1998年当時、ベラルーシ当局は「大統領公邸のセキュリティの観点から大使たちには立ち退いてもらう」と説明していたはずです。本当のところは、自分が生まれ育った農村の風景を、ドロズディに再現したかったのかもしれません。ルカシェンコが親子で仲良く野良仕事にいそしむ様子を目の当たりにして、筆者は、「まさか、こんなことのために、当時我々は振り回されたのか」と、愕然としました。
ルカシェンコを形作った東ベラルーシの農村
それではここで、ルカシェンコのルーツを辿ってみることにしましょう。ルカシェンコは1954年、東ベラルーシの寒村に生まれました。「私は動物と植物に囲まれて育った」とは本人の弁。その生い立ちは恵まれたものではなく、貧しい母子家庭で育ち、父親についての情報は一切知られていません。それでも母親は、息子が教育を受けられるよう最善を尽くし、ルカシェンコはモギリョフ教育大学歴史学部で学ぶことができました。
大学卒業後、兵役を終えたルカシェンコは、1978年にモギリョフ州シクロフ地区に移り、そこで「知識普及協会」の講師の職に就きました。これは、大きなターニングポイントだと思います。というのも、この協会は、ソ連当局が公式イデオロギーを庶民に教化するために作った組織だからです。当時のルカシェンコの仕事は、農民たちを相手に講演し、「食料不足は帝国主義者が引き起こしたものだ」などと吹き込むことでした。弁舌家ルカシェンコがここに誕生しました(知識水準の低い聴衆限定ですが)。
さらに、ルカシェンコは1985年から、ゴルキという街にあるベラルーシ国立農業アカデミーの通信制で学ぶことになりました。ゴルキは、やはりモギリョフ州に所在し、人口わずか3万あまりの小都市。それでも、農業アカデミーの存在ゆえ、ある意味でベラルーシを象徴する街とも言えます。
というのも、1840年に設立された同校は、ベラルーシ最古の高等教育機関であり、なおかつベラルーシ地域で唯一の高等教育機関である時代が長く続きました。一説によれば今日、旧ソ連だけでなく、ヨーロッパ全域でも最大の農業大学だと言います。実は、片田舎にあるこの農業専門家養成所が、ルカシェンコをはじめ、ベラルーシ政界の有力者を多数輩出しているのです。筆者の知り合いのあるベラルーシ知識人は、この農業アカデミーのことを冗談めかして「ベラルーシのケンブリッジ」と呼んでいたものです。
アカデミーを修了したルカシェンコは1987年、モギリョフ州シクロフ地区のソフホーズ(ソ連式の大型国営農場)「ゴロジェツ」の支配人に就任しました。農場を取り仕切る立場となったルカシェンコは、訪れる客人は手厚くもてなす一方、農民に対しては「頑固オヤジ」として振る舞いました。盗みを働いたり、飲みすぎたり、その他の悪さをした農民たちは、容赦なく処罰されました。若き支配人自らが鉄拳制裁を加えることもあったと言います。
要するに、ルカシェンコの価値観や行動様式は、この頃からほとんど変わっていないのです。一つの村、一つの農場だけの話だったら、大して害もなかったでしょう。ルカシェンコが、ソフホーズのワンマン支配人というスタイルはそのままに、国家元首に登り詰め、強大な権力と暴力装置を手に入れてしまったというところに、ベラルーシの悲劇があります。
ルカシェンコ政権と農業
1994年に大統領に就任したルカシェンコは、当然のごとく、自らの出身母体である農業を重視する政策を展開しました。それが特に本格化したのが2005~2015年の時期であり、この時期に政府は450億ドルもの資金を農業と農村の発展のために費やしたということです。特に成長が目覚ましかったのが畜産部門であり、ルカシェンコ政権下で乳製品の生産は2.5倍に、食肉の生産量は3.0倍に拡大しました。農産物・食料品は、ベラルーシの主要輸出項目の一つに躍り出ました。
ほとんど知られていないと思いますが、ベラルーシは世界屈指の乳製品輸出国です。筆者がベラルーシの風景を眺めていて、ロシアやウクライナとの違いを感じる点は、とにかく放牧されている牛が至る所にいるということ。ちょっと田舎に行けば牛だらけだし、筆者が在ベラルーシ日本大使館で働いていた20年前には、首都のほぼ中心部にある大使館の窓からも、緑地で草を食む牛の姿が見られたほどです。余談ながら、その緑地帯が、先日のデモでは民主派によって埋め尽くされており、隔世の感がありました。
現時点で、ベラルーシの乳製品の自給率は、235%にも達しているということです。つまり、余剰分を輸出しなければ、商品がさばけないということ。そして、そのはけ口になっているのが、ロシア市場です。ベラルーシが世界屈指の乳製品輸出国でありながら、国際的にあまり目立たないのは、大部分がロシアという一つの国に輸出されているからです。ただ、ロシアはベラルーシとの政治的対立を受け、ベラルーシ産乳製品の安全性にクレームをつけて輸入を禁止したことがこれまでに何度かあり、これは「ミルク戦争」と呼ばれています。
生産量や輸出量という観点から見れば、ベラルーシ農業のパフォーマンスは悪くないように思えます。しかし、農産物・食品輸出は現実には、石油部門で発生した利益を原資に、農産部門に補助金を投入することによって成り立っています。ベラルーシのGDPに占める農業の比率は、1995年には15%でしたが、現時点ではせいぜい6~7%とされています。国民経済を引っ張る存在というよりも、むしろ重荷になっているのです。それでもルカシェンコ政権が農業を重視してきたのは、農村が自らの支持基盤だからでしょう。
そして、もう一つ看過できない問題があります。ルカシェンコ体制のベラルーシは、他のロシア・NIS諸国に比べれば、汚職・腐敗が比較的少ない国と見なされています。ところが、最近になりベラルーシ大統領官房が酪農企業を多数傘下に収めているのです。ベラルーシ大統領官房は以前から不動産などの商業活動を手掛けていましたが、ルカシェンコ政権の黒幕的な存在であるシェイマン氏が2013年に大統領官房長に就任して以来、従来にも増して商業活動への進出に熱心になりました。その一環として、大統領官房は一連の酪農企業を傘下に収め、年産30万トンを誇る旧ソ連最大の牛乳生産者になったということです。
逆に言えば、国家的保護を受けている酪農はそれだけ、ベラルーシで旨味のある一大産業と化しているということでしょう。ロシアでは石油が最大の利権ですが、同じ液体でも牛乳が利権になるというところがいかにもベラルーシという気がします。