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「アフリカのチェ・ゲバラ」トマ・サンカラ ブルキナファソの国名に込めた思い

アフリカを旅する 更新日: 公開日:
トマ・サンカラの弟、 バランティンさんが住む自宅には、若い頃の家族の集合写真が掲げられていた。1970年代前半に撮られたものだという。サンカラは左上、バランティンさんは後列中央=3月4日、石原孝撮影

日本から遠く離れた西アフリカのブルキナファソで1987年10月、一人の指導者がクーデターで命を落とした。トマ・サンカラ。当時、37歳の若さだった。国名の名付け親で、汚職の撲滅や女性の社会進出といった改革を進め、「アフリカのチェ・ゲバラ」とも呼ばれた。彼を英雄と慕う若者たちは今、首都ワガドゥグで記念館の建設計画を進めている。

3月上旬、首都ワガドゥグを車で走っていると、「メモリアル トマ・サンカラ」と書かれた文字が目に付いた。テープが巻かれた像も造られていた。台座も入れると、高さは約9メートルにもなる。

トマ・サンカラ記念館の建設予定地には、テープで巻かれたサンカラ像が立っていた=3月3日、石原孝撮影

記念館の建設を計画している協議会のメンバー、ティールロイ・コナティさん(28)は「私たちの英雄であるサンカラの像を造ったんだ。5月中旬にお披露目する予定だ」と言った。

協議会のメンバーは、ブルキナファソや周辺国の若者たちから資金を募り、像以外にも図書館や博物館の建設を予定している。コナティさんはサンカラ暗殺後に生まれたが、当時の様子を知る両親や親戚に功績を教えてもらったという。「サンカラは特別な存在。他の政治家が高級車を乗り回していた中で大衆車を使ったり、時に自転車を使ったりしていた。演説もうまくてカリスマ性があった」と語った。

トマ・サンカラ記念館の建設計画を進める ティールロイ・コナティさん (左)ら=3月3日、石原孝撮影

サンカラは1949年、フランスの植民地だったブルキナファソの家庭の長男として生まれた。母国は60年8月に独立したが、政情不安や汚職がはびこり、クーデターが繰り返された。

軍人になったサンカラは、隣国マリとの武力衝突で頭角を現し、首相に就任。反帝国主義や社会主義路線を掲げた。83年、盟友だったコンパオレらがクーデターを起こし、サンカラは33歳の若さで国の指導者の座に就いた。

トマ・サンカラの記念館の建設計画が進む建物=2019年12月21日、中野智明氏撮影

米国とソ連による冷戦下において、サンカラは大国からの援助の依存度を減らし、公務員の給与や出張費の経費削減、予防接種や識字率の向上を進めた。当時としては珍しく、女性の政界進出にも力を入れ、警備もつけずに乗り合いバスに乗るなど、国民との関係の近さもアピールした。

翌年には、国名をオートボルタから現在の「ブルキナファソ」に改名。現地の言葉で「高潔な人々の国」という意味だ。その名の通り、汚職とは無縁のクリーンさが彼の売りだった。

弟のバランティンさん(65)は、「多くのアフリカの指導者と違い、トマは私たち家族が政治に関与することを嫌い、『自分たちで働け』と言っていた。両親が住む自宅も質素なままだったし、恩恵を受けられない家族の中には、彼のやり方を理解できない者もいた」と打ち明けた。

トマ・サンカラの弟、 バランティンさん。両親も住んでいた首都ワガドゥグの自宅で取材に応じてくれた=3月4日、石原孝撮影

政策は彼とその側近を中心に決められ、多様な政党が意見を交わす民主的な政治とはほど遠かった。利権を失った人からは反発を受け、盟友だったはずのコンパオレに裏切られ、サンカラは暗殺された。

彼の死後、コンパオレは大統領として長期政権を率いたが、2014年の反政府デモで辞任に追い込まれた。一方、 この世を去って30年以上が経過してもなお、サンカラの人気は根強く、国民の心にそっと宿っているようだ。ワガドゥグでは、彼の写真入りのシャツが露店で売られ、普段着として着ている人も見かけた。

トマ・サンカラの生誕70年だった昨年12月21日、ブルキナファソの首都ワガドグのバス停で、サンカラのTシャツを着た男性ら=中野智明氏撮影

ブルキナファソはいま、イスラム過激派組織「イスラム国」 (IS) などが台頭し、隣国との国境を中心に襲撃事件が相次ぐ。犠牲者は増え続け、約76万人が避難生活を余儀なくされている。バランティンさんは「トマは不正義を嫌い、清廉で正直者だった。彼が生きていれば、ブルキナファソはもっと平和で、発展していただろう」とつぶやいた。