タイトルを訳せば『思いやりの言葉』。副題は『あるナースの物語』。ここから連想されるのは、医療現場で活躍するナースの愛と涙の物語というほのぼのとしたイメージではないか。しかし本書によって揺さぶられる心の振幅はすさまじい。羊の皮をかぶった炸裂弾のような本だ。
1976年生まれの著者は16歳で学校を終えたあと、恋人をふくむ5人の男性と共同生活を始め、紆余曲折ののち看護学校を修了する。初めての採血で失神し、分娩見学で野獣のように叫ぶ妊婦に恐れをなして泣きだした著者が、看護師の使命と幸福を、その後20年間のエピソードを通して綴る。
例えば赤いコートを着た老女、ベティの話。彼女は夫を亡くしたあと、アパートに一人取り残され飲食もままならず、衰弱しきっていた。氷のように冷え切ったベティの身体を温風式加温装置に入れて暖める。著者は血色を取り戻し始めたベティの手を握る。上昇してきたベティの体温が、著者の体温と同じになった。その瞬間、著者は自分の腕がどこで終わりベティの腕がどこから始まるのかわからなくなる。ここは本書全体に通じるシンボリックな情景だ。看護師の仕事とは自分の魂の一部を分け与えること。
神秘的なエピソードもある。火事で重傷を負った12歳の少女ジャスミンは瀕死だ。家族が病院に向かっている。死に別れの瞬間になるかもしれない。煤と悪臭がこびりついた髪を、著者は同僚とともに洗う。そのさなかのある一瞬、著者が支えていたジャスミンの頭部がすっと軽くなった。著者は同僚と顔を見合わせ、その時ジャスミンが死んだことを確認した。
キャリアの多くを蘇生看護師として送った著者は、生と死の境目で患者と、そして患者の家族と全身全霊を使ってコミュニケートをしている。同情と感情移入に加えて相手にじっくり耳を傾ける能力の大切さ、それらが知識ではなく心からにじみだす思いやりであることを著者は説く。そして最も大事なのが患者の尊厳。とりわけ死を間近にした患者の尊厳を守ってやれるのは医師ではなく、患者の身体に触れ患者に耳を傾け、語りかける看護師なのだという。病気の子どもたち、その家族との触れ合いのエピソードは涙なしには読めない。
■「生き延びたアンネ・フランク」の手記
Edith Eger『The Choice』
高校1年のときに友人が貸してくれたフランクルの『夜と霧』以降、これまでホロコースト生存者の本は数十冊読んできたが、本書はその中でもずば抜けて印象深かった。
著者のイーディス・イーガーは、当時チェコスロヴァキア、暫くのちにハンガリー領となり、現在はスロヴァキアのコシツェという町に1927年に生まれたユダヤ人である。マグダ(ピアニスト)とクララ(バイオリニスト)のあと末娘として生まれた彼女は体操選手・バレリーナになる道を選ぶ。
彼女はオリンピックのハンガリー代表養成チームに入っていたが、ある日ユダヤ人であることを理由にチームからはずされる。これがその後一家を襲う悲劇の序章で、その直後両親と娘二人(たまたまクララはブダペストにいて無事だった)は逮捕されアウシュビッツへ移送される。闇を走る貨車の中で、母親が16歳の著者にささやく。「何が起きるかわからないけれど、これだけは忘れないで。あなたが心に刻んだことは誰も奪うことはできないということを」。アウシュビッツ到着後、悪名高き死の天使メンゲレ医師に間引かれた母は父親と共に即ガス室送りになる。一瞬にして孤児となったマグダと著者はアウシュビッツを生き延び、その後ドイツまでの死の行進の途中、死体の中からアメリカ軍歩兵師団に救出される。
救世主だった米兵に強姦されかけるという危機はあったが、それを最後に著者のホロコースト体験は終了する。ここまでが本書の3分の1で、それ以降は戦後共産圏となった東欧からの脱出、新天地アメリカでの生活が描かれる。両親と青春を失い、バレリーナになる夢も潰された著者は、ホロコースト体験を第二の人生に生かそうと心理学者になることを決意する。
42歳で大学を卒業し53歳で博士号を取得して医療心理の現場に立つ。この勉学の過程で、著者は多くの著名心理学者に出会いその薫陶を受けるが、ある日ヴィクトール・フランクルという人物から手紙が届く。誰あろう『夜と霧』の著者である。彼女が書いたエッセイに感銘を受けたフランクルとの文通が始まった。
ともあれ、遅咲きの心理学者ではあったが、アウシュビッツ体験との個人的格闘、そしてその折り合いを通じてPTSD(心的外傷後ストレス障害)に詳しい医療心理士としても活躍し、米軍基地での講演も頼まれる。そのひとつ、コロラドでアフガニスタン帰還兵を前に講演をしていたとき室内に貼られたエンブレムに注意を奪われ、彼女は笑いかつ泣き始める。ドイツで彼女を救出してくれた米兵がつけていた袖章と同じだったからだ。第2次大戦でドイツに侵攻した第71歩兵師団の本拠地だったのである。
本書後半では、このような円環がいくつも閉じられる。アウシュビッツ再訪も、三姉妹の再会もそうだが、最も心を打たれたのは1983年ドイツで開かれた言語治療学界の最終日のレセプションで、56歳の著者が78歳になるフランクルとダンスを踊るシーンである。「年老いた二人のダンサー。二人のアウシュビッツ生存者。生きながらえ、自由になることを学んだ二人」
アンネ・フランクは15歳のときに収容所で死んだ。彼女の『日記』読了後、アンネが生き延びていたら、というせつない空想を抱いた人は多かろう。著者は「死ななかったアンネ・フランク」として紹介されることがあると言う。確かに年格好もアウシュビッツへ移送された時期もほぼ同じで、頭の回転の早いアンネだったらこの著者に負けず劣らずの人生を送っただろう。だがそれは詮方なき夢想。著者が10年がかりで書きあげた本書は、アンネ・フランクをはじめとする犠牲者たちの死の意味と無意味とを、これまで以上に痛切に感じさせてくれる。
■やわらか頭の弁護士による「法廷観察記」
Sarah Langford『In Your Defence』
刑法と家族法専門のバリスター(法廷弁護士)による事件集。
病院と法廷は、この国の「プロフェッショナル回想録」というジャンル中の人気舞台だ。会計士の話よりは「医者か弁護士」の話のほうがスリリングだということだが、まあそれはおおむね当たっている。本書がほかの法廷物と違っているのは、その柔らかさ。訴訟の勝ち負けとか法廷弁論技術とは無関係だし、バリスターの栄誉みたいなものも感じさせない。
著者が自分で言うように、彼女はバリスターの多くが学ぶオックスブリッジやロンドンの大学ではなく、地方のマイナー大学の出身で、動機も単に刑事事件を覗いてみたかったからという素朴なもの。つまり普通の人と自認するバリスターによる、法廷に現れる登場人物全員に対する自然体での、しかし感受性豊かな観察記録と特徴づけることができる。
たとえば、性犯罪の嫌疑をかけられた60代男性デレク。罪状は「公衆便所での性行為」(こういう犯罪行為が特定されているのは奇妙だが、同性愛が最近まで犯罪だった英国文化の名残)。デレクが同性愛者であったことは間違いがないが、当該案件にかんしては無実だった。
だが裁判に出席し、自分の名前と同性愛者という事実が公になることを恐れ、デレクは公判前夜に自殺してしまう。彼はその前に家を片付け、友人らに別れの手紙を書いたと聞き、著者は嘆息する。LGBT一般化の時代に同性愛という事実の公表を死よりも恐れる世代に属したデレクに、そして「公衆便所での性行為」を罪として裁こうとする過去の遺物のような価値観が残っている英国法体系に。
バングラデシュからロンドン在住の同郷男性に嫁がされたサバ。ロンドンに到着するなりサバのパスポートは姑に取りあげられ、夫からは毎日毎晩暴力を受ける。何とか別居に持ち込むが、問題は娘の監護権。これを争う裁判となるが無事サバが勝つ。本件では、著者は裁判内容もさることながら、ほとんど英語を話せぬサバについた法廷通訳男性の紳士的な態度と細かな心遣いに心を打たれる。裁判終了後、肩をならべて駅に向かう二人の後ろ姿を見守るような著者なのである。
著者は本書の前半で「法律とはヒューマニティーなのだ」と言い、末尾では「法律とは人間がもたらす正義である」と言う。「法律は社会正義である」とか「法律は規制である」とは言わない。その認識はとても英国的なのかも知れない。もちろん著者独特の法律観でもあろうが、ヨーロッパ大陸法系の法律家の口からはなかなか聞けない言葉のような気がする。
英国のベストセラー
ペーパーバック、ノンフィクション部門 2月3日付The Sunday Times紙より
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 The Language of Kindness
Christie Watson クリスティー・ワトソン
波乱の10代から蘇生看護師として退職するまでの半生、患者へ捧げる魂。
2 This Is Going to Hurt
Adam Kay アダム・ケイ
産婦人科医を6年務めたあとコメディアンになった勤務医、秘密の日記。
3 Mary Queen of Scots
John Guy ジョン・ガイ
スコットランド女王メアリーとイングランド女王エリザベスの確執を描く。
4 How to Be Human
Ruby Wax ルビー・ワックス
女優兼精神衛生専門家によるマインドフルネス・マニュアル。
5 Sapiens 『サピエンス全史』(河出書房新社)
Yuval Noah Harari ユヴァル・ノア・ハラリ
人類の進歩を奇抜な切り口でさばく刺激的な本。全世界的ベストセラー。
6 The Choice
Edith Eger イーディス・イーガー
アンネ・フランクと同時期にアウシュビッツに収容された精神科医の手記。
7 Educated
Tara Westover タラ・ウェストオーバー
崩壊家庭に生まれ、登校経験のなかった女性がケンブリッジ大で博士号を取る。
8 Prisoners of Geography『恐怖の地政学』(さくら舎)
Tim Marshall ティム・マーシャル
10枚の地図で理解する世界の地政学。
9 Why We Sleep『睡眠こそ最強の解決策である』(SBクリエイティブ)
Matthew Walker マシュー・ウォーカー
食事よりも運動よりも大切な睡眠。それを最も効果的に取る方法。
10 In Your Defence
Sarah Langford サラ・ラングフォード
刑事専門バリスター(法廷弁護士)が感動的な法廷体験を綴る。