【旅する記者⑩】北朝鮮指導者の訪中を追跡! 緊迫の中朝国境、脱北者の過酷な現実
瀋陽の位置=Googleマップより
2009年4月、中国遼寧省にある瀋陽支局での勤務が始まった。瀋陽市はかつて「奉天」と呼ばれ、旧満州にあたる中国東北地方を代表する大都市だ。それでも、きらびやかな上海から来ると寂しく感じられた。
支局が管轄する遼寧省、吉林省は北朝鮮と国境を接するだけに北朝鮮は重要な取材対象だ。赴任まもない5月25日には、北朝鮮が3年ぶり 2度目となる地下核実験を強行した。私はさっそく中朝国境の吉林省延吉という街に向かった。
核実験場から百数十キロしか離れていないこの街の学校では、地震のような揺れを感じた生徒らが校庭に避難する騒ぎが起きていた。女子生徒(14)は、「校舎が崩れるかと思い、恐ろしかった」と話した。
産婦人科病院では、臨月を迎えた30代の女性が「こんな近くで核実験をしたら子供に影響があるはず。無責任だ」と怒っていた。
当時、深刻な食糧難が続いていた北朝鮮から中国に逃げ出す「脱北者」が後を絶たなかった。私は脱北者を取材したいと思い、様々なルートで対象者を探した。この年の秋、吉林省の農村で農民の妻になっている脱北者がいるとの情報が入った。
山村の質素な農家に足を踏み入れると、ピンクのセーターを着た30代の脱北者の女性が床に座っていた。傍らにいた中国籍の朝鮮族の夫に話を聞くと、「6000元(当時のレートで約7万8000円)で妻を買いました」と話した。
女性は「夫はよくしてくれます。毎日腹いっぱいお米が食べられて幸せです」と、うつむいたまま話した。
女性は北朝鮮で父母を亡くし、独りで農業をしていた。肉や魚はもちろん米さえめったにありつけない。トウモロコシの粉と白菜を煮たものばかり食べていたという。市場で知り合った女性に「中国はいいよ。良い男性のところへ嫁げる」と誘われ、脱北を決意した。
この女性ブローカーの案内で中朝国境を流れる幅20メートルほどの川に飛び込み、必死に泳いだという。国境警備隊に見つかれば射殺されるかもしれない。対岸に着くと、待機していた中国側の仲介業者の車でどこかへ連れて行かれ、今の夫を紹介された。
飢える心配はなくなったが、不法滞在なので正式な結婚はできない。警察に見つかれば強制送還のおそれもあり、不安な日々が続く。せめてもの救いは、朝鮮族が大半を占める住民が脱北者の境遇に同情的なことだ。警察に通報するような住民はいないという。
脱北者の女性たちが売春婦として中国各地の風俗店に売られるケースが多いことも取材でわかった。祖国での暮らしが立ちゆかず、命がけで中国に逃げた後も厳しい現実が待っている。脱北者たちの切ない境遇に心が痛んだ。
このころ、私は韓国人の「兄貴」ができた。韓国の通信社・聯合ニュースの瀋陽支局長だった朴鍾国記者だ。
私より10歳ほど年上のベテランで、取材で顔を合わせるうちに親しくなった。仕事が終わるとよく韓国料理店に飲みに行った。私は朴さんを韓国語で「兄貴(ヒョンニム)」と呼ぶようになり、家族ぐるみで付き合った。
朴さんに誘われて、瀋陽駐在の韓国人ビジネスマンの宴会に顔を出した。私が名刺を配っていると、途中でなくなってしまった。その直後にあいさつに来た韓国人の男性が、私が名刺を出さないのは非礼だととがめ始めた。酔っ払っていたようだ。私は重ねてわびたが、しつこく絡んできた。すると朴さんが割って入り、この男性に怒鳴った。
「こいつは俺の弟だ。名刺を切らしたぐらいで文句いうな。彼は日本人だが韓国にとても理解がある記者だ。お前が謝れ!」
韓国人の集まりでも、臆せず私をかばう朴さんを見て、本当の兄貴だと感じた。私たちはその後も北朝鮮関連の情報交換をしたり、時には一緒に取材に出かけたりした。
2010年5月2日、瀋陽から吉林省の省都・長春に向かう特急列車の座席でうとうとしていた時、突然携帯電話が鳴った。北朝鮮の動向に詳しい関係者からだった。
「金正日(キムジョンイル)総書記が今日にも訪中するかもしれない」
すぐに支局の助手に連絡し、中朝国境にある遼寧省丹東市のホテル「中聯大酒店」に宿泊できるか確認してもらった。丹東市は国境河川の鴨緑江を挟んで北朝鮮新義州市と向かい合い、「中朝友誼橋」で結ばれている。移動に列車を使う金正日氏が訪中するとすれば、この橋を渡る可能性が高い。ホテルの客室からは中朝友誼橋が一望できる。
折り返し電話をかけてきた助手は「ホテルは今日から3日間は休業です。警察から『国家1級警備』のためだと連絡があったそうです」と話した。私は金正日氏がまもなく丹東にやってくると確信した。長春駅に着くと、取材をキャンセルしてタクシーに飛び乗り、6時間かけて丹東に向かった。
現在の指導者である金正恩(キムジョンウン)総書記は、シンガポールなどでトランプ米大統領と首脳会談をするなど露出度が高い印象がある。だが、父親の金正日氏はあまり外遊をしない、謎めいた指導者だった。
夕方に着いた丹東市内は平穏に見えたが、駅前の駐車場は空っぽで、客待ちのタクシーもない。橋に近いホテルはすべて休業し、北朝鮮を望める部屋はすべて暗かった。私は金正日氏の中国入りをいち早く確認するため、橋の近くの公園で待つことにした。同じく丹東にやってきた読売新聞の記者と2人で何時間も公園で時間をつぶした。
3日に日付が変わったころ、警察官数人が突然公園に現れた。警棒を私の胸元に突きつけて「こっちへ来い」と命じた。私たちは強引に手を引かれ、近くの白いワゴン車の後部座席に押し込められた。鉄格子がはめられた薄暗い車内で、携帯電話も取り上げられた。
警察官は取材の目的をしつこく聞いてきた。私たちは「北朝鮮の指導者が訪中するかもしれないと聞いて取材に来ただけだ。違法なことは何もしていない」と主張した。警察官は「なぜ、そんな重要な秘密を知っているのだ」と不審そうに聞いてきた。
金正日氏の訪中の可能性を伝えるニュースはすでに以前から世界で報じられているというのに……。
2時間近く取り調べを受け、午前2時ごろに解放された。
金正日氏が中国に入ってきたのは午前5時過ぎだった。徹夜で疲れ切っていたが、これからが取材の本番だ。訪問先や行事日程などは一切公表されない。日本や欧米、韓国、香港などのメディアが一斉に追跡取材を始めた。大連、天津、北京など行く先々で厳重な警備が敷かれた。
金正日氏は胡錦濤(フーチンタオ)国家主席(当時)と北京で会談し、経済関係の強化などで合意した。
金正日氏は、2011年末に死去する前の2年間で立て続けに4回も訪中した。そのたびに、私たちは彼らを追いかけ回した。今から思えば、息子の新体制に向けた環境整備に父親が死の間際まで奔走していたのだろう。
北朝鮮に入って取材する機会にも恵まれた。2011年10月にロシア極東のハサンと北朝鮮北東部の羅津港を結ぶ鉄道の改修事業が終了し、貨物列車の運行が再開した。これに合わせてロシアの鉄道会社が取材ツアーを企画したのだ。
ロシア側から列車で国境を流れる豆満江を渡った。カーキ色の軍服を着た厳しい表情の国境警備隊員が、線路沿いに並んでいた。車窓からはすでに収穫を終えた田畑が広がり、農村が点在していた。
街並みは古びて、道行く人々の服装も質素だ。式典会場に近い豆満江駅で、入国手続きのために列車に乗り込んできた北朝鮮の税関職員は、「我が国は良いところです。また来てくださいね」と笑顔で話しかけてきた。
式典には、ロシアと北朝鮮の政府代表や鉄道工事関係者らが出席した。色とりどりのチマ・チョゴリを着た数百人の女性たちがいたのには驚いた。高官らのスピーチが終わるたびに、笑顔で拍手をしたり、手に持った花を振ったりしていた。
帰りの列車の出発まで、ロシア人記者と駅周辺を散策した。閑散とした街で社会主義的なスローガンが目立っていたが、商業的な広告はほとんどなかった。
所々で治安機関の職員とみられる男たちが、私たちの行動に目を光らせていた。ロシア人の記者は「ソ連時代そのままだな」と感慨深げだった。雑貨店に入った。北朝鮮製の酒や朝鮮人参などがあったが、衣料品など日用品の大半が中国製だった。ロシアの通貨ルーブルが普通に使えた。
私の家族にもニュースがあった。2010年11月に待望の長女が生まれたのだ。
雪が降る寒い日に、病院の薄暗い待合室で待っていると呼び出された。手術室に通じる扉が開くと、白いタオルでぐるぐる巻きにされ、顔だけ出ているかわいらしい赤ん坊が看護師に抱かれていた。初めて迎える新しい家族の小さな命に心が震えた。
上海人の妻は、「欖(らん)」という名前を提案した。26画もあるこの漢字を私は知らなかった。中国語でオリーブという意味だ。オリーブは平和の象徴。近代の日本と中国は戦争や外交的な対立を繰り返してきた。せめて日本人と中国人の間に生まれた娘の生きる時代は、日中関係が平和になってほしい。そんな思いを込めたという。私は妻の説明を聞いて、すぐにこの名前が気に入った。
さっそく在瀋陽日本国総領事館に出生届を提出しに行った。ところが担当者は、「欖」という漢字は戸籍法で使用が認められていないので受理できないと言った。「『蘭(らん)』ではいかがですか?」と聞いてきたが、それでは私たちの思いは伝わらない。
結局、戸籍上は平仮名の「らん」にするが、日常生活では「欖」の字を使っていくことにした。
2011年暮れ。東京の上司から電話がかかってきた。
「ウラジオストクに赴任してもらう」
私は耳を疑った。上海、瀋陽での勤務が計5年となり、そろそろ日本に帰る時期だと思っていた。それに、ウラジオストクには支局など存在しない。いったいどういうことなのか。上司に尋ねると、ウラジオストクに新しい支局を開設するのだという。
ウラジオストクは東アジアの真ん中に位置するだけに、中国語とロシア語を話せる私が適任ということになったらしい。
私は年明け早々、開設準備のためにウラジオストクに入った。行政手続きや事務所探し、現地助手の採用などすべてゼロから立ち上げねばならない。寒風が吹きすさぶウラジオストクの空港にぽつんと一人で降り立った時、底知れぬ不安がこみ上げてきた。(続く)
ウラジオストクの位置=Googleマップより