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【旅する記者⑨】上海特派員の激動の日々 激震の被災地、警察の拘束、そして新たな道

旅する記者 更新日: 公開日:
超高層ビルから眺めた上海の街並み=2007年6月5日、西村大輔撮影

中国留学を経て、2007年に念願の上海特派員となった西村大輔記者。しかし、待っていたのは高度経済成長の影に潜む中国社会の暗部や、四川大地震という歴史的大惨事の現場でした。相次ぐ警察の拘束、厳重な監視下のチベット取材など過酷な事態に直面する中、私生活でも大きな転機が訪れます。奮闘の第9話です。

 摩天楼の影に潜む社会の闇 「強制労働」事件の真相

2007年5月、私は初めての特派員生活を上海で始めた。摩天楼や近代的なショッピングモール……。他の都市と比べても飛び抜けてあか抜けた印象だった。

目抜き通り「南京西路」沿いの高級ホテルに併設されたオフィス棟に支局があった。特派員は1人だけで、日本語が堪能な若手の女性助手が2人と年配の運転手の計3人の現地職員がいた。

上海の特派員は、地元ニュースの取材はもちろん、中国各地へのアクセスが良いため、重大事件が起きたら真っ先に現場に駆けつける役割だった。

赴任後、最初に印象に残った取材が「闇れんが工場事件」だった。全国で誘拐された未成年や知的障害者ら数百人が山西省などのれんが工場で過酷な労働を強いられていたことがわかり、警察が一斉に摘発した。

さっそく検挙された工場の一つに向かった。乾燥した黄土高原に位置する山西省洪洞県の貧しい村にその工場があった。れんがを焼いた窯のほか、誘拐された人々が寝泊まりしていた小屋もあった。

窓はれんがで塞がれ、ぼろぼろの布団やすり切れた靴などが床に散乱していた。すし詰めで床に寝ていたという。扉は外から施錠できるようになっていた。かつて旅行で訪ねたナチス・ドイツのアウシュビッツ強制収容所を思い出した。

誘拐された未成年者らが働かされていたれんがの窯=2007年6月17日、山西省洪洞県、西村大輔撮影

山西省洪洞県の位置=Googleマップより

村民に話を聞くと、「実態は知らない」といった答えが多かったが、中には「工場の経営者は温厚で、怒鳴ったところを見たこともない」「労働者は良い食事をもらっていた」と話す人もいた。

腑(ふ)に落ちないまま、取材の帰りに出会った隣村の男性に話を聞いた。彼は買い物や散髪などで工場から出てきた労働者らを何度も見たことがあった。彼らは傷だらけで、棒を持った男がいつも同行していたという。

男性は「村人はみんな知っていた。でも工場の経営者は村の共産党書記の息子だ。乱暴で、怖くて文句が言えなかった」と話した。経営者は逮捕されたが、村民は彼が戻ってくるのを恐れていた。寒々とした気持ちになった。

中国は高度経済成長の真っ最中で、至る所でマンションや商業施設などの建設工事が進み、れんがの需要も急増していた。利益を上げるためなら誘拐さえいとわない悪質な業者の存在は、めざましく発展する中国社会の深い闇を映し出していた。

誘拐された未成年者らが寝泊まりしていた小屋の内部=2007年6月17日、山西省洪洞県、西村大輔撮影

連れ添った妻との別れと心の空白 四川大地震の被災地で見た無情

当時は各地でデモや暴動などが起き、頻繁に出張していた。そんな折、私生活で大きな転機が訪れた。

11年間連れ添ったアフガニスタン系ロシア人の妻ナターシャと別れることになった。

モスクワで結婚してまもなく私は新聞記者になり、小樽や水戸、東京で忙しい日々を過ごしてきた。アフガニスタンのダリ語やロシア語、英語、日本語を使いこなすナターシャは、北海道や東京を拠点に通訳として働いていた。

ナターシャは愛妻弁当を作って職場に届けてくれるなど、私たちは周囲から「おしどり夫婦」と言われてきた。

でも、今から振り返れば、私が仕事に没頭する中、ナターシャは寂しい時間を過ごすことが多かったに違いない。特に警視庁クラブ時代は一年中、早朝から深夜まで取材に追われ、夫婦でゆっくり過ごす時間はほとんどなかった。私がようやくつかんだ記者の仕事に打ち込めるよう、愚痴も言わず励ましてくれた。

だが、私が気付かないうちにナターシャの心は少しずつ離れていったのだろう。2007年末にナターシャは別れを切り出した。

ずいぶん長い間話をした。彼女の言葉から、私たちの関係はもはや元に戻らないことを悟った。胸にぽっかりと穴が開いたようだった。

そんな心の空白を埋めるかのように、翌2008年は激動の1年だった。チベット騒乱、四川大地震、北京五輪など歴史的な出来事が重なり、息つく暇が無いほど忙しかった。

5月12日午後2時28分、四川省の山間部にある汶川(ウェンチョワン)県で巨大地震が発生した。死者・行方不明者約8万7000人の大惨事となった。

取材班は省都・成都のホテルに陣取った。被災地からはかなり離れているので、早朝に自動車で出発し、数時間かけて被災地に到着。明るいうちに取材して、夜に再び成都に戻ってくる生活が続いた。

北京五輪を控えた中国での大震災とあって世界中が注目した。私たちも日々大量の記事を発信していた。

震源地の近くに位置する映秀という町を初めて訪れたときは言葉を失った。市街地はまるで爆撃を受けた後のように大半の建物が崩れ落ちていた。

地元の中学校は5階建ての校舎の1、2階がつぶれて3階建てのように見えた。現場近くで知り合った馬帥君(14)の話が印象的だった。

震災当日の朝礼で、教師が午後の授業を10分間繰り上げて午後2時20分に始めることを生徒に伝えた。運動会の練習などのために授業時間を割いたため、授業時間を少しでも取り戻すことが目的だった。通常は午後0時30分から2時30分まで昼休みで、大半の生徒は授業開始を知らせるチャイムが鳴るまで屋外で遊ぶのが常だった。

だが、その日は10分間繰り上げたため、生徒は2時20分に教室にもどり着席した。地震が起きたのはその8分後だった。馬君は窓から飛び降りて助かったが、大勢の生徒が逃げ遅れて亡くなった。

「いつもならあの時間、僕たちは外にいた。授業がいつも通りの時間だったら、親友は死なずに済んだかもしれない」。馬君はそう言ってうつむいた。

校舎が倒壊した時の様子を語る馬帥君=2008年6月、四川省映秀、日吉健吾撮影

被災地のあちらこちらで、ちょっとした巡りあわせが生死を分ける無情なドラマが展開していたに違いない。

四川大地震では数千人の児童・生徒が校舎の倒壊で死亡したことが問題視された。校舎の手抜き工事が横行し、耐震性がきわめて脆弱(ぜいじゃく)だったからだ。

私が取材した都江堰(トゥーチアンイエン)市の小学校では約240人の児童が死亡したとみられていた。親たちは地元当局に抗議しようと学校で座り込みを試みたが、警察が学校周辺を封鎖して立ち入りを禁じた。現場で取材していた私たち報道陣も力ずくで排除された。当局の理不尽な対応に怒りがこみ上げた。

四川省汶川県の位置=Googleマップより

相次ぐ警察の拘束と厳重監視 五輪の陰で見た「チベットの現実」

甚大な損害が出た北川県にも足を運んだ。山の谷間の町に通じる道路を警察が封鎖していた。

私と助手は近くの住民の手引きで、裏道を通って町に入ることが出来た。無数の建物が倒壊した凄惨(せいさん)な風景の写真を撮っていると警官に見つかり、何の法的根拠もないまま拘束された。

私たちは検問所に張られたテントの中で数時間にわたって事情聴取を受け、撮影した写真のデータは削除された。

中国では取材中に警察に拘束されることは珍しいことではない。その後も私は何度も警察に拘束されることになる。

そうこうしているうちに、8月の北京五輪が近づいてきた。私はなぜか五輪期間中、チベット自治区にいた。

チベット自治区ラサの位置=Googleマップより

海外メディアが自治区に入るには当局の許可が必要で、これまで何度も取材申請をしてきたが、なしのつぶてだった。特に3月にチベット自治区の中心都市のラサなどで反政府暴動が発生したため、当局は海外メディアの取材に慎重だった。

ところが8月になって突然許可がおりた。五輪期間中であれば、海外メディアも批判的な記事は書かないだろうと当局は考えたのかもしれない。

ラサ市内で、朝から晩まで当局が用意した日程に沿って取材した。行動を監視するためか、地元政府職員が常に同行した。

市内には割れたガラス窓や火災で焦げた跡が残る壁など騒乱の爪痕が随所に残っていた。大通りの交差点には武装警察が陣取って周囲に目を光らせていた。市中心部にあるジョカン寺前の広場では、数分おきに小銃を構えた部隊が巡回していた。

北京のお祭りムードとは裏腹に、ラサには張り詰めた空気が漂っていた。

チベット族の家庭を訪問し、家族と一緒にテレビで五輪を観戦した。年金生活を送る共産党員の男性は「毎日観戦し、中国の選手を応援しています」と笑った。

チベット騒乱について感想を聞くと「チベットは歴史上最も幸福な時代を迎えています。(チベット仏教の最高指導者の)ダライ・ラマの時代こそ奴隷社会でした」。彼の横で、地元政府職員がメモをとり続けていた。

一日の日程が終わると夕方以降は自由時間となり、同行していた職員も帰った。私の取材はそれからが本番だった。街頭で声をかけてみると、昼に聞かされたのとは全く違う話が聞けた。

40代のチベット族の僧侶の言葉が忘れられない。「チベット族は五輪で漢族が負けると喜んでいる。当局批判につながる意見は家庭でも話すことがはばかられ、特別な許可証がないとよその街にも行けない。五輪がもたらしたのは恐怖と不自由だけだった」。これが当時のチベットの現実だった。

チベット自治区ラサ市中心部のジョカン寺周辺で、頻繁に巡回していた武装警察部隊=2008年8月21日、西村大輔撮影

上海を去る悲しみ ともに駆け抜けた「戦友」との絆

2009年初めに東京本社から電話があり、4月から瀋陽支局への異動を命じられた。

特派員の標準的な任期は3年だったので、2年目の突然の異動に驚いた。世界金融危機(リーマン・ショック)による業績悪化を背景に、本社が海外総支局の統廃合と特派員の再配置を進めた影響だった。

住み慣れた上海を去るのは残念だった。何よりも寂しいと感じたのが、助手の戴さんとの別れだった。

彼女とはチベット自治区や四川省をはじめ中国全土を飛び回り、一緒に警察に拘束されるなど苦楽をともにしてきた「戦友」だった。情報収集能力が優れていただけでなく、明るい性格で取材相手とすぐに打ち解けた。必要な情報が取れるまで取材を重ねる妥協しない姿勢にも感心した。

いつも笑顔を絶やさない穏やかな性格である一方、政府や共産党の不正に対しては厳しく批判する芯の強さも持ち合わせていた。私の心の中で彼女は、同僚という枠を超え、とても大切な存在になっていた。

重病で入院していた彼女の父親を一緒に見舞いに行った帰り、私は自分の正直な気持ちを打ち明けた。彼女も同じ思いでいてくれた。

私たちはしばらく上海と瀋陽の間で遠距離恋愛を続け、2010年6月に結婚。瀋陽は中国東北部の遼寧省の省都で、かつては奉天と呼ばれ、旧満州国の拠点都市だった。

上海時代とは違い、瀋陽支局の主な取材対象は国境が近い北朝鮮だ。そんな街で、私たちの新婚生活は始まった。(続く)

瀋陽の位置=Googleマップより