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若き革命家大統領の死から30年

アフリカ@世界
大統領だった故トマ・サンカラの写真を掲げるブルキナファソの人々=ロイター
大統領だった故トマ・サンカラの写真を掲げるブルキナファソの人々=ロイター

アフリカのチェ・ゲバラ

 今から30年前の1987年10月15日、サハラ砂漠の南側に位置するブルキナファソという小国で、後に「アフリカのチェ・ゲバラ」と呼ばれることになる男性が凶弾に倒れた。トマ・サンカラ(Thomas Isidore Noel Sankara)、享年37歳。その4年前、33歳で就任した同国の若き大統領であった。
 サンカラは腐敗した独裁政権があふれていた80年代初頭のアフリカにさっそうと登場し、数々の改革の断行によってブルキナファソの庶民から圧倒的な支持を得た。腹心による暗殺で、その治世はわずか4年2カ月で幕を閉じたが、非業の死から30年が経過した現在も、サンカラは人々の間で「英雄」として語り継がれている。

 サンカラは1949年12月21日、現在のブルキナファソの首都ワガドゥグの北およそ100キロに位置する小さな村で生まれた。
 彼が生まれた当時、ブルキナファソはフランスの植民地支配下にあったが、彼が10歳になった60年に「オートボルタ」という国名で独立した。内陸国の同国にはこれといった産業もなく、多くの国民が南側の隣国コートジボワールへの出稼ぎ労働に依存する世界最貧国の一つで、独立後は腐敗した文民政権の登場と軍事クーデターが繰り返された。

 19歳で国軍に入隊したサンカラは、隣国マリとの軍事衝突での活躍などで頭角を現し、国民の間で広く知られた存在となった。82年11月のクーデターでウエドラオゴ政権が成立すると、サンカラの国民的人気に着目したウエドラオゴは彼を首相に任命したが、首相となったサンカラがリビア、アルジェリア、キューバなど社会主義陣営に接近すると、旧宗主国フランスはサンカラを危険人物と見なした。
 フランスの意を受けたウエドラオゴはサンカラの身柄を拘束して軟禁状態に置いたが、サンカラの盟友だった軍人仲間のコンパオレらが83年8月4日のクーデターで政権を掌握すると、解放されたサンカラは33歳の若さで新政権の大統領に就任した。

国名を地で行く清廉さ

 サンカラが政権を掌握した軍事クーデターは、同国の独立以来5度目であった。当時のアフリカでは軍事クーデターが半ば年中行事と化しており、「汚職の追放」や「世直し」を掲げてクーデターで政権を掌握した指導者が、やがて自らも汚職まみれの独裁者と化し、最後はクーデターで打倒されるという、お決まりのコースが大陸中にあふれていた。

 ところが、サンカラは違った。

 就任の翌年、サンカラは国名を、それまでのフランス語の「オートボルタ」から、この地の人々の主要言語(モシ語とディウラ語)で「高潔な人の国」を意味するブルキナファソに変更した。数々の改革を断行したサンカラは、彼の政策に賛同しない人々からも後に「サンカラは一切私腹を肥やさなかった」と評されるほどカネにきれいな姿勢を貫き、その新国名を地で行く清廉な政治指導者として、人々に語り継がれることになったのである。サンカラの改革について研究した立命館大学の岩田拓夫准教授(アフリカ地域研究)は、論文で次にように記している。

 「サンカラの他の指導者との決定的な違いは、権力を私欲に向けることなく、言葉だけでなく革命を自らの身で示し続けたことである。独立前から続いてきた既得権益を否定し、社会的弱者の権利を拡大することによって、より平等な社会を実現しようとするサンカラの政治的理念は大衆の心を強く動かした」(岩田拓夫「アフリカの革命政権再考 トマ・サンカラが遺したもの」宮崎大学教育文化学部紀要 社会科学第19号、2008年)

 サンカラは自らの公用車をドイツの高級車ベンツからフランスの大衆車に交換し、里帰りには公共のバスを使った。警備もつけずに徒歩や自転車で外出し、航空機による移動はエコノミークラスを使うこともあったという。特権層だった公務員給与の減額、公務員向けの無料官舎の廃止、汚職の摘発を徹底して進め、国民の喝采を浴びた。

 こうしたサンカラの振る舞いを、国民向けのパフォーマンスとみる向きもあるだろう。しかし彼は、不足する財源を公務員手当の削減で捻出するために自らが率先して範を示し、国家元首であるにもかかわらず月給はわずか46万CFAフラン(当時の為替レートで約18万円)に過ぎなかった。資産は持たず、2006年にフランスのテレビ局が制作したドキュメンタリーに映し出された彼の自宅は、アフリカの庶民が暮らす土造の粗末な平屋家屋であった。

「援助漬け」からの自立

 サンカラは、サヘル地域で最も深刻な感染症である脳髄膜炎、ポリオ、麻疹などの予防注射を90%の子供に実施し、世界保健機関(WHO)から称賛された。
 ブルキナファソ国民の8割が農民であったにもかかわらず、その農法は前近代的で、農村開発は独立以来手付かずの状態であった。そこでサンカラは、農業技術の改良に予算を集中投下し、灌漑(かんがい)のための小規模ダムの建設、村々での井戸の掘削などを進めた。
 その結果、1ヘクタール当たり1.7トンだった小麦の収穫量は、3年間で3.9トンに増えた。生産性の低さゆえに飢餓が慢性化しているブルキナファソのような乾燥地域で、この急激な増産は驚くべき成果であった。
 独立以来、初めてとなる鉄道を同国に建設したのもサンカラであった。筆者は1991年にブルキナファソを訪れた際、この鉄道に乗ったことがある。

 改革は続いた。男尊女卑の風潮が根強いサブサハラ・アフリカにおいて、彼は初めて女性の閣僚を登用し、政府の要職に次々と女性を就任させた。女性を加工業に進出させる一方、男性にも家事を担わせることが人々の意識を変える起爆剤になると考え、男性を市場に買い物に行かせる日まで設定した。農村地域では女子割礼が一般化していたが、衛生状態の悪さから感染症を引き起こすことが問題になっていたために、サンカラは女子割礼を禁止した。一夫多妻婚の禁止、避妊の奨励などを通じて女性たちから圧倒的な支持を獲得した。

 サンカラは「援助を受けるということは、援助をする国の言いなりになることだ」との信念を持ち、海外からの援助を安易に受け入れることを拒否した。西側諸国からの援助だけでなく、ソ連からの食糧支援を拒否したこともあった。
 サンカラが目指したのは「援助漬け」になってきたアフリカ人の自立であった。1984年に国連総会出席のためニューヨークを訪れたサンカラは、多数の黒人が暮らすハーレムを訪れ、米国の黒人の貧困を目の当たりにした。そして総会での演説で「黒い肌をしているだけで、あるいは文化が異なるというだけで、ほとんど動物と変わらない扱いしか受けていない数百万人のゲットーの人々を代表して私は語りたい」と切り出し、アフリカ各国の指導者が援助依存から脱することの重要性を訴えた。

フランスからは「危険人物」

 このように書いてくると、サンカラの有能さと善行ばかりが際立って見えるが、彼の改革は多数の問題も内包していた。

 ブルキナファソでの独立後初の鉄道は住民の勤労奉仕によって建設されたものであったが、作業への参加は半ば強制されたものであった。
 農村の地主や宗教指導者はサンカラ政権下で「人民の敵」として扱われ、農作業を強制された。だが、貧しい農民たちに歓迎された政策かと思いきや、現実はそう単純ではなかった。人々の尊敬を集めていた宗教指導者までもが労働を強制されたことに対し、貧しい農民の間に農村の伝統的秩序を否定されたことに対する反感が広がったのである。

 公務員給与の削減や各種特権の剥奪は国民の支持を得たが、公務員の士気は低下し、行政の質は下がった。また、サンカラは「革命の重要性」を子供たちに教えるために、学校での革命教育を推進したが、多くの教員はこれに反発した。するとサンカラは1400人もの教員を解雇し、にわか仕立てのアマチュア教員たちが代わりに教壇に立った。学校での教育水準が低下したことは言うまでもない。

 汚職の摘発が国民の喝采を浴びたことは事実だが、その手法には問題があった。近代の法治国家では通常、捜査機関の側が裁判を通じて被疑者の罪を証明しなければならない。だが、サンカラ政権下の汚職摘発はその逆だった。政権側から被疑者と見なされた者は、捜査機関に対して自らの無実を証明しなければならなかった。それは、政権側から「犯人」のレッテルを一度貼られたら終わりであったことを意味した。

 サンカラは既得権益を失った中間層、富裕層、伝統的首長たちから恨みを買い、旧宗主国フランスはサンカラを危険人物と見なした。1987年10月15日午後4時過ぎ、腹心であり友人でもあったコンパオレの指揮下にある軍の空挺部隊が大統領官邸の会議室にいたサンカラを射殺した。コンパオレは大統領職を継承し、2014年11月に国民の反政権デモに直面して辞任するまで27年間独裁者として君臨することになった。

いまも人々の記憶に

 30年前にサンカラが進めた改革を振り返る時、何が見えてくるだろうか。
 サンカラはマルクス主義者だった。彼が大統領の座にあった83~87年とは、東側陣営の行き詰まりが明らかになり、ソ連でペレストロイカが始まった時代だ。サンカラが暗殺されることなく権力の座にとどまり、東西冷戦終結という時代の流れに逆行して左派色の強い改革を続ければ、やがて行き詰まったであろうことは想像に難くない。政治家であれ映画俳優であれ、若くして非業の死を遂げた人物が過度に英雄視されることを思えば、サンカラもその例外ではないだろう。彼の進めた改革が、彼の非業の死によって「偉業」になった面は否定できない。

 また、行き過ぎた「公務員叩き」や「既得権の剥奪」が生みだす弊害は、普遍的な問題として今日の日本にとっても示唆に富むものと言えるかもしれない。社会全体が閉塞感に包まれると、身分も収入も安定した公務員や、地主のような既得権層は怨嗟の的になりやすい。これを叩けば、確かに溜飲を下げることはできる。だが、それで社会が良くなるか否かは別の問題である。

 一方、サンカラが時代遅れのマルクス主義者だったとしても、彼の実行した政策は、今日のアフリカでこそ必要とされている政策である。農産物の生産性向上、女性の地位向上、汚職の摘発とガバナンスの改善、非効率な政府部門の改革、援助依存からの脱却――。30年前に断行すれば「危険な共産主義者」のレッテルを貼られたこれらの政策を、今や世界が当然のこととしてアフリカ諸国に求めているのは歴史の皮肉である。
 男尊女卑を改めることの重要性などは、アフリカだけでなく日本を含む世界全体にとっての課題である。丸の内や大手町に本社を構える日本の大企業が女性の総合職をまともに採用する気がなかった80年代前半に、アフリカの最貧国で女性の閣僚や高官を次々と誕生させたサンカラの先見性は見事というほかない。

 サンカラが暗殺された時、ブルキナファソで取材していたAFP通信の記者は「こんなに大勢の人が通りで号泣している光景を初めて見た」と語っている。ロックバンドのエレキギター奏者でもあった若き革命家大統領は、その死から30年が経過した今もブルキナファソだけでなく多くのアフリカの人々の記憶に残っている。