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医療通訳を広めたい 日本育ちの外国人、自分だからできることをやる

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
自身が来日した時と同じ年齢になった長男のガブリエルと。転がってきたボールを笑顔で投げ返す=2019年3月、東京都内、鬼室黎撮影

「ランゲージワン」社員・医療コーディネーター、セサル・カブレホスさんの「突破する力」 16歳で息を引き取った息子に、母親はしがみついて泣き、父親は拳で床を何度もたたいた。23年前、静岡県内の病院。当時、高校生だったセサル・カブレホスは、スペイン語の通訳としてその場に立ち会い、一緒に涙を流した。亡くなったペルー人の少年は、親友だった。
1990年の入管法改正で、ブラジルやペルーから大勢の日系外国人が日本に移り住んだ。「移民政策はとらない」が建前の日本で、公共サービスを多言語で提供する考えは広まっていなかった。日本語に苦労する大人たちのため、しばしば通訳の役割を担わされたのが、言葉を覚えるのが早い子どもたちだ。

11歳でペルーから来日したセサルも、その一人。埼玉県内で暮らし始めて1年ほど経った頃、幼い弟が車にはねられ大けがをした。「脳の前頭葉という部分に血の塊が……」。かろうじて理解できた医師の言葉を、両親に伝えた。「よくやったし、(病院側が)よくやらせたなと思いますよ」。それが話題になり、日系人コミュニティーの中で通訳にかり出されるように。末期がんの若い母親に余命を宣告する。そんな修羅場も経験した。

そして40歳で4児の父になったセサルはいま、多言語の電話通訳サービスを提供する日本企業「ランゲージワン」の営業部に勤める。同社は、国籍も様々な数十人が24時間態勢で詰める都内のコールセンターで、日本にいる外国人たちのため、医療など高い日本語能力が求められる場面で通訳してくれる。セサルの仕事は、このサービスを全国の官公庁や公的な団体などに売り込むことだ。

不良仲間は日本語を一度も笑わなかった

ペルーの首都リマ郊外で、日系の母とスペイン系の父の間に生まれた。父は薬品会社の営業で暮らしは悪くなかったが、80年代後半、ハイパーインフレや治安の悪化でペルーは混乱。一族で日本への移住を決めた。成田空港は期待通り近代的で、初めて目にする自動販売機でジュースを買った。だが、埼玉県内の寒くて狭いアパートに着き、夢はしぼんだ。両親は弁当工場で働き、セサルはペルーで終えた小学6年からやり直すことに。日本語が話せず、学校では浮いた。ある日、大好きな祖父にもらったペンダントをつけているのを同級生にとがめられた。「日本の学校ではだめなんだぞ」と引っぱられ、チェーンがちぎれた。こみ上げる悔しさと寂しさ。初めて日本で泣いた。

日本語が分かるようになると、けんかもした。中学時代は不良っぽい仲間たちともつきあった。「彼らに守られていた部分もあった。それに、僕の日本語を彼らは一度も笑わなかった」

中学3年生の頃に弟(右)とセサル=本人提供

両親の仕事の都合で静岡県に引っ越し、工業高校を卒業する直前、同じ日系ペルー人のソフィア・フォンセカと結婚した。共に20歳。地元の工場で派遣社員として働きながら、週末はレース用に改造した車を仲間と乗り回した。稼ぎのほとんどを車につぎ込み、プロレーサーを夢見た。だが、長女を身ごもったソフィアの怒りがとうとう爆発する。「事故で自分が死ぬのはいいけど、一生寝たきりにでもなったら、どうするの!」

「走り屋」を卒業し、「正社員になる」というささやかな目標を支えに就職活動を始めるが、断られ続けた。「日本人がほしい」と言われた。東京に行こうと持ちかけたのは、妻だった。このままでは、子どもたちも夢を描けそうにないと感じていた。

子どもの時から機械が好きで、10代後半になるとバイクや車にのめり込むようになる。レーサーか整備工場を持つのが夢だった=本人提供

大手企業での戸惑い、聖書を支えに耐えた

2006年、初めて通訳の正社員として採用されたのは、ダメ元で受けた東京の多言語コールセンターを運営する会社だった。コンピューターに強いセサルは、システムエンジニアとして大手電機メーカーへ出向する機会をえた。思いもよらない有名企業での勤務で待っていたのは、話し方からメールの改行位置までいちいち注意される毎日。ふさぎ込むこともあったが、幼いころから親しんだ聖書を支えに耐え抜いたおかげで、ビジネスマンとして日本で生きるのに必要な作法が身についた。

「通訳の仕事しかしない」と腹をくくったのも、この頃だ。同じ仕事をしている出向先の社員がマンションを買った。自分にはとても手に届かない金額だった。すでに3人目の子も生まれていた。彼らに勝つには、自分しかできないことをするしかない。

11年、上司や同僚たちと、現在勤める多言語コールセンターの前身を立ち上げた。通訳の現場をとりまとめていたセサルを営業部に誘ってくれたのは、同僚の高橋恵介(52)だった。牧師でもあり、在日外国人問題にも理解が深い高橋は、セサルの良き相談相手だ。「高い自己像を持っているようだった。いろんな世界を見せたいと思った」

コールセンターで笑顔を見せるセサル・カブレホス=2019年3月、東京都内、鬼室黎撮影

誰もが安心して暮らせる社会を

営業を任されたセサルは、水を得た魚のようだった。言葉の壁に悩む外国人住民たちが、安心して暮らせる社会をつくる。いち営業マンでも、社会を動かせる。新しい夢ができた。

12年には119番通報で、さいたま市消防局と24時間対応の通訳システムを実現した。「丁寧な日本語を話す一方、おちゃめな面もあるセサルと会えば、『こういう人が通訳なら』と、相手は安心する」と高橋。指令センターや救急隊員、通報者、通訳を電話で結ぶシステムはその後、全国に広がった。

セサルが特にこだわってきたのが、幼い頃に自分も苦労した、医療通訳の普及だ。医療コーディネーターとなり、通訳者の研修を担った。高度な知識や経験が必要とされるため、ランゲージワンでは原則、正社員にしている。人件費がかかるため、留学生らのアルバイトを使っている他社に入札で負けたことは数知れず。それでも「ここは譲れない」。

自身が来日した時の年齢と同じ11歳になった長男のガブリエル君と。時折、笑顔がこぼれた=鬼室黎撮影

「自分の役目は新しいものをつくること」というセサルが、いま力を入れるのは災害対応だ。これまでも会社は大きな災害時に、無料でサービスを提供してきたが、ほとんど利用されていなかった。自治体の実動訓練に参加し、どうすれば外国人被災者にサービスを伝えられるか考えた。18年9月の北海道地震では、役所を通じて避難所の管理者に専用電話番号を伝えた。旅行中に被災したアメリカ人らから20件以上の利用があった。

「せっかく良いシステムがあっても、使われないのは日本の社会の問題だ」。多くの公的な機関が提供している多言語通訳サービスについて、もっと外国人の住民や旅行者に知ってもらおうと、セサルは霞が関や各国大使館・領事館に足を運ぶ。しかし、ぶつかるのは縦割りの壁だ。「うちの担当でない」。その一言で、先に進まなくなってしまう。

「そこであきらめたら、日本では何もできないよ」。最近、東日本大震災でいち早くボランティア活動を始めた日本在住のイスラム教徒の男性にそう言われた。「これだ、って思いましたね」

日本で育った外国人だからこそ、日本のためにできることがある。そう信じて、セサルは今日も営業に向かう。(文中敬称略)

■Profile

  • 1979 ペルー・リマ郊外で生まれる。母方の祖母が日本人で、日系の学校に通う
  • 1990 ペルーの経済や治安が悪化し、父親が出張中に武装勢力に拘束されたことなどもあり、親戚らも合わせて20人以上で日本に移住。埼玉県朝霞市の小学校、中学校で学ぶ
  • 1995 静岡県富士市に引っ越し、県立沼津工業高校に通う
  • 2000 ソフィア・フォンセカと20歳同士で結婚。高校卒業後は専門学校で情報処理などを学び、ゴムや金属加工などの工場で派遣社員として働く。趣味のカーレースに熱中する
  • 2003 長女の誕生をきっかけに、カーレースをやめる
  • 2006 東京の多言語コールセンター会社に通訳として就職。システムエンジニアとして大手電機メーカーへの出向も経験
  • 2011 「ランゲージワン」の前身となる多言語コールセンターの立ち上げに参画。119番通報や医療通訳のサービスに携わる
  • 2015 「ランゲージワン」が設立される
  • 2016  通訳やコールセンターのマネジメントから営業の仕事に変わる

■Memo

宗教と哲学…カトリック信者。ペルーにいた幼い時は毎週日曜の朝、祖父に聖書をみっちり教え込まれた。「不良になりきれなかった」と言うのも、キリスト教のおかげだと考えている。夢を失った時や、慣れない会社生活で気持ちがふさいだ時も、聖書が心の支えだった。工業高校時代は数学の先生の影響で哲学にはまり、大学で学びたいと考えたこともあったという。

医療通訳…国家資格はないが、国は認定制度の検討を進めている。自治体などが民間の電話通訳サービスと契約する他、外国人が多く住む地域を中心に、ボランティアの通訳派遣制度も広がりつつある。一方、子どもや友人らを通訳として頼る外国人が多いのも実情だ。近年はベトナム語やネパール語の需要が高まっているが、医療現場での高度な通訳ができる人材は不足している。

■連載「突破する力」は月1回掲載です。次回は6月11日(火)配信予定です。