ナイル川が貫流する首都カイロは、少し郊外に出れば、砂漠が広がる。自動車で砂漠を突っ切る道路をひた走ること約2間、真っ青な紅海に出る。地中海に面した都市アレキサンドリアまでは約3時間。かつてはもっと距離感があったことだろう。だから、カイロでは海の魚を使った料理があまり盛んでないのもうなずける。
エジプト人がよく食べる代表的な魚は、現地でブルティーと呼ばれる淡水魚のティラピア。焼いたり、揚げたりして調理するが、淡白な白身でなかなかいける。アラビア語の家庭教師だったエジプト人男性ムハンマドさんは、少年時代にイスラム教の聖典コーランを全文暗記した頭脳の持ち主だが、魚の名前はブルティー以外知らないという。「魚は魚だ。魚レストランでは魚が食べたいと注文するよ」と無頓着。ムハンマドさんが育ったカイロ南方のバムハー村を訪ねて納得した。田園地帯にある村では、鶏が走り回り、水牛やロバ、ヤギが家の近くで飼われていた。出された食事も村で収穫された野菜に牛肉が載ったピラフ。海から遥か離れたこの地では、ナイル川の魚は手に入ったとしても、海の魚を食べる機会はほとんどないはずだ。
カイロにはもちろん、魚レストランがあり、魚屋も氷の上にたくさんの魚を並べている。だが、多くの商店に並ぶのは、目が白濁してお腹がぶよぶよとなった鮮度落ちした魚ばかり。現地の人たちの魚調理法は、焼くか油で揚げるかがメイン。またはオーブン焼きにしたり、煮込んだりしたりして火を通す。もちろん、カリッと揚がった小魚やイカにレモンを絞って食べるのはうまい。
近年、エジプトでもスシ屋が増え、生魚も手軽に味わえるようになった。高級和食店も出てきて、カイロの夜は以前に比べて華やかだ。富裕層向けの食材店も進出し、冷凍の鮮魚や生食可能なオイスターも手に入る。
だが、やはり何種類もの鮮魚を味わいたい。となると、車を2時間以上も走らせるしかない。国際海運の要衝スエズ運河の入り口に当たる都市スエズの郊外にあるアタカ港に行ってみると、紅海や東アフリカの海域で漁獲された魚が水揚げされ、町の中心部にある市場に並んでいた。カイロでは絶対にお目にかかれないような新鮮な魚が山積みにされており、魚好きの筆者は、極度の興奮状態に陥った。
魚に無頓着なエジプト人が多い中、紅海沿岸に住む人たちは海に面した人々らしい食文化を持っている。市場には、生きたウミガメやロブスター、カニ、シャコ、活エビ、貝の数々。魚介類に対して驚くほど貪欲だ。スエズの緯度は、北緯29度58分と日本で言えば屋久島とほぼ同じ。漁場はスエズの南方海域になる。だから魚は、琉球諸島や伊豆七島、小笠原諸島周辺で漁獲されるような種類と重なる。
本州に住む筆者だが、八丈島に釣りに行ったり、沖縄に観光に行ったりするので、スエズの市場に並ぶ魚は馴染み深いものも多い。ムロアジやフエフキダイ、ブダイ、オキザワラ、グルクマー、スマ、アオリイカ、太刀魚など那覇市の牧志公設市場で売っているような魚が並ぶ。スマは鮮度落ちが早く、漁獲量も少ないため、日本では幻扱い。クロマグロに近い味わいで、さすがに刺身にするのは見極めが必要だが、5キロ以上もある1匹が500円前後と格安だ。
南方系の魚は、脂の乗りが悪く、淡白な魚が多いのも事実とはいえ、スマやアオリイカ、グルクマーは鮮度が良ければ絶品。グルクマーは、サバとアジを足して2で割ったような見かけ。刺身にしてもいいし、焼いてもほんのりと脂が浮いてくる。このような本州ではなかなか見かけない味覚をエジプトでは意外に手軽に味わえた。住んでいた時には、2カ月に一度は、スエズの市場に買い出しに行くのが習わしだった。
さらに、季節によってはナマコやシャコガイも市場に並ぶ。このオオシャコガイは、沖縄周辺の海域ではほぼ絶滅してしまった、とても貴重な貝。スエズの市場では山積みされて売られていた。シャコガイは光を食べる貝とも言われ、体内に取り込んだ褐虫藻と呼ばれる藻の仲間を住まわせて共生し、何十億もの藻が光合成によって作り出すタンパク質や糖分を食べる。時には貝殻の大きさが2メートル以上、重さ200キロ以上に成長する。こうした貝が生息できるのも、透明度の高い紅海の環境があってこそ。
このオオシャコガイは、貝好きにはたまらない旨味がある。外套膜といわれる部分はコリコリしていて海のエキスを濃縮したような味わい。それに対して、貝柱は比較的あっさりしているものの、似たような形のホタテよりも味わいは濃い。内臓と外套膜、貝柱を切り刻んで塩辛にして保存できるので、貝殻の大きさが30センチを越すオオシャコガイを数個買い込んだ。基本的に生の魚介類を食べないエジプト人は、このオオシャコガイをスープにして食べるという。私にとっては、なんとも、もったいない話だ。市場には、身が取り除かれたオオシャコガイの貝殻が山積みにされていた。
カイロの和食店の料理人と魚談義していたところ、職人は「紅海は海流が弱く、水温も高いので魚の身が引き締まっておらず、水っぽい。それに比べて地中海は海流もあって魚の身の締まりが違う」と、地中海で水揚げされる魚に太鼓判を押した。確かに、職人が唱える説にも一理あるのかもしれない。が、南方の魚に馴染みのない本州で修行したための偏見ではないかというのが筆者の見方だ。南方にも、うまい魚は数多く存在すると声を大にして言いたい。
エジプト南東部の紅海に面したハルガダの魚市場でも、新鮮なタコを見つけて小躍りしたことがある。市場の屋台食堂で料理してもらった。現地の調理法でお任せ料理を頼んだところ、トマト煮込みと唐揚げになって運ばれてきた。火を通す料理で日本人としては少し残念だが、衛生的な観点からは一安心。トマトにたっぷりの青唐辛子とオリーブオイルを加え、オーブンで焼き上げたタコ料理は、タコの旨味いっぱい。肉料理のイメージが強いエジプトでも、海岸沿いの人たちは海産物をよく食べる。
今年初めに移住した三重の山奥は、今年の梅雨明けが遅いこともあって、強い湿気にうんざり。エジプトの太陽が懐かしい。菜園で育てているイタリアン・トマトや唐辛子などの野菜も、どうも勢いがない。そんな野菜だが、旬のアジやスパイスを使って、エジプトでよく食べられている魚のオーブン料理をつくってみた。パンチの利いたスパイス、クミンやターメリック、パプリカ、唐辛子でまぶした魚料理は、長引く梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばすような味わいだった。