二重生活支える「世界一」の定時運行
京都の大学で教鞭を執ることに伴う東京との二重生活が、7月で4カ月目に入った。
毎週月曜午前6時前に東京都内の自宅を出て、午前7時前に東京駅から新幹線に乗車し、午前9時過ぎに京都駅に着く。その後、JRの在来線と京都市バスを乗り継ぎ、大学到着は午前9時55分ごろ。午前10時40分から始まる講義に十分間に合う。4泊5日の京都暮らしを終えた金曜日には、昼過ぎに大学を発ち、午後4時半過ぎには東京都内の自宅に戻る。
東京に自宅を構えながら関西の大学で教壇に立っている人を、私は何人も知っている。東京・京都間は新幹線の営業距離で513.6キロ。決して近くはない2都市での生活を可能にしているのは、「世界一」と断言しても差し支えない日本の交通機関の定時運行だ。各交通機関を効率よく乗り継いでいけば、自宅から大学まで所要約4時間。このような「離れ業」を可能にしてしまう交通機関を有している国を、私は他に知らない。
だが、完璧な定時運行の新幹線に感謝しながらも、しばしば思うことがある。超高速鉄道を秒単位の正確さで運行している人々のストレスは相当なものではないのか。新幹線だけではない。日本中の全ての交通機関が、基本的には寸分の狂いもなく毎日走り続けている。消費者にとっては「天国」ともいえる定時運行も、サービスを提供する側にとっては、およそ「人間的」とは言い難い過酷な労働環境ではないだろうか。
筆者がそんなことを考えるようになったきっかけは、南アフリカに家族で駐在していた13年前に、日本国内で発生した大規模な鉄道事故であった。
南アフリカでも話題になったJR脱線事故
2005年4月25日、兵庫県尼崎市で、JR西日本の福知山線の列車が通常の速度を大幅に超過し、カーブを曲がり切れずに線路脇のマンションに突っ込み、107人が死亡した。事故は当時、南アでも報道され、子供が通っていた南アの小学校の保護者の間で話題になった。
何よりも南アの人々を驚かせたのは、列車が速度超過に至った背景であった。JR西日本は、同じ区間を並走している私鉄との競争にさらされており、所要時間短縮や運転本数増加に血道を上げ、安全対策が後手に回っていたと考えられること。事故車は直前の駅で定位置に停車できず、列車が遅れ、車掌が乗客から苦情を受けたらしいこと。この運転士が過去に似たようなミスを犯し、会社から懲罰を受けていたこと。追い詰められた運転士が遅れを取り戻そうとして、規定以上の速度でカーブに進入した可能性があること───などだ。
「乗客も会社も、数分の遅れでそこまで運転士を追い詰める必要があるのか」。南アの人々の反応をひと言で表せば、そういうことであった。筆者の経験から言って、南アの人々だけでなく、他のアフリカ諸国の人々も同様の反応をすることは確実だった。いや、世界のかなり多くの国の人々が、同様の反応を示すかもしれないと思った。
日本の定時運行を可能にしているのは、第一義的には鉄道会社で働く人々の技能や職業意識の高さだろうが、それだけではない。そうした技能や職業意識の高さの精神的・文化的な土台になっているのは、幼少期からのしつけや教育の中で時間をかけて日本人に刷り込まれている「時間厳守」「規律ある行動」といった規範意識や行動様式に違いない。すなわち、生活のあらゆる場面で整然たる秩序を重視する「まじめさ」である。
「まじめさ」は、鉄道会社で働く人だけでなく、定時運行のサービスを常識と見なす無数の利用者=圧倒的多数の日本人=に共有されている。小学校の朝礼で「前へならえ」の号令で児童を整列させるような日本型のしつけや教育の仕方が、人口稠密社会を生きる我々に、整然たる秩序を形成する意思と能力を与えている。その結果、我々は「遅れ」や「混乱」を互いに許さず、消費者として快適なサービスを享受している。
「まじめさ」は、設定された目標に向かって計画的・効率的に組織を運営していく際には極めて有利に働く。製品の効率的大量生産を柱とした高度経済成長は、まさにこの産物だった。また、災害時にも整然と物資の配給を受けとることができるような、世界から賞賛される行動様式の根底にも、秩序を尊ぶ「まじめさ」が作用しているだろう。
気になるのはその「余裕のなさ」
他方、この意識と行動様式には弱点もあると、私は考える。「まじめさ」が極限まで徹底されていくと、「余白」「遊び」「のりしろ」などは、ほとんど存在不可能である。
精神的・時間的な余裕を欠いた社会は、なかば必然的に、精巧だが脆弱なガラス細工の如きものとなる。福知山線の事故は、日本社会の「余裕の欠如」が最も悲惨な形で顕在化したケースに思える。事故直後、日本からの報道の中に、JR西日本の「ずさんな体制」を問うものが目立った。だが、南アの人々との付き合いの中で、自らの意識と行動様式を相対化する機会を得ていた私には、この事故は、むしろ「ずさん」の対極にある「まじめさ」が招いたように思えてならなかった。
サービス残業の常態化。異様な長時間労働の末の過労死。学校でいじめられても学校に行くことをやめられず、挙句の果てに自ら命を絶ってしまう子供。こうした日本社会の様々な悲劇の根底に、我々の過剰な「まじめさ」が生み出す「余裕の欠如」があるのではないかということを、私はアフリカの人々との付き合いの中で感じてきた。
ここに記した内容と同じような話を、私は10年前に、当時勤務していた毎日新聞の紙面に執筆したことがある。福知山線の事故への南ア人の反応を題材に、日本人の行動様式に潜むリスクに言及した内容だった。
大方の読者は拙稿に好意的な反応を寄せて下さったが、「そんなにアフリカが良ければ日本から出ていけ」という反応も少なからずあった。コラムにどのような感想を抱こうとも自由だが、私が気になるのは、自分の気に入らない他者の意見や行動に対して、すぐに敵意をむき出しにする、その「余裕のなさ」が日本社会に増殖していくことである。