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米名門スミス大、アジア人初の留学生「テイ・ニノミヤ」 子孫に伝えたい功績とは

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テイ・ニノミヤさん⁼スミス大学提供

1900年代初頭に単身渡米し、名門女子大学のスミス大学を卒業した日本人女性がいる。テイ・ニノミヤさん。アジア人初の卒業生として大学から顕彰され、学生寮の名にも冠される存在だが、日本に残る資料は乏しく、名前の表記すらはっきりは分かっていない。論文などからは日本女性の地位向上を目指した、ひたむきな姿が浮かび上がる。

スミス大学によると、ニノミヤさんは松山市出身。1887年に生まれ、1903年に10代半ばで渡米。牧師だった父の友人家族の家に身を寄せた後でスミス大に進学し、1910年に卒業した。在学中は大学が手配した宿舎で暮らした。

津田塾大を創立した津田梅子が渡米したおよそ30年後に米国に渡った。まだ女子の高等教育も、留学も非常に珍しかった時代に、何を志して渡米し、学んだのか。それが垣間見えるのが、1907年に大学の月刊誌に寄せた論考「日本人女性の状況」だ。

大学キャンパス内にある学生寮の一つは、三つの棟から成る。そのうち真ん中の建物がニノミヤ・ハウス(Ninomiya House)だ⁼スミス大提供

論考では、儒教の説く「女徳」に影響されてきた女性に対する社会の価値観について明治維新後の変化を指摘。「この30年で女子校が増えて、多くの仕事が女性に開かれるようになり、自立という考えも徐々に根付き始めた」などとしつつ「現在の公教育で欠けている視点は、女性を個人として捉える考えだ」などと強調している。

在学中に文芸サークルのアルファ・ソサエティーのほか、哲学や化学、天文のクラブや、東アジアに起源を持つ思想に関心を持つメンバーでつくるオリエンタル・クラブに所属していたという記録から、少しでも多くのことを吸収しようという好奇心旺盛な姿が垣間見える。

キャンパスにある学生寮に名前が冠され、ニノミヤ・ハウス(Ninomiya House)の説明が掲げられている⁼スミス大学提供

大学の資料などによると、卒業後は日本に帰国。内務官僚だった藤田傊治郎さんと結婚し、台湾や広島に暮らしたという。YWCAや日本赤十字社の運営にたずさわるなど、女性や子どものための社会奉仕活動に取り組み、1949年に東京の自宅で家族に見守られて亡くなったという。

スミス大学では、ニノミヤさんは多様性や包摂性を象徴する存在だ。2016年には、新しく建てた学生寮の一つが「ニノミヤ・ハウス」と名付けられた。ほかの最初の黒人やネイティブアメリカン、ラテン、中東出身の卒業生とともに顕彰された形で、キャスリン・マッカートニー学長(当時)は「先駆者となった女性たちをたたえるとともに、スミス大をより包摂的なコミュニティーにするという私たちの決意を改めて示す機会になる」と強調した。

スミス大のキャンパスの中央にあるシーリー・ホールという建物の一角に写真を展示する場所があり、テイ・ニノミヤさんの写真(右下)も飾られている⁼スミス大提供

さらに2019年には、学生たちから「初期の有色人種の学生たちをたたえたい」と声があがり、展示企画が実現。その後も学内のシーリー・ホールには、黒人、ネイティブアメリカンらの最初の卒業生とともに、肖像画が掲げられている。

日本YWCAの機関紙を合本した不二出版『女子青年界』には、二宮貞子の名前と津田梅子の名前が、同じ会議の同じ会議の出席者として掲載されていた⁼2026年7月、東京都千代田区、藤崎麻里撮影

帰国後の足跡をたどって、記者は今回、日本赤十字社や日本YWCA、そして地元の大学などに問い合わせたが、ゆかりの人たちは今のところ見つからず、どのような人生を送ったのかについても不明なところが多い。

日本YWCAに残る資料をたどると、横浜YWCAの総幹事としてTei Ninomiyaの名前の記載があり、機関紙には1912年ごろから「二宮貞子(二宮貞)」名で執筆した論考が掲載されていた。1914年には法学士の藤田傊治郎さんとの結婚についても言及があり、その後は「藤田貞子(藤田てい)」「藤田天以」といった名前で書いていたとみられる。1921年には秋田市、1925年には旅順からコメントを寄せ、1942年には戦争についても踏み込んだ論考を掲載していた。

日本YWCAに残る資料には、後列右から4人目が藤田天衣さんとする写真が掲載されていた⁼2026年7月、東京都千代田区、藤崎麻里撮影

日本のスミス大同窓会である日本スミス・クラブでは、子孫を探している。このクラブの世話役で、スミス大を1978年に卒業した青木幸子さんは、2010年には元学長、2016年には前学長、この春には現学長が来日したので、その度に「手分けして、いろいろ調べてみたものの、ご子孫につながる情報の手がかりがつかめなかった」と振り返る。「100年以上も前にはるか海を渡ってアメリカの高等教育を受けた先輩がいたことに大きな勇気をもらいます。言語、文化の違う彼女を快く受け入れ、等しく学びの機会を与えてくれた母校ではアジアから来た初めての学生のことをしっかり覚えています。そのことをぜひ子孫の方にお伝えしたい」